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    中国は、こうして騙されたんです♥

    みっちゃん

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    五・三〇事件を風刺した当時のプロパガンダポスター

    五・三〇事件(ごさんじゅうじけん)とは、1925年5月30日に中国・上海でデモに対して租界警察が発砲し、学生・労働者に13人の死者と40人余りの負傷者が出た事件。1924年、第二次直奉戦争の余波で、中国国内は辛亥革命以来大規模な混乱を呈していた。特に、上海を含めた都心部は深刻なインフレに見舞われ、加えて孫文の死去(3月12日)以降国民党はそれら各都市での反帝国主義運動をますます活発化させていった。一方共産党も上海大学の学生らを中心として同様の活動を行っていた。上海に本来から居住していた中国人たちは、他の都市との結束力が強く、知識人たちは工場での劣悪な労働環境や検閲に、一方労働者達は租界の地方議会で可決された12歳未満の児童に対する労働禁止法に、それぞれ不満を抱いていた。 こうして、上海市民達は租界に対する反感をつのらせていった。

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    蒋介石

    排日の内容も時には(時とともに)変化があった

    排外運動が排日の形で出たのは当然であるが、

    その後ソ連の指導する中国共産党表はれるに従ひ、

    大正十二年頃から少し雲行きが変わってきた

    学生会のリーダーは、英米系基督教青年会の幹事から、

    何時の間にか共産主義青年会の幹部となり、

    排日から反帝国主義運動になったが、

    英米人は巧く泳ぎ回って、その鉾先を絶えず日本側に向けたのと、

    支那人の外人崇拝と日本軽視とは、

    日本人には(排斥運動を)やる外人には手を着け得なかった

    ただ反基督教運動だけは起こり、英米人経営の学校にストライキが起きたり、

    奥地にある宣教師が逃げ出したりして、宣教師の活動は振るはなくなったが、

    彼等の播(ま)いた排日の種子は既に生え、彼等はその任務を果たしたのであった。

    共産党が飛び出してから排日運動の中に労働者が加わって来た。

    それが著しく出たのは大正十四年の五卅事件(ごさんじゅうじけん)の時で、

    この時にはボイコットと共に労働者のストライキが加わり…

    日本人に食物も売らず日本銀行の紙幣を受け取らず

    日本船に乗らないといふ所まで行った。

    この騒ぎで共産党はまんまと上海の労働者組合を其の手に収めてしまった

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    英国製綿糸の対中国向け輸出高半減を伝える当時の新聞

    大正十五年の北伐(蒋介石の国民党軍が北方軍閥を倒して支那を統一しようとした内戦)には、

    国共合作(北伐で国民党軍と共産党軍が手を結んだ)であったため、

    ソ連と英国の仲の悪い時ではあり、

    反帝国主義運動の鉾先を先ず英国に向け

    武漢に飛び出して来た国民革命軍口々に「打倒英国」を叫び

    武漢政府(汪兆銘の率いる国民党政府)は漢口の英租界を武力で占領した。

    すると機を見るに敏なる英国は

    あっさりと漢口、九江の英租界を支那に返し反英の気を抜き

    今まで(イギリスは)北方軍閥派の討赤連合軍(共産党潰しを狙っていた北方軍閥)を助けていたのを、

    鮮やかに百八十度転回して、当時江西まで下っていた蒋介石と手を握り

    蒋介石に国共分袂(こっきょうぶんべい、蒋介石を説得して、共産党とたもとを分かつこと)の芝居を打たせ、

    蒋介石の共産党弾圧となり(それまでイギリスを敵視していた共産党を弾圧させるように仕向けた)、

    ソ連は英国に背負い投げを喰はさるると共に反英は又排日となり

    国民革命軍南京まで下って来ると、南京の日本領事館の襲撃が行われた。

    この蒋と英国の連合今日(昭和16年時点)まで続いている

    同時に排日も抗日から抗戦へ予定のコースを取ってきた。

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    結局のところ、蒋介石が、まんまとイギリスに操られて、最終的には日本との戦争に突入していったんですね♥

    (解説)
    まず軍閥とは、軍事力を背景とした私兵集団のことで、簡潔に言うと武装した暴力団。清朝滅亡後(1912年)、中国では各地で武装暴力団である軍閥が割拠していた。その様な中、蒋介石の軍閥(国民党)が「北伐」(1926~28年)と称して、南から北へ侵軍する事になる。そのきっかけは、北方の軍閥における内争であって、内争により南北軍閥間のバランスが崩れたのが基本的な流れ。


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    1910年代末の軍閥勢力図/『中国革命とソ連 抗日戦までの舞台裏【1917-37年】』

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    最終更新日2014-11-08
    Posted byみっちゃん

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