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    左翼の理想社会だった「ソ連社会主義の実態」は、こんな程度のものでした(笑)

    みっちゃん

    みっちゃん

    ピロシキ

    ソビエト連邦時代のロシアでは、ロシア料理の伝統壊滅的な状態に陥ったと言われている。

    社会主義体制内ではかつてのロシア帝国の上流階級は壊滅し、彼らのお抱えの料理人や、社交場であった高級レストランも失われる

    ソビエト連邦の指導者たち女性の家事労働からの解放を掲げ家事労働を少なくする試みを打ち出した。炊事の時間の削減の一環として、家庭外で食事を摂るための大規模な共同食堂が多く建設された。モスクワで設立された協同組合「人民の栄養」は、一度に3,000人分のシチーを調理できる「台所工場」という大規模な調理場を多く建設し、ここで作られた料理が労働者のための食堂に送られた。共同食堂の支持者は、経済面、栄養面、衛生面において家庭の料理よりも優れていると主張し、公共の食堂を家庭の食卓に取って代わる地位に置こうとした。1920年代から1930年代までは労働者のための公共食堂では安価で質の高い料理と良質なサービスが提供されていたが、公共の食堂が増えるにつれ食堂で提供される料理の質と種類は落ちていき、キャベツのシチーやソバのカーシャといった初歩的な料理のみが出されるようになった

    1930年代の半ばからスターリンの政府は、食事に困窮することのない「豊かで楽しい」国民の生活を前面に押し出した。映画、絵画、ポスターは集団農場での豊作を題材にとり、マスメディアは商店の豊富な品ぞろえを喧伝した。

    しかしソ連の食の実情政府の宣伝とは大きく異なっていた

    農業の集団化による農村の荒廃と、農業の集団化とともに実施された穀物の徴発1932年から1933年にかけてロシア、ウクライナ、中央アジア、コーカサスを襲った大飢饉を引き起こしさらに第二次世界大戦による国土の荒廃が生産に打撃を与えた農村の荒廃生産力を低下させただけではなく農村で食べられていた伝統的な料理を破壊した。ロシアの穀物不足を補うために中央アジアなどから穀物が輸送されたがそのためにウズベキスタンなどの地域で食料が欠乏する

    第二次世界大戦前にソ連が通商協定を結んでいたドイツと敵対するに及んでソ連の食料の不足は第一次世界大戦の時代よりも悪化する。コルホーズの収穫品生産者である農民の元には届かず農民たちは付属地で栽培したジャガイモによって飢えをしのいだ

    食品の生産と流通の過程では中間搾取と横流しが横行し、消費者の元に届いたときには低質な食材しか残されていなかった。時には、砂糖や小麦粉といった基本的な食材が店頭から消える事態も起きた。物資の不足により、レストランではメニューに載せられている多くの料理の中で実際に提供できる料理はその中の幾つかだけ、という状況が継続した。

    品不足のために市民は商店で物を買うたびに行列に並ばなければならず、また購入できる商品の選択の幅は極めて狭かった。食品の価格は政府によって低く抑えられていたが、ロシア人は収入の大部分を食費に充てていた

    市民めぼしいものがあればすぐ買えるように、アヴォーシカ(Авоська、「もしかしたら」の意)という網袋を持ち歩いていた








    戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。

    そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

    私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、

    客観的に情勢を判断する必要があります。

    それでは、この書物を見ていきましょう!




    『 トロイカによって処刑されず強制収用所へと移住させられなかった人々運命過酷極まりないものだった。ここからは現在の【ウクライナ】(当時はロシア)で【強制移住させられなかった人々を襲った運命】について述べてみたい。

    ウクライナ
    ウクライナ

     【ウクライナ】では、【スターリンの命】の下【集団化】が進められた農民たちに【土地の所有権を放棄させ、コルホーズに入るように指導がなされた】のである。農民たちは、自分たちの土地の所有権を放棄することに関して、徹底的に抵抗しただが、武器を持たず組織を作り上げることができなかったため、農民の抵抗運動、蜂起は大規模なものにまで展開することがなかった彼らせめてもの抵抗とばかりに、集団農場に取り上げられる前に、【自分たちで所有していた家畜を売ったり、処分した】スターリンは一時的に農民たちと妥協するかのように装いながらも、1931年までに農村の集団化を終えた

     悲劇はここから始まる

    ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン
    ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン

     1930年【ウクライナは豊作】であり、市場に【770万トン】もの穀物を供給した。これは非常に豊作であったからこその供給量だった。しかし【政府はこの豊作であった年の供給量を基準として翌年の政府への穀物の供給量を定めた】

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    1931年農場が集団化された影響もあり、収穫高が前年を遥かに下回った。優れた農業技術を持った人々が「富農」と断定され、強制収容所へ移送されたこともあったが、【農民たちの生産意欲が減退していた】ことも見逃すわけにはいかないだろう。【集団農場で栽培された穀物は、決して、自分たちのものにはならない】のだ。自分たちに無関係な穀物を熱心に作らなければならない動機が持てなかったのである。だが政府が求める供給量昨年と同様の770万トンであった

    女性 驚き 20

     【農民たちが穀物を隠蔽している】と疑っていた【スターリン】は、規定量を提出していない農民たちに【翌年の作付け用の種子も提出するように命じた】。だが、実際に人々は何も持ち合わせてはおらず、本当に作付け用の種子が提出させられることになった。

    女性 驚き 両手挙げる

     1932年の初め、【人々は飢饉を恐れ、助けを求めた】。ウクライナの共産党指導者たちもモスクワの指導者、【スターリンに救援を求めた】だが【彼らは何もしなかった】。その年、【ウクライナの人々が飢えて死んでいるとの報告】がなされていた年に、【ウクライナは穀物を660万トン拠出するように命じられた】

    驚き 8

     人々は飢え餓死者が出現していたにもかかわらず、【スターリンは、さらに過酷な法令を定めた】穀物や家畜などコルホーズのすべての財産を国家の所有する財産と定め、それらを盗む者は「人民の敵」と見なされ財産の没収と少なくとも10年の禁固情状酌量の余地がなければ銃殺刑に処するという過酷な法令だった。また、農民をコルホーズから無理に離脱させようと試みた「富農」は、5年から10年強制収容所に送られることも定めてあった。この法令によって【自分たちが育てたジャガイモを自由に食べようとする行為は、国家の所有物を「盗んだ」罪に問われ、「人民の敵」として糾弾され、重罪を課される行為となった】のである。

    驚き 6

     農民たちが作物を「盗む」ことがないように、監視塔が建設され、【徴発隊】が農民たちから食物を徴発した

    ブラッドランド 上: ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実 

     【スナイダー】がこの徴発隊について次のように描いている

    「 【共産党活動家たちは、まるで侵略軍のよう】に食物を現地で調達し、取れるだけのものを取って腹いっぱい食べた。労力と熱意に見合った成果はほとんどあがらず、苦悩と死だけをもたらしていった。罪悪感の裏返しか、勝利感からか、彼らは【行く先々で農民たちに屈辱を味わわせる】ようなことをした。ピクルスの樽に小便をしたり、腹を空かせた農民たちにボクシングをさせて笑い物にしたり、犬のように這って吠えろと命じたり、泥の中でひざまずいて祈りを捧げよと強要したりした。ある集団農場で盗みを働いてつかまった【女性たちは、衣服をはぎとられて殴られ、裸のまま、村の中を引きまわされた】。ある村では、徴発隊の面々が農民の家で酔っ払い、その【娘を集団暴行】した。【ひとり暮らしの女性たちは穀物徴発という名目で夜間に強姦されるのがあたりまえ】になっていた。【かれらはほんとうに、事を終えたあとで食べ物を奪っていった】のだ。【スターリンの法と彼の国の勝利とは、そんなものだった】のだ。」(ティモシー・スナイダー『ブラッド・ランド 上』筑摩書房、84頁)』

    日の丸

    いかがでしょうか?

    今回ご紹介させていただく書物は、現代の日本において「リベラル」を自称する“奇妙な人々”「奇怪な言説」を取り上げ、それらを徹底的に批判するところから始まる書物で、「東京新聞」「朝日新聞」はもちろんのこと、「池上彰」

    池上彰
    池上彰

    「加藤典洋」

    加藤典洋
    加藤典洋

    「内田樹」

    内田樹
    内田樹

    「白井聡」といった面々が、

    白井聡
    白井聡

    そのやり玉にあがっていて、非常に楽しく拝見できる良書になります。そして、後半3分の1にあたる部分から、今回ご紹介させて頂く本文となるのですが、非常に中身が濃く読みごたえがあってお勧めです。

    読書 4-69

    さて、連日にわたって本書のご紹介をさせて頂く中で、ヒトラーのナチスドイツ以上に残虐であったのが、左翼ユダヤ人の活動家革命によって樹立した史上初の社会主義国家「ソ連」であったという紛れもない事実について、ご理解頂けるかと思います。
     
    社会主義 独裁者

    ちなみに、その左翼ユダヤ人のソ連次いで残虐で、ヒトラーのナチスドイツよりも酷いのが、中国共産党が支配する中華人民共和国です💛

    これ 女性



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    新疆ウイグルで130万人が収容、制裁科す声強まる

    現在、中国共産党によって残虐な迫害を受け続けている「ウイグル人」ですが、もちろんテュルク(チュルク)語族で、トルコ系遊牧民族であり、かつて遊牧国家の君主号である「カガン(khagan)」を称し、同じくトルコ系遊牧民族の強国であった「突厥(とっけつ)」を唐とともに打ち破り、744年には「ウイグル・カガン国」を建国した民族です。

    744年頃の世界地図
    744年頃の世界地図

    上図で、かつて満州と呼ばれた地域に、「ツングース語族」に属する「渤海(ぼっかい)」という国がありますが、私たちの日本に学ぶために、危険な航海を承知の上で、33回も「遣日使」を派遣していました。

    詳しくはこちらをご参照💛

    スラップ(SLAPP)の朝日新聞  #まっとうな政治 #まっとうな報道 ってなんですか?お聞かせください(笑)

    宣戦布告:朝日新聞との闘い・「モリカケ」裏事情から、在日・風俗・闇利権まで、日本のタブーに斬り込む! 

    また、「ウイグル・カガン国」建国された744年は、聖武天皇の治世であり、東大寺大仏造営の詔出された翌年になります。

    『聖武天皇像』
    『聖武天皇像』

    『 第45代聖武天皇が東大寺の大仏建立の際に出されていた詔の言葉である。

    《 朕は徳の薄い身でありながら、かたじけなくも天皇の位を受け継ぎました。

     朕の志は広く人民を救うことであり、努めて人々を慈しんできた。国土の果てまで思いやりと情け深い恩恵を受けているはずであるが、天下のもの一切がすべて仏の恩恵に浴しているとはいえない。そこで三宝(仏・法・僧)の威光と霊力によって、天地ともに安泰となり、よろずの代までの幸せを願う事業を行って、生きとし生けるものことごとく栄えることを望むものである。…
     天下の富を所有するものは朕である。天下の権勢を所持する者は朕である。この富と権勢をもってこの尊像をつくるのは、ことはなりやすいが、この願いを成就することは難しい。ただいたずらに人々を苦労させることがあっては、この仕事の神聖な意義を感じることができなくなり、あるいはそしりを生じて、かえって罪におちいることを恐れる。…国、郡などの役人はこの造仏のために、人民の暮らしを侵したり、乱したり、無理の物資を取り立てたりすることがあってはならぬ。国内の遠近にかかわらず、あまねくこの詔を布告して、朕の意向を知らしめよ 》 (『続日本紀』)

     この詔の、天皇の国家の所有の感覚こそ、自己を無にすることができる基本と思われる。それが人民をわが子と考えることができる感情の基礎になるものなのだ。それは聖武天皇の時代も明治天皇の時代も一貫した感覚である。「古代」も「近代」もない。それは天皇の神格化とも関係ない。聖武天皇ご自身が《徳の薄い身でありながら、かたじけなくも天皇の位を受け継ぎました》といわれているのである。

     そのような天皇であってこそ、国土の果てまで思いやりと情けをかける父親の感覚になれるのである。これが、この感覚が不在の民間人が皇室に入るときの困難さともなろう。』


    詳しくはこちらをご参照💛

    戦後日本を狂わせた左翼思想の正体 

    聖徳太子受け入れた、異国の「宗教」である「仏教」を、私たちの日本は国家の統制下に置き、その流れの中で、聖武天皇741年「国分寺建立の詔」を出され、743年「東大寺大仏造営の詔」を出されることになるのですが、それがやがて日本オリジナルの仏教へと発展していくようになります。

    詳しくはこちらをご参照💛

    日本の仏教は、日本オリジナルの仏教です

    日本人のための宗教原論―あなたを宗教はどう助けてくれるのか 

    それでは、ここでもう一度、さきほどの744年頃の世界地図をご覧ください。

    これ 女性

    744年頃の世界地図
    744年頃の世界地図

    「イスラム教」の大帝国「ウマイヤ朝」が、西方で目立っています。

    詳しくはこちらをご参照💛

    イスラム教の分裂 ~ スンニ派とか、シーア派とかって何が違うの?

    誰も教えてくれない 真実の世界史講義 古代編 

    ムハンマドの時代(622年~632年)、正統カリフ時代(632年~661年)、そしてウマイヤ朝の時代(661年~750年)と、イスラム教の勢力圏は、果てしなく拡大していくかのような状況だったのですが、

    イスラム帝国の版図拡大の流れ
    イスラム帝国の版図拡大の流れ

    そのイスラム教の勢力拡大の流れを、西ではフランク王国トゥール・ポワティエ間の戦い(732年)イスラム勢力を打破し、他方、では「ハザール・カガン国」が、第二次アラブ・ハザール戦争(722年~737年)で、「アルダビールの戦い」(730年)における圧勝によって、イスラム勢力を撃退します。ただし735年に始まるイスラム勢力の反撃によって、最終的にイスラム改宗を約束し和睦を結んでいます。

    イスラム 東ローマ

    こうして、イスラム教の勢力圏拡大の流れ止まり744年マルワーン2世ウマイヤ家の最後のカリフになり、750年に暗殺され、開祖ムハンマドの叔父であり支援者でもあったアッバース・イブン・アブドゥルムッタリブの子孫カリフとなります(アッバース革命)。つまり、イスラム教教主位がアッバース家に移ったことになります。

    女性 ポイント ひとつ

    で、さきほど、「ハザール・カガン国」和睦の条件としてイスラム教への改宗を受け入れたと書かせて頂きましたが、これは儀礼的なものでしかなく、恐らくは740年頃と考えられているのですが、最初の「ユダヤ教への改宗」がなされます。

    11世紀のイスラム教徒の地質学者・歴史学者であるアブー・ウバイド・バクリー(アル・バクリ)は、著書『Book of Roads and Kingdoms(『王国と道の本』/『諸道と諸国の書』)』において、それまで異教徒(多神教)であったハザール(カザール)人「ユダヤ教への改宗」様子が描かれています。

    まず、ハザール(カザール)人は、「キリスト教」受け入れたのですが、すぐにその「虚偽」を見抜いて「キリスト教」「イスラム教」「ユダヤ教」それぞれから意見を聞くことにしました。

    「キリスト教」の代表者として司教が呼ばれ、王のそばにいた「ユダヤ人」論争を仕掛けます

    ユダヤ人 : 「アムラムの息子モーセについてと言いますか? また、彼によって示されたトーラー(=モーセ五書)についてはいかがですか?」

    司教 : モーセは預言者です。また、トーラー(=モーセ五書)は真実を述べています。」

    ユダヤ人 : 「王さま、このように彼はすでに私の教義の真実を認めています。そこで、彼が“何”を信じているのかを尋ねてみてください。」

    ハザール王 : 「司教よ、あなたは、“何”を信じているのか?」

    司教 : 「救世主イエスマリアの息子であり、彼は言葉であり、神の名において奇蹟を見せました。」

    ユダヤ人 : 「彼は私の主張は受け入れましたが、“私の知らない原理”を語っています。」

    こうして、司教は、これ以上上手く説明することが出来ませんでした。

    これが、「キリスト教」が「イスラム教」には勝つことができない最大の理由の一つであるということは、先日も書かせて頂きました。

    詳しくはこちらをご参照💛

    「イスラム教」に「キリスト教」が、勝つことができない決定的な理由

    「反グローバリズム」の逆襲が始まった 

    そして、今度は「イスラム教」の人間を招こうとするのですが、ハザール・カガン国に来る途中で、王のそばにいたユダヤ人が雇った人間によって毒殺され、ユダヤ人が王を自分たちの信仰に取り込み、結果、ハザール王は「ユダヤ教」を奉じるようになった、と書かれています。

    女性 ポイント これ

    こうして、トルコ系遊牧民族であった「ハザール(カザール)人」という「ユダヤ人」が誕生するのですが、

    744年頃の世界地図
    744年頃の世界地図

    その位置するところが、本文冒頭に出てきた「ウクライナ」周辺です。

    ウクライナ
    ウクライナ

    『 ウクライナ国内の政争が、今日世界を巻き込む深刻な事態に至った直接のきっかけは、2014年3月18日にロシアがウクライナ領クリミア半島の住民投票の結果を受け入れロシア領としたことでした。これにアメリカが激しく反発し、EU(欧州連合)や我が国を巻き込んで、アメリカ主導の対露経済制裁が始まりました。…

     黒海に突き出たクリミア半島は、過去幾多の国々の興亡の歴史を見てきました。紀元前7世紀頃にはスキタイ人が住んでおり、その後古代ギリシャ人が入植し、ケルソネソスなどの植民都市を築きました。その後、さまざまな民族が侵入しましたが、特筆すべきは13世紀に蒙古民族のタタール人が侵入して、やがてクリム汗国を建設…ソ連時代にはクリミアのタタール人たちはスターリンによって強制的にウズベキスタンに移住させられますが、その後帰還していまでも居住しています。

     もう一つの特筆すべきことは、9世紀頃からカスピ海の西岸周辺に栄えたハザール王国が、一時期クリミア半島を支配下に置いていたことです。このハザール王国については現在に致る歴史論争の一つになっています。その理由は、ハザール王国はユダヤ教を信奉する改宗ユダヤ人の国で…ユダヤ人の定義はユダヤ教徒であることですから、ハザール人はユダヤ人ということになります。このハザール人の末裔がいわゆるアシュケナージ・ユダヤ人であるか否かが、大きな争点となっているのです。それは当然です。もしアシュケナージ・ユダヤ人がハザール人であるなら現在のユダヤ社会における支配勢力であるアシュケナージ・ユダヤ人は、セム族ではないことになります。これが事実であれば、世界史がひっくり返るくらいの大事件なのです…かつてクリミアにはハザール系ユダヤ人が住んでいたということを覚えておいて欲しいと思います。』


    『 ・・・かつてクリミアにはハザール系ユダヤ人が住んでいた・・・ロシア人にとってクリミア半島は特別の思いが交差する領土なのです。クリミア半島は、ロシア帝国時代のロシアが第一次露土戦争に勝利して1783年にロシアに編入された土地で、その後、トルコやイギリスなどとの2度にわたる死闘を通じて守り通した貴重な領土だったのです。軍港セバストポリには、露土戦争の強大なジオラマが観光名所の一つになっています。ウクライナ人でさえ、クリミア半島をめぐる戦いに自らの歴史のアイデンティティを感じているのです…クリミアをめぐる歴史はソ連時代にさらに複雑さを加えました…1944年、ナチスドイツとの戦争の最中、反ファシスト・ユダヤ委員会…などユダヤ系ロシア人たちが、クリミア半島をユダヤ人の自治共和国にするようスターリン共産党書記長(首相)に訴えたのです。…温暖なクリミア半島…は、ユダヤ人の故郷であるパレスチナのカナンの地、乳と蜜の流れる豊かな地、とイメージされていたのです。たしかに、緑に覆われたクリミアでは、ブドウが取れ、世界的にも有名なマサンドラ・ワインの産地でもあります。このクリミアの地をソ連国内の少数民族であるユダヤ人の居住区にしようとしたのです。…この訴えはソ連の最高意志決定機関である共産党政治局において議論されました…が、スターリンはこの提案を拒否しました。…なぜスターリンが拒否したのかについては、この提案の背後アメリカのシオニストの影響を見たのが原因であるとして…フルシチョフは回想しています。…この構想挫折後1948年にパレスチナの地にユダヤ人国家イスラエルが誕生しました。そのイスラエルは現在もガザ侵攻に見られるようにパレスチナ人との間で軍事衝突を繰り返しています。』

    詳しくはこちらをご参照💛

    世界を操る支配者の正体 


    続きは次回に♥




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    最終更新日2018-09-21
    Posted byみっちゃん

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