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    どうして、ドイツのベルリンに、「パリ広場」があるのでしょう?

    みっちゃん

    みっちゃん

    Pieter_Snayers,_Le_siège_de_Presnitz_1641

    三十年戦争(さんじゅうねんせんそう、独: Dreißigjähriger Krieg)は、ボヘミア(ベーメン)におけるプロテスタントの反乱をきっかけに勃発し、神聖ローマ帝国を舞台として、1618年から1648年に戦われた戦争







    戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。

    そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

    私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、

    客観的に情勢を判断する必要があります。

    それでは、この書物を見ていきましょう!




    『 【1618年】【カトリックのハプスブルク家】【ルター派のプロテスタント】【弾圧】したことを端緒に【三十年戦争】が始まります。

    白山の戦い(1620年)
    白山の戦い(1620年)

    この戦いは欧州全土に拡大し、【ドイツ全土が戦場】となりました。

    1640年頃の戦闘状況を描いたもの。セバスチャン・ヴランクス。
    1640年頃の戦闘状況を描いたもの。セバスチャン・ヴランクス。

    戦争は1648年に終結し、その講和条約である【ウェストファリア条約】が結ばれます

    兵士による村野略奪を描いたもの。セバスチャン・ヴランクス。
    兵士による村野略奪を描いたもの。セバスチャン・ヴランクス。

    その【要点】【ローマ教皇からの独立】【神聖ローマ帝国からの独立】【主権国家の並立】であり、「帝国の死亡診断書」と言われます。この三十年戦争を含む17世紀から18世紀は、【ハプスブルク家受難の時代】となります。

    ポイント 32

     このころ、帝国内には、【皇帝と国王を世襲しているハプスブルク家のオーストリア帝国】や、【バイエルン】のような大きな領邦のほかに、【中小規模で300を超える領邦】がありました。

    1648年の神聖ローマ帝国
    1648年の神聖ローマ帝国

    その一つ今も残る【リヒテンシュタイン公国】です。

    リヒテンシュタイン公国
    リヒテンシュタイン公国

    スイスとオーストリアに挟まれた領土面積160平方キロメートルの国です。

    驚き顔

    東京都八王子市の面積186平方キロメートルより少し小さい、日本でも地方自治体サイズであるにもかかわらずウェストファリア条約はリヒテンシュタインのような小さい領邦にも【「主権国家」として大国と同等の地位】を認めました

    ポイント 女性

    このこと【領邦の君主の力を強化】すること、すなわち【地方分権の強化】であり、【帝国内での拒否権を認める】ことでした。「神聖ローマ帝国」は残りましたが、エンパイアとしての力というのは以前に増して名ばかりに近くなりました。

    ポイント

     ドイツ地方では【三十年戦争後の復興】が他に比べて【特段に遅れます】【オスマントルコやフランスの侵攻が1690年代まで続いた】うえ、【戦争による人口の減少・流出】【物理的な都市の荒廃】【疾病の蔓延】に加え、【経済の中心が地中海から大西洋に移ってしまったことも打撃】となりました。

    ポイント 21

    こうした事態神聖ローマ帝国としては何もできなかったに等しく、【実質的な復興を担ったのは領邦の君主】たち個々の内政でした。三十年戦争が終わったときポーランドを隔てた【飛び地の小国】に過ぎなかった【プロイセン王国】は、この時期から【富国強兵】政策を始め【軍事大国化】して台頭します。

    プロイセン公国
    プロイセン公国

    プロイセン公国 2

     1793年【革命後のフランスに対する干渉戦争】【プロイセンも参戦】します。当初は、ヨーロッパ諸国とフランス革命政府との攻防だったのが、いつの間にか【ヨーロッパ支配を目指すナポレオン】との戦いになり、【プロイセン以外】【ドイツ】【ナポレオンの占領下】に置かれます。

    『ナポレオンのベルリン入城』シャルル・メニエ
    『ナポレオンのベルリン入城』シャルル・メニエ

    1806年には、【西南ドイツの領邦諸国】神聖ローマ帝国から離脱し、【ライン同盟】を結成して【フランス皇帝ナポレオンの保護下に入った】ため、ここで【神聖ローマ帝国は崩壊】します。…

    ライン同盟(1812年)
    ライン同盟(1812年)

     【プロイセン】はハノーファーの支配をめぐる戦いに負けて、【領土の半分を取り上げられます】。さらに【フランスに多額の賠償金】を支払わなければならなくなり、【国としての存亡の危機】に立たされます。領邦国の集合体ではなく【「国家」が必要】であるという認識は、このような危機に直面した領邦の君主や、それを支える貴族から起こっています。…

    ポイント 23

     1807年12月から翌年3月にかけて、【フランス軍占領下】ベルリン・アカデミーで哲学者の【ヨハン・ゴードリッヒ・フィヒテ】【『ドイツ国民に告ぐ』(原題『Die Reden an die deutsche Nation』)】という有名な演説を行います。

    ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ
    ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ

    ちなみに邦題の「ドイツ国民」というのは【この時点ではまだ「ドイツ国」が成立していない】ことを考えれば【正確ではありません】

    女性 ポイント これ

    正確に訳せば【「ドイツ民族に告ぐ」】でしょう。いかに日本人が民族問題に無頓着かわかるでしょう。【日本人が「記紀万葉」で国史や国語を記していたころ、「国民」など大前提でした】から無頓着になるのですが。

    これ 女性

    ドイツ国民に告ぐ 

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    「広辞苑」に台湾が「中華人民共和国」の一部として表記されていることに対し、台湾が修正要求~ネットの反応「岩波書店じゃあしょうがない」

    広辞苑、台湾を「台湾省」と20年前から記載 日本政府声明よりも踏み込んだ記述に「誤りとは考えていない」~ネットの反応「そういう立ち位置で発行されてると認識するべきだな」「岩波書店だしなあ」

    子供 笑う 女性

     この中でフィヒテ【ドイツ語を話す人々がドイツ人】であると述べていますが、実は【プロイセンでさえも純粋なドイツ語を話すドイツ人だけの国ではありません】でした。ここで【大事】なのはフィヒテのような【知識人が「愛国心」や「国民意識」を喚起していた】ということです。』

    日の丸

    いかがでしょうか?

    今回ご紹介させていただく書物は、世界史の教科書書かれている主要な国家の歴史が、如何に真実から乖離したものであるのか、またそれらの国々と比較したときに、私たちの日本が如何に優れた悠久の歴史を持つ国家であるのか、といったことが俯瞰して理解できる良書となります。ただし著者が読者に伝えたい真意は、本来であればその気になりさえすれば如何様にもなる優れた私たちの日本であるのに現実は果たしてどうかという重要なメッセージを問いかけているところにあります。

    読書3-33

    さて、本文中に「ポーランドを隔てた飛び地の小国に過ぎなかったプロイセン王国」と書かれていましたが、この地はもともと別の民族が住んでいた地域で、10世紀プルーセン人への宣教にやって来たカトリックの宣教師アダルベルトは、木の中に住む精霊を崇拝しその精霊の力を恐れていたプルーセン人「木立から立ち去れ」という警告聞き入れずさらに彼らの聖なるオークの木を切ったために捕らえられて殺害されます。まあ、当然でしょうね❤

    プラハの聖アダルベルト
    プラハの聖アダルベルト

    古プルーセン人に殺害されるアダルベルト。
    古プルーセン人に殺害されるアダルベルト。

    その後、「北方十字軍」による遠征が行われます。そして、13世紀になると、ついに「ドイツ騎士団」に屈することになります。

    余談になりますが、そんな「ドイツ騎士団」軽く粉砕したのが「モンゴル帝国」でした。

    Matthäus Merian『ワールシュタットの戦い』
    Matthäus Merian『ワールシュタットの戦い』

    ちなみに、室町時代を迎えていた当時の日本にも「モンゴル帝国」2度も攻め込んできましたが日本人によって軽く蹴散らされてもいます





    詳しくはこちらをご参照❤

    ドイツ騎士団をタコ殴りにして、ロシアをパシリにした「あの国」

    嘘だらけの日露近現代史 

    (問題) 縄文時代から現代までをマラソンに例えると、「室町時代」はゴールまであと何キロ?

    古事記の暗号 

    お話を元に戻しまして、抵抗むなしく戦いに敗れた古プルーセン人たちの地に、ドイツ人やポーランド人などが入植を行い、植民地化されます。そんな中で、「ドイツ騎士団」が支配し続けた地域「ケーニヒスベルク」で、1525年、騎士団総長アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク=アンスバッハは、騎士団領を世俗化してポーランドの封建家臣となり、初代プロイセン公として、ホーエンツォレルン家が世襲する領邦であるプロイセン公国を創設します。宗派は、プロテスタント(ルター派)でした。

    『プロイセン公アルブレヒト』ルーカス・クラナッハ(1533年)
    『プロイセン公アルブレヒト』ルーカス・クラナッハ(1533年)

    プロイセン公国の首都は、ケーニヒスベルクですが、現在ここはロシアの領土「カリーニングラード州」となっているということは、先日も書かせて頂いた通りです。

    ロシア俯瞰 2

    詳しくはこちらをご参照❤

    数学を知っているか否かが、「人生が充実」するかどうかの決め手です

    数学を使わない数学の講義 

    で、本文にも書かれていたように、「1618年、カトリックのハプスブルク家がルター派のプロテスタントを弾圧したことを端緒に三十年戦争」が始まるわけですが、プロイセン公国プロテスタント(ルター派)であり、ブランデンブルク選帝侯プロシア公領を相続し、ドイツ・ポーランドのホーエンツォレルン家による領邦国家連合である「ブランデンブルク=プロイセン」成立します(1618年)。

    ブランデンブルク=プロイセン(1618)
    ブランデンブルク=プロイセン(1618)

    ところで、このブランデンブルク=プロイセンは、三十年戦争「神聖ローマ帝国」「味方」それとも「敵」どちらだったでしょうか?

    女性 悩む 02

    当時のプロイセン公及びブランデンブルク選帝侯プロテスタント(カルヴァン派)ゲオルク・ヴィルヘルムで、

    ゲオルク・ヴィルヘルム
    ゲオルク・ヴィルヘルム

    ブランデンブルクの枢密院神聖ローマ皇帝フェルディナント2世(ハプスブルク家傍系)カトリック

    『フェルディナント2世』ゲオルク・パハマン(1635年)
    『フェルディナント2世』ゲオルク・パハマン(1635年)

    ブランデンブルクの住民プロテスタント(ルター派)、妹マリア・エレオノーラが嫁いでいたスウェーデン王グスタフ2世アドルフプロテスタント(ルター派)です。

    グスタフ2世アドルフ
    グスタフ2世アドルフ

    以上の関係からご理解いただけると思いますが、どう転んでも揉め事が起きる状況に置かれていたのがゲオルク・ヴィルヘルムでした。

    以下は、Wikipediaからの抜粋です。

    「 ゲオルク・ヴィルヘルム状況次第で同盟相手を替えたため、事態は混迷を極めた。敵味方を問わず略奪の対象となったブランデンブルクは、ある統計によると領内の人口が半減したともいわれるほどで、三十年戦争を通じてドイツで最も大きな損害を受けた地域となった。デンマークと皇帝軍が戦った時期では皇帝軍司令官アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインに略奪代わりに領民から徴収した軍税を度々支払う羽目になり、1630年にヴァレンシュタインは諸侯と妥協したフェルディナント2世に解任されたが、続くスウェーデン軍の遠征では1631年のマクデブルクの戦いにおける皇帝軍の虐殺に反発してザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク1世と共にスウェーデン軍と同盟を結びカトリックと敵対した。東プロイセンにおいても、スウェーデン・ポーランド戦争でのゲオルク・ヴィルヘルムの立場は無力で、1626年には東プロイセングスタフ2世アドルフに制圧される有様であった。その後東プロイセンはゲオルク・ヴィルヘルムに返還されたがポーランドの宗主下においてゲオルク・ヴィルヘルムの権力は及ばずポーランド・スウェーデンの影響力の下にさらされることとなった。」

    女性 笑い 笑う

    「 ゲオルク・ヴィルヘルムの玄孫フリードリヒ2世はその著書『ブランデンブルク選帝侯家の歴史』の中でこう述べている

    何よりもまず戦争前にその領内において2万の兵さえ徴兵して指揮下においていなかったことで彼を責めねばなるまい。(…)彼の治世は一族の君侯の中で最も不幸な時代であった。その国土三十年戦争であまりにひどく荒廃したため、予がこの歴史を記述することによって、今にしてようやく彼の事跡が認められるのである』。」


    1640年、息子のフリードリヒ・ヴィルヘルムブランデンブルク選帝侯及びプロイセン公に就きます。

    フリードリヒ・ヴィルヘルム
    フリードリヒ・ヴィルヘルム

    プロイセン公国ポーランド支配から解放し、フェールベリンの戦いなどに勝利して領内からスウェーデン勢力を駆逐したため、大選帝侯(der große Kurfürst)と称えられる人物です。

    ブランデンブルク軍が守り切った丘。ディスマー・デーゲン
    ブランデンブルク軍が守り切った丘。ディスマー・デーゲン

    そして、その孫フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が、兵隊王(または軍人王、Soldatenkönig)と呼ばれ、財政・軍制の改革によってブランデンブルク=プロイセンの強大化に努めた人物です。

    フリードリヒ・ヴィルヘルム1世
    フリードリヒ・ヴィルヘルム1世

    は、身長が高ければ高いほど理想的な兵士になると信じていたので、ひたすら背の高さだけを追い求め兵を集めていて極めて珍しいほどの背の高い男を見つけた場合、通常の何倍もの契約金や給与を約束をしたり、もしそれでも了承しなければ、なんと、誘拐して無理やり国に連れて帰ったりしていました(笑)

    ドイツ歴史博物館に所蔵されている巨人連隊兵士の肖像
    ドイツ歴史博物館に所蔵されている巨人連隊兵士の肖像

    さらに、その息子フリードリヒ2世が、さきほど、その著書ゲオルク・ヴィルヘルムを冷静に分析していたわけですが、ドイツにジャガイモ栽培を広めたことでも知られ、また優れた軍事的才能合理的な国家経営プロイセンの強大化に努め、啓蒙専制君主の典型とされる非常に優秀な人物です。

    フリードリヒ2世
    フリードリヒ2世

    フリードリヒ2世のあとフリードリヒ・ヴィルヘルム2世が継ぎ、さらにプロイセンの領土を拡大します。

    フリードリヒ・ヴィルヘルム2世
    フリードリヒ・ヴィルヘルム2世

    現在ドイツ・ベルリンのシンボルの1つである「ブランデンブルク門」彼の治世に建築されたものです。

    ブランデンブルク門
    ブランデンブルク門

    ベルリンは、本文中にも書かれていたように、ナポレオンの占領下に置かれました。

    だからこそですが、ブランデンブルク門の手前の広場は、1814年の反ナポレオン連合によるフランス・パリの占領を記念して、「パリ広場」と命名され、

    ブランデンブルク門のあるパリ広場
    ブランデンブルク門のあるパリ広場

    1871年の普仏戦争におけるプロイセンの勝利を記念して凱旋パレードも行われた「因縁」のシンボルでもあります。

    普仏戦争の勝利を祝福する装飾がなされたブランデンブルク門と凱旋するプロシア軍(1871年)
    普仏戦争の勝利を祝福する装飾がなされたブランデンブルク門と凱旋するプロシア軍(1871年)

    長くなりましたので、そろそろ終わりにさせて頂きますが、そもそも、昨日のところでも書かせて頂きましたように、ケルト人の住む地に、ゲルマン人が侵入し、ローマ人と争い、最終的に分裂後の西ローマを滅ぼし「フランク王国」を作り、やがて3つ分かれいわゆる「西欧」を形成する土台となるわけですが、

    フランク王国の時代別の領土
    フランク王国の時代別の領土

    そもそも、現在のフランスもドイツも「元フランク王国」なわけで、のちの時代になって、現在のフランスからヨーロッパ全域を蹂躙する「独裁者ナポレオン」が登場し、また現在のドイツから世界中を巻き込む戦争が生み出され挙句「ヒトラー」という独裁者生まれました

    それでは、現代の私たち理解しているつもりである「フランス人」とか「ドイツ人」その他諸々ございますが、その「●●人」って言うのは、どういった定義で説明することができるのでしょうか?

    悩む女の子2

    実は、私たち日本人の国家である「日本国」だけが、まったく異質な存在になります。

    それを理解するための書物が、本書になります。

    女性 ポイント ひとつ





    続きは次回に♥




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    最終更新日2018-04-14
    Posted byみっちゃん

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