「慶安の御触書」はでっちあげだった♥

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    慶安御触書(けいあんおふれがき、慶安のお触書とも)は、江戸時代の第3代将軍徳川家光期にあたる慶安2年(1649年)に、江戸幕府が農民統制のために発令された幕法とされている文書。現在では幕法ではなく、元禄10年(1697年)に甲斐国甲府藩領で発布されていた農民教諭書が慶安年間の幕法であるとする伝承が付加され広まったものであると考えられている。近年では「慶安御触書」を記載しない歴史教科書も多くなっている。

    日ノ丸

    日本の新聞やテレビなどのメディアが報じる嘘と同じように、

    実は学校の教科書でも「嘘八百」が並べられているのが現実です。

    そのような「嘘」を見抜くための、参考書となるのがこの本です♥

    それでは、一緒に見ていきましょう!


    あなたの習った日本史はもう古い!あなたの習った日本史はもう古い!
    (2013/11/26)
    荒木 肇

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      教科書は変わる。社会の変化があり、研究も進んでくる。その時代の教育課程にしたがった教科書の記述の中身も変わる。教科書「で」教えると言いながらじっさいは教科書「を」解説するのが現場の授業だから、教科書の変化は影響が大きい。

     新しい研究成果が出されると、学会では専門の研究者たちがその妥当性を討議する。多くの人に認められると、それが学界を代表する定説となる。続いてそれが教科書会社の執筆者会議の議題になり、現場の教員の代表者たちと学者たちが集まって話し合う。そこでは新しい記述案が出される。教科書会社は、これをまとめて検定前の「白表紙」という形にする。最後に文部科学省の教科調査官がそれを審査する。

     この一連の流れにはひどく時間がかかるおおよそ30年という。30年といえば一世代であり、父母や子供とは教科書の内容が違っていて当然である。

    貧農史観を見直す (講談社現代新書)貧農史観を見直す (講談社現代新書)
    (1995/08/10)
    佐藤 常雄、大石 慎三郎 他

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    「慶安の御触書」はでっちあげだった

     佐藤常雄筑波大学教授は『貧農史観を見直す』の中で農民が「稗・粟などの雑穀ばかり食べて、武士による苛斂誅求にあえいでいた」という俗説を真っ向から否定した。従来いわれてきた数々の定説は、農業史から見たらほとんどが根拠のない話だった江戸時代の農業生産力は現在とほとんど変わらないこと幕末に出版された多くの農業書の内容の豊かさなどから見ても「貧農」という思い込みは捨てなければならない

     さらには、士農工商という序列を表す言葉がある。これは事実だったのか?「水呑百姓(みずのみびゃくしょう)」という言葉は、ほんとうにその実態を表わしていたのだろうか?

     ある資料によると、大きな回船問屋を営んでいた富豪が人別帳ではなく「水呑」と表記されていた。その商人は米を生産する土地を持っていなかったからである。当時、実体経済はカネで動いてはいたものの、身分などの規程では米の取れ高(石高)を指標としていた。そういう社会の仕組みがあったということになる。

     「慶安の御触書(けいあんのおふれがき)」という、たいていの大人なら誰でも知っている史料がある。昭和の・・・教科書には(次のように記されている)・・・江戸時代というのは支配階級である武士が威張り、被支配階級の商人や農民や工人は見下されていた。農民は序列こそ二番目だったが、ひどく搾取されていた存在だった。その表れがこのような幕府発行のお触書にも示されているという。いわゆる「貧農史観」である。

     それが平成の教科書を見ると、次のように変わっている

     「領主・代官を敬い、名主・組頭を真の親と思え。略、酒茶を買って飲んではいけない。麦・あわ・雑穀などをつくり、米を多く食いつぶさぬようにせよ。百姓の衣類は麻布・木綿にかぎる」・・・

     「幕府が1649年に出したと伝えられる」・・・

    トーンダウンした記述に変化している。

     山川出版社の高校教科書では、「慶安の御触書」は跡かたもなく消え、代わりに1642年の「農村法令」と銘打ったものがある。一部をあげてみると、

     「庄屋は絹・紬(つむぎ)・布・木綿を期すべし。わき百姓は布・もめんたるべし嫁とりなどに乗物無用の事荷鞍に毛氈(もうせん)をかけ、乗り申すまじき事」と書いてある。また、欄外に注として、「慶安の御触書が有名であるが、最近はその存在に疑問が出されている」と明記している。

     こうしてみると、昭和の時代は「百姓は支配され、厳しく統制され、苦しい生活を強いられていた」という解釈がまかり通っていた。それが新しい発見がされるにつれ、だんだんと記述に変化がみられてきているのだ。興味深いのが、山川出版社の教科書の記述である。「農村法令」は・・・禁令だからほっておいたら守らないことばかりが書いてあるはずだ・・・法令の裏を読めば、庄屋は言うまでもなく、「わき百姓」たちまで自由に絹・紬を着たのだろう。花嫁は駕籠に乗ってやってきたのだ。乗馬用の鞍を着ければ言い訳のしようがないから、荷役用の鞍に毛氈をかけて乗る人もいたに違いない。

    驚き顔

    いかがでしょうか?

    私も「士農工商」という言葉を学んだときに、疑問に思いました。

    上から二番目なのに、それなのに学校の先生は、一番貧しかったと断定してましたから♥

    おかしいですよね?それだったら「士工商農」とかになると思ったんです。。。

    戦後の学校の先生は、戦前の先生とは違って、知識に乏しいのが良く分かりますね♥

    スキルアップしないような学校の先生は、民間企業ならば、決して通用しないですよ~


    続きは次回に♥


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    (2013/11/26)
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    Category: 国史
    Published on: Sun,  30 2014 01:51
    • Comment: 2
    • Trackback: 0

    2 Comments

    うさぎ屋  

    こんにちは

    どこを見ても内容の濃いお話で・・・・「慶安の御触書」が目に留まりましたので、こちらにコメントさせていただきます。
    朝早く起きて縄を編め、草とりをしろ、一日中働け。また、物見遊山好きの金使いの荒い女房は離縁しろ。なんて書いてありますが、虐げられた農民というよりも、逆に農閑期に旅行を楽しんだり余裕のある(裕福)な人たちだから、そう言わなければならなかったとも考えられます。庄屋制度があったり、豪農と呼ばれた人もいた。庄屋の中には士分に列せられた者もいたわけですから。

    確か、煙草は腹の足しにもならないから飲むな、とありました。家光公は煙草嫌いで、江戸城内全館禁煙にしてしまったそうですから、将軍様の御意向に沿った御触書と見れないこともありません。
    私も自分のこの目で見てきたわけではありませんが、歴史はおもしろいですね。

    2015/02/26 (Thu) 12:20 | REPLY |   

    みっちゃん  

    No title

    ご訪問ありがとうございま~す♥
    江戸時代にも「禁煙」があったんですね!知りませんでした~
    歴史は面白い、全く同感です♥

    2015/02/26 (Thu) 17:27 | REPLY |   

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