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    親子チョコ💗(500冊以上の良質な書籍のご紹介)

    子どもたちの教育のため、また、その親である私たち自身が学ぶための、読まれるべき良質な書籍のみをご紹介させていただきます。

     >  国史 >  百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群と、日本の英雄・ヤマトタケル

    百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群と、日本の英雄・ヤマトタケル

    百舌鳥・古市古墳群HP
    百舌鳥・古市古墳群HP

    百舌鳥・古市古墳群は、大阪の南部、堺市羽曳野市藤井寺市3市にまたがる巨大古墳群であり、堺市の「百舌鳥」と羽曳野市・藤井寺市の「古市」の2つのエリアに分かれながらも、一体性・連続性をもっています。

    この古墳群では、4世紀後半から6世紀前半にかけて200基を超える古墳が築造されましたが、現在でも89基の古墳が残っています

    最大の古墳仁徳天皇陵古墳(墳丘長486m・国内第1位)で、応神(おうじん)天皇陵古墳(同425m・2位)、履中(りちゅう)天皇陵古墳(同365m・3位)、ニサンザイ古墳(同300m・7位)、仲姫命(なかつひめのみこと)陵古墳(同290m・9位)、仲哀(ちゅうあい)天皇陵古墳(同245m)がこれに続きます

    こうした墳丘長が200mを超える古墳全国に40基近くありますがうち11基は百舌鳥・古市古墳群に存在し、これほど巨大前方後円墳が集中している地域は国内でも他に例がありません








    戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。

    そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

    私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、

    客観的に情勢を判断する必要があります。

    それでは、この書物を見ていきましょう!




    『 大阪の【百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群】が2017年7月、世界文化遺産国内候補に選ばれた。


    【世界三大墳墓】の一つと呼ばれる【仁徳陵古墳】(全長486メートル)が百舌鳥地区にあり、同古墳の雄大さ他の二つ、秦の始皇帝陵(同350メートル)、クフ王のピラミッド(底辺230メートル)を上回る


     古市地区には仁徳陵古墳に次いで【日本二位の大きさ】を誇る【応神陵古墳】(全長425メートル)がある。これほど雄大な古墳郡を遺す地域【世界でも例がなく】世界文化遺産の資格は十分である。


     【仁徳陵古墳】【十六代仁徳天皇(にんとくてんのう)】の陵墓とされる。【応神陵古墳】はその父、【十五代応神天皇(おうじんてんのう)】の陵墓である。二つの巨大前方後円墳は、二人の天皇の御世が、古代天皇の時代で最も安定し、豊かだったことを示している。


     この二人は、日本史が神話から人の御世に代わる時代の【「英雄の孫と曾孫」】に当たる。

    女性 ポイント ひとつ

     英雄の名【倭建命(やまとたけるのみこと)】[古事記の表記、日本書紀では【日本武尊】]。

    ヤマトタケル(歌川国芳画)
    ヤマトタケル(歌川国芳画)

    十二代景行天皇(けいこうてんのう)の太子(ひつぎのみこ)[皇太子の一人]で、

    景行天皇
    景行天皇

    天皇に従わない【九州の熊曽(くまそ)】[熊襲]【東国の反乱者】たち【討伐】し、最後大和帰還を目前にして【非業の死を遂げる御子】である。

    女装するヤマトタケル(月岡芳年画)
    女装するヤマトタケル(月岡芳年画)

     その死後、皇位は異母弟の成務天皇(せいむてんのう)が継ぐが、成務天皇の死後【ヤマトタケルの子】【十四代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)】になった。

    仲哀天皇
    仲哀天皇

    仲哀天皇の子【応神天皇】応神天皇の子【仁徳天皇】である。

    『武内宿禰と応神天皇』歌川国芳
    『武内宿禰と応神天皇』歌川国芳

    「東錦昼夜競 仁徳天皇」楊洲周延画 (1886年)
    「東錦昼夜競 仁徳天皇」楊洲周延画 (1886年)

    【二人の天皇の繁栄した時代の礎を築いた】のは、【ヤマトタケルの活躍だった】といわれる所以だ。』

    日の丸

    いかがでしょうか?

    今回ご紹介させていただく書物は、私たちの日本が誕生する際『古事記』には描かれていない関東から東側の地域を、ヤマトタケルの活躍によって、西側の大和政権の下に統一をしてゆく過程を、その足跡を綿密な取材によって辿ることで、読者に具体的にイメージを描かせる良書となります。

    読書 3-53

    さて、神道の祭祀に用いられる祝詞(のりと)の一つに、「大祓詞(おおはらえのことば)」というものがあります。


    高天原(たかあまはら)に神留(かむつ)まり坐(ま)す

    皇(すめら)が親(むつ) 

    神漏岐(かむろぎ) 神漏美(かむろみ)の命(みこと)以(もち)て

    八百万神等(やほよろづのかみたち)を 神集(かむつど)へに集(つど)へ給(たま)ひ

    神議(かむはか)りに議(はか)り給(たま)ひて

    我(あ)が皇御孫命(すめみまのみこと)

    豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみづほのくに)

    安国(やすくに)と平(ひら)けく知食(しろしめ)せと事依(ことよ)さし奉(まつ)りき。 

    此(か)く依(よ)さし奉(まつ)りし 国中(くぬち)に

    荒振神等(あらぶるかみたち)をば神問(かむと)はしに問(と)はし給(たま)ひ

    神掃(かむはら)へに掃(はら)へ給(たま)ひて

    語問(ことと)ひし磐根(いはね) 樹根立(きねたち) 草の片葉(かきは)をも語(こと)止めて

    天(あめ)の磐座(いはくら) 放ち

    天(あめ)の八重雲(やへぐも)を伊頭(いづ)の千別(ちわ)に千別(ちわ)て

    天降(あまくだ)し依(よ)さし奉(まつ)りき。』


    伊耶那岐神と伊耶那美神
    伊耶那岐神(右)と伊耶那美神(左)

    ここで、神漏岐(かむろぎ)男神の総称神漏美(かむろみ)女神の総称になりますが、神世七代(かみよななよ)と呼ばれる国之常立神(くにのとこたちのかみ)から九柱の神々成ったあとで、伊耶那岐神(いざなきのかみ)伊耶那美神(いざなみのかみ)が成り、間もなく、日本列島と多くの神々をお生みになります

    天地開闢(古事記による)

    そして、多くの神々高天原(たかあまはら)において集まって協議をし、皇御孫命(すめみまのみこと)、つまり伊耶那岐神(いざなきのかみ)から成った天照大御神(あまてらすおおみかみ)直系子孫を、豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみづほのくに)平定へと遣わせます

    高天原(たかあまはら)豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみづほのくに)別々の地域であることが理解できると思います。

    女性 ポイント ひとつ


    『此(か)く依(よ)さし奉(まつ)りし 

    四方(よも)の国中(くになか)と 

    大倭日高見(おおやまとひだかみ)の国

    安国(やすくに)と定め奉(まつ)りて 

    下津磐根(したついはね)に宮柱(みやはしら) 太(ふと)敷き立て

    高天原(たかあまはら)に千木(ちぎ) 高知りて 

    皇御孫命(すめみまのみこと)の瑞(みづ)の御殿(みあらか) 仕(つか)へ奉(まつ)りて 

    天(あめ)の御蔭(みかげ) 日の御蔭と 隠(かく)り坐(ま)して 

    安国(やすくに)と平(たいら)けく 

    知食(しろしめ)さむ国中(くぬち)成り出(いで)む。』


    四方(よも)の国中(くになか)というのが豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみづほのくに)とすると、大倭日高見(おおやまとひだかみ)の国高天原(たかあまはら)ということになります。

    ポイント 000

    詳しくはこちらをご参照❤

    田中 英道  日本の起源は日高見国にあった : 縄文・弥生時代の歴史的復元

    日本の起源は日高見国にあった: 縄文・弥生時代の歴史的復元 

    『天(あめ)の益人等(ますひとら)が過ち犯しけむ 種種(くさぐさ)の罪事(つみごと)は 

    天津罪(あまつつみ) 国津罪(くにつつみ) 許許太久(ここだく)の罪 出(いで)む。

    此(か)く出(いで)ば 天津宮事(あまつみやごと)以(も)ちて 

    天津金木(あまつかなぎ)を本(もと)打ち切り 末(すゑ)打ち断ちて

    千座(ちくら)の置座(おきくら)に置足(おきたら)はして 

    天津菅麻(あまつすがそ)を本(もと)刈り断ち 末(すゑ)刈り切りて 

    八針(やはり)に取(とり)裂きて 

    天津祝詞(あまつのりと)の太祝詞事(ふとのりとごと)を宣(の)れ。
     
    此(か)く宣(の)らば 

    天津神(あまつかみ)は 天(あめ)の磐戸(いわと)を押披(おしひら)きて 

    天(あめ)の八重雲(やへぐも)を 

    伊頭(いづ)の千別(ちわき)に 千別(ちわき)て 聞食(きこしめ)さむ。

    国津神(くにつかみ)は 高山(たかやま)の末 低山(ひきやま)の末に登り坐(ま)て 

    高山の伊褒理(いほり) 低山の伊褒理(いほり)を掻(か)き別けて 聞食(きこしめ)さむ。

    此(か)く聞食(きこしめ)しては 罪と言ふ罪は在(あ)らじと 

    科戸(しなと)の風の天(あめ)の八重雲(やへぐも)を吹き放つ事の如く。 

    朝(あした)の御霧(みぎり) 夕(ゆふべ)の御霧(みぎり)を 

    朝風(あさかぜ)夕風(ゆふかぜ)の吹き掃(はら)ふ事の如く 

    大津辺(おほつべ)に居(い)る大船(おほぶね)を

    舳(へ)解き放ち 艪(とも)解き放ちて 大海原(おほうなばら)に押し放つ事の如く 

    彼方(もちかた)の繁木(しげき)が本(もと)を

    焼鎌(やきがま)の利鎌(とがま)以(も)て 

    打ち掃(はら)ふ事の如く 遺(のこ)る罪は在(あ)らじと 

    祓(はら)へ給(たま)ひ 清め給(たま)ふ事を。

    高山(たかやま)の末 低山(ひきやま)の末より 

    佐久那太理(さくなだり)に落ち多岐(たざ)つ 

    早川(はやかは)の瀬に坐(ま)す 瀬織津比売(せおりつひめ)と伝(い)ふ神 

    大海原(おほうなばら)に持出(もちい)でなむ。』


    内宮(皇大神宮)の境内別宮 荒祭宮(あらまつりのみや)
    内宮(皇大神宮)の境内別宮 荒祭宮(あらまつりのみや)

    伊勢神宮の内宮にある別宮『荒祭宮(あらまつりのみや)』に祭られている神さまが天照坐皇大御神荒御魂(あまてらしますすめおおみかみのあらみたま)になりますが、その別名が瀬織津姫(せおりつひめ)となります。 

    『此(か)く持ち出で往(い)なば 

    荒潮(あらしほ)の潮(しほ)の八百道(やおあひ)の

    八潮道(やしほじ)の潮の八百曾(やほあひ)に坐(ま)す 

    速開都比売(はやあきつひめ)と伝ふ神

    持ち加加呑(もちかがの)みてむ。 

    此(か)く加加呑(かがの)みては 

    気吹戸(いぶきど)に坐(ま)す気吹戸主(いぶきどぬし)と伝(い)ふ神 

    根国(ねのくに)底国(そこのくに)に気吹(いぶき)放ちてむ。

    此(か)く気吹(いぶき)放ちては 根国(ねのくに)底国(そこのくに)に坐(ま)す 

    速佐須良比売(はやさすらひめ)と伝(い)ふ神 

    持ち佐須良比(さすらひ)失ひてむ 

    此(か)く佐須良比(さすらひ)失ひては。 

    今日(けふ)より始めて 罪と伝(い)ふ罪は在(あ)らじと 

    今日の夕日の降(くだち)の大祓(おおはらへ)に

    祓(はら)へ給(たま)ひ清(きよ)め給(たま)ふ事を

    諸々(もろもろ)聞食(きこしめ)せと宣(の)る。』
     

    と、このように、最後のところに、瀬織津比売(せおりつひめ)速開都比売(はやあきつひめ)気吹戸主(いぶきどぬし)速佐須良比売(はやさすらひめ)四柱の神々が登場しています。これらを「祓戸大神(はらえどのおおかみ)」と呼び、まず瀬織津比売(せおりつひめ)もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流し、続く速開都比売(はやあきつひめ)は、伊耶那岐神(いざなきのかみ)伊耶那美神(いざなみのかみ)から成った神で、港の神さまで、海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込みます。

    神産み神話(イザナギ・イザナミが生んだ神々)

    そして、気吹戸主(いぶきどぬし)速開都比売(はやあきつひめ)が飲み込んだのを確認した後で、根国(ねのくに)底国(そこのくに)に息を吹き込み、最後に速佐須良比売(はやさすらひめ)が根国・底国に持ち込まれたもろもろの禍事・罪・穢れをさすらって失うという一連の流れによって罪・穢を祓い去ることになります。

    そんな「大祓詞(おおはらえのことば)」に示されている四方(よも)の国中(くになか)、すなわち豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみづほのくに)と、大倭日高見(おおやまとひだかみ)の国、すなわち高天原(たかあまはら)とを再び一つにしてゆく上で、非常に大きな役割を果たしたのが、英雄・ヤマトタケルになります。



    続きは次回に♥




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