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    親子チョコ💗(500冊以上の良質な書籍のご紹介)

    子どもたちの教育のため、また、その親である私たち自身が学ぶための、読まれるべき良質な書籍のみをご紹介させていただきます。

     >  国史 >  「壁」が無かった『平城京』 ~ ローマの「道」と支那の「壁」との違い

    「壁」が無かった『平城京』 ~ ローマの「道」と支那の「壁」との違い

    朱雀門 2
    朱雀門(すざくもん)は、平城京平安京といった条坊都市の宮城(大内裏)において南面する正門。宮城の12の門のうち最も重要な門であった。


    戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。

    そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

    私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、

    客観的に情勢を判断する必要があります。

    知っているようで、実はキチンと知らない私たち日本の「国史」。

    私たち日本人の祖先が、どのようにして歴史を紡いできたのでしょう。

    それでは、この書物を見ていきましょう!




    『  日本文化大きく花開いた奈良の時代とは、どんな時代だったのでしょうか。

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     聖徳太子のいう「和」の精神は広まっていました。むろん人間のことですから、この時代にも怨恨はありました。争いもありました。しかし、【歴史を否定的に見て、そのことを過剰に取り上げるような史観はもう終わりにしなければならない】と思います。

    驚き顔

     人間の間には争いはつきものでも、それを超える「和」の精神と文化創造があれば、そんなことは小さなことにすぎませんギリシャ文化が花開いた古代ギリシャがそうでしたルネッサンス文化が花開いたルネッサンス朝のイタリアがそうでした。そして、【飛鳥時代から奈良時代にかけての文化史は、ギリシャ文化史、ルネッサンス・イタリア文化史に匹敵するもの】なのです。この時代に触れるのは、日本の歴史を語る喜びでもあるのです。

    遷都

     これまでの日本の首都は天皇がかわるごとに大和(いまの奈良県)を中心に動いてきました【首都は動くものだった】のです。

    驚き 2

     日本の家屋は木造です。石造に比べたらはるかに建築が容易です。伊勢神宮出雲大社など大きな神社には20年に1度、あるいは60年に1度というように、一定の周期で社殿を新しく建て替える風習がありますが、これができるのも木造だからです。…

    出雲大社
    出雲大社 平成の大遷宮 (出雲大社HP

     しかし、律令制度※が整って、国が大きくなりました。その大きさに見合った首都が必要になってきました。

    ※大宝元(701)年、【大宝律令】が施行されました。「律」「してはいけない」という、いまの言葉でいえば刑法です。「令」「しなくてはならない」という行政法です。…このときにつくられた役所の仕組みは明治になるまで千二百年近く続くものになりました。「大臣」という職名もこのときから使われているのです。

    平城京
    平城京跡

     和銅三(710)年、奈良に【平城京】がつくられました。およそ4キロ四方の土地を南北に長いやや長方形に仕切り、広い道路で碁盤の目のように区画されました。その北の中央に置かれた区画に、天皇の住居や役人の邸宅が建てられました。飛鳥から寺院が移され、官営の市場も設けられました。

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    平城京復元図

     平城京は唐(唐の支配民族は漢人ではなく「鮮卑」と呼ばれる北方の遊牧騎馬民族です)の都長安に似せてつくられたといわれます。

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    平城宮復元図

     ですが、【決定的に違っているところ】がありました。

    平城宮跡
    平城宮跡

     中国の都市は【頑丈な城壁】で囲まれています

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     長安外からの敵を防ぐ【外壁】と、内部の人々を監視する【内壁】と、【二重の城壁がめぐらされ】ていましたが、平城京にはそんなものはありませんでした。

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     【外から侵入する敵を防ぐ必要も内側の人々が騒ぎを起こす心配もなかったから】です内も外も本当に平和だったのです。「和」の精神があったからです。』

    朱雀門
    朱雀門復元

    日の丸

    いかがでしょうか?

    遊牧騎馬民族である鮮卑(せんぴ)族が治めた「唐」の都市を真似て造った平城京でしたが、遊牧騎馬民族・鮮卑(せんぴ)人の国である「唐」の都市と、決定的に違っていることが、良く分かりますね♥

    「壁」といえば、万里の長城(というか「万里の長壁」ですけど♥)があります。この「壁」紀元前3世紀から、なんと16世紀まで造り続けられていました。つまり、約1800年もかけて長さが5000キロにもなる「壁」を、延々と造っていたんです♥

    驚き 2

    しかし、この「壁」(万里の長壁)は、無駄に長いだけで、少しも美しくも無く人々を感動させることもありません。この「壁」イメージさせるのは、「戦乱」ですね♥ 私たち日本人は、このような「壁」には、まったく魅力を感じません。それどころか、忌み嫌うべき対象ですね♥

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    現在のローマ

    他方、同じ時代(紀元前3世紀)、ローマでは、「万里の長壁」とは比較にならない歴史的建造物が造られていました。

    それが、人類最古の高速道路である「ローマ街道網」です。その建設は、紀元前3世紀から2世紀までの約500年間に渡りますが、幹線だけでも8万キロ(=万里の長壁の16倍)、支線まで加えれば15万キロ(=万里の長壁の30倍)にもなりました。まさに、圧巻ですね♥

    詳しくは、こちらをご参照♥

    「壁」が良いのか、「道」が良いのか♥



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    アッピア街道

    続きは次回に♥




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