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    女性でも散策してみたい「江戸」のまち

    みっちゃん

    みっちゃん

    『江戸高名会亭尽 浅草雷門前』 歌川広重
    『江戸高名会亭尽 浅草雷門前』 歌川広重

    江戸(えど)は、東京の旧称であり、1603年から1867年まで江戸幕府が置かれていた都市である。現在の東京都区部の中央部に位置し、その前身及び原型に当たる。

    江戸の町を大きく分けると、江戸城の南西ないし北に広がる町(山の手)と、東の隅田川をはじめとする数々の河川・堀に面した町(下町)大別される。江戸時代前期には、「山の手が武家屋敷で、下町が町人の町」と一般的に言われていたが、江戸時代中期以降の人口増加によって山の手に町人町が存在(千代田区の一部が挙げられる)したり、逆に下町に多くの武家屋敷が存在するなど、実際はかなり複雑な様相を示していた。江戸の都市圏内には非常に多数の(そして多様な町が存在するようになり「江戸八百八町」とも言われるようになり、18世紀初頭には人口が百万人を超え、世界有数の大都市(一説によると当時の世界一)へと発展を遂げた。膨大な数の庶民によって多彩な文化が開花した。また江戸は循環型社会(リサイクルが根付いている社会)であった江戸の住人「江戸者」「江戸衆」「江戸人」などと言ったが、江戸で生まれ育った生粋(きっすい)の江戸の人や、根っから江戸者らしい性質(小さなことにこだわらず、だが意地張りで、しばしばせっかちで短気、等々)を備えた町人が江戸っ子と呼ばれた。

    なお、江戸には一千を超える仏教寺院が存在した。








    戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。

    そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

    私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、

    客観的に情勢を判断する必要があります。

    それでは、この書物を見ていきましょう!




    『 「“北国”から連想する場所はどこか?」


    「北の国から」全話収録 DVDマガジン 

     この質問を現代人にすれば、日本ならば「北陸地方」「北海道」、または世界を視野に入れて「ロシア」「フィンランド」と答える人もいることだろう。だが同じ質問江戸人にすれば【ニヤリと笑って「吉原」と答える】はずだ。

    『銀世界東十二景 新吉原雪の朝』 歌川広重
    『銀世界東十二景 新吉原雪の朝』 歌川広重

     幕府公認遊郭吉原は、江戸の中心部・江戸城の間近である【日本橋人形町】に造られたが、明歴三年(1657)の明歴の大火を機に【浅草に移転】した。

    『東都新吉原一覧』 歌川広重二代 
    『東都新吉原一覧』 歌川広重二代 (東京都立図書館デジタルアーカイブより)

    当時の浅草はまだまだ【未開発の辺境の地】江戸の中心部から江戸城の外堀を越えて遠く北に離れていたことから“北国(ほっこく)” “北州(ほくしゅう)” “北里(ほくり)”の通称で呼ばれるようになったという。

    『東都名所 新吉原』 歌川広重 
    『東都名所 新吉原』 歌川広重

     移転後の吉原は、お世辞にもアクセス抜群とは言い難い立地条件であったにもかかわらず江戸時代を通じて、ほぼ廃(すた)れることもなく、【随一の歓楽街】として繁盛した。むしろ【一般の生活圏からは隔絶された場所にあったことがプラスに働いた】と言っても過言ではない。吉原へ往き来する遊客たちの通り道に名所、逸話、繁華街が多数生まれていることが、それを証明しているだろう。世知辛(せちがら)い日常のしがらみから遠く離れ、いざ【夢の世界】へ…!遊客たちは“北国”吉原へ向かうその道程すら、楽しみの一つにしていたのだ。』

    日の丸

    いかがでしょうか?

    今回ご紹介させていただく書物は、妙なイデオロギーが入り込んでいる学校の授業では、決して教えてもらうことができない正しい江戸時代の姿について、江戸文化を語るうえで外すことのできない「遊郭・吉原」を中心様々な角度から解説がなされている良書になります。

    読書 4-3

    さて、夏休みも、そろそろ終わりに近づいていますので、本日「江戸」の散策をやってみたいと思います。本書の中でも、吉原に向かう遊客になったつもりで、その道中の解説がなされていて、とても面白いので、ぜひご覧下さい。

    現在の東京の様子は、こんな感じ(↓)になっているのですが、

    幕末 江戸 鳥観図 2

    幕末の「江戸」の様子を、なんと「手書き」で再現されている鳥瞰図があるのですが、それがこんな感じ(↓)で、圧巻なんです。

    幕末 江戸 鳥観図 1
    株式会社ジェオ(GEO)HP


    で、新吉原周辺が、こんな感じ(↓)で、

    幕末 江戸 鳥観図 3

    現在はこんな感じ(↓)になっています。

    幕末 江戸 鳥観図 4

    古いガイドブックで周辺を確認してみますと、こんな感じ(↓)です。浅草寺が左下に描かれています。

    今戸箕輪浅草絵図 2
    今戸箕輪浅草絵図 国立国会図書館デジタルコレクション

    その浅草寺のすぐ右上、黄色い丸で囲っている部分新吉原で、そこに至る土手「日本堤」です。

    今戸箕輪浅草絵図 3

    『江戸八景 吉原の夜雨』 渓斎英泉
    『江戸八景 吉原の夜雨』 渓斎英泉

    『名所江戸百景 よし原日本堤』 歌川広重
    『名所江戸百景 よし原日本堤』 歌川広重

    その遊郭・吉原の入り口にあたるのが「大門」で、

    今戸箕輪浅草絵図 4

    土手の日本堤から大門までの道が、曲がっていることが分かりますが、これ、わざとやっているらしいんです(理由は本書にも書かれています)。

    『北廊月の夜桜』 歌川国貞
    『北廊月の夜桜』 歌川国貞

    そして、日本堤から大門に向かう道に入る手前のところにあったのが「見返り柳」です。

    『江戸高名会亭尽 新吉原衣紋坂日本堤』 歌川広重
    『江戸高名会亭尽 新吉原衣紋坂日本堤』 歌川広重

    ちなみに、現在の様子こんな感じ(↓)で、正面左側の道路が「大門」に向かう道でした。今でも曲がったままですね💛

    今戸箕輪浅草絵図 5

    それでは、今度は、明暦の大火の前「元吉原」はどこにあったのでしょうか?

    本文中に「日本橋人形町」と書かれていましたので、確認してみますと。。。

    神田浜町日本橋北之図 2
    神田浜町日本橋北之図 国立国会図書館デジタルコレクション

    実は、この地図「嘉永三年」のものですので、黒船来航の3年前の状況を描いたものになりますので、当然、、「元吉原」地図上にはありません

    そこで、明暦の大火以前に描かれたもの確認してみますと。。。

    新添江戸之図 2
    新添江戸之図 国立国会図書館デジタルコレクション

    現在の日本橋人形町が、次の黄色の四角で囲っている部分になりますので、

    新添江戸之図 4

    その辺りの部分を拡大してみますと、「吉原」の文字が確認できます。

    新添江戸之図 2-1

    新添江戸之図 3

    で、「嘉永三年」の地図でも確認してみますと。。。

    神田浜町日本橋北之図 3

    現在でも、松島神社が残っている辺りだったんでしょうね。

    日本橋 松島神社
    松島神社(【おとりさま】) 東京都神社庁HP

    この付近の昔の様子は、浮世絵でも、たくさん残されていますので、歩いて散策するのも良いのかもしれませんね。

    神田浜町日本橋北之図 4

    『東都名所 駿河町之図』 歌川広重
    『東都名所 駿河町之図』 歌川広重

    『東都大伝馬街繁栄之図』 歌川広重
    『東都大伝馬街繁栄之図』 歌川広重

    『東海道名所風景 東海道 日本橋』 歌川豊国三代(歌川国貞)
    『東海道名所風景 東海道 日本橋』 歌川豊国三代(歌川国貞)


    続きは次回に♥




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    最終更新日2018-08-24
    Posted byみっちゃん

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