2018-02-01 (Thu)
二二八和平公園(にいにいはちわへいこうえん)は台湾台北市中正区にある公園で、日本統治時代に作られた台北新公園を前身とする。
公園が作られる以前は1888年に落成した台北天后宮(媽祖廟)があるだけで周囲には何も無い荒蕪地であった。日本統治時代に入り、統治当局は当地に大規模な都市公園建設を計画し、1899年に起工し1908年に初期の完成に到って開園した。台湾に建設された最初のヨーロッパ風近代的都市公園であり、開園が1897年に完成した円山公園に次ぐものであったので台北新公園と名付けられた。
新公園時代の旧景
第二次世界大戦で日本が敗北して台湾が中華民国に接収された1945年の二年後の1947年2月28日に勃発した二・二八事件では、中心地の一つとなった。中華民国による台湾統治に反抗して蜂起した台湾住民が園内の台湾ラジオ放送局(旧台湾放送協会本部)を占拠し、台湾全土に向けて台北での蜂起を告げたのだった。
二二八和平紀念碑
1996年2月28日、当時の陳水扁台北市長(後に中華民国総統)は二・二八事件で犠牲となった台湾住民を追悼する二二八和平紀念碑を建立し、公園の名称を二二八和平紀念公園に改めた。また、事件の舞台となったかつて放送局の建物を台北二二八和平紀念館とした。
台北市 二二八和平記念碑 碑文
二二八和平紀念碑碑文
「1945年日本戰敗投降,消息傳來,萬民歡騰,慶幸脱離不公不義之殖民統治。詎料台灣行政長官陳儀,肩負接收治台重任,卻不諳民情,施政偏頗,歧視台民,加以官紀敗壞,産銷失調,物價飛漲,失業嚴重,民衆不滿情緒瀕于沸點。
(1945年日本が敗戦し投降した。この消息が伝わると、みなが喜びに沸きかえり、不公平で不正義の植民統治から離脱できることを祝った。
しかし、期待に反し、台湾行政長官の陳儀は接収の重責を担っているにもかかわらず、民情に暗く施政は極めて偏向し、台湾の民を軽蔑した。さらに官吏の風紀は腐敗し、生産、販売は失調し、物価は暴騰し、失業は深刻となり、民衆の不満は沸点に達した。)
1947年2月27日,專賣局人員于台北市延平北路查緝私煙,打傷女販,誤殺路人,激起民憤。次日,台北群衆遊行示威,前往長官公署請求懲凶,不意竟遭槍擊,死傷數人,由是點燃全面抗爭怒火。爲解決爭端與消除積怨,各地士紳組成事件處理委員會,居中協調,並提出政治改革要求。
(1947年2月27日、専売局の職員が台北市延平北路において密売タバコ取り締まりを行った際、婦人の販売人を殴打し、通行人を誤って殺害したことから、民衆の激憤を引き起こした。翌日、台北の群衆はデモ行進を行い、犯人の処罰を求めて長官公署を訪れた。ところが、射撃にあい、数人の死者を出した。これより抗争の怒りの火は全面的に広がることになった。争いを解決し、積もり積もった怨恨を取り除くため、各地の指導者は事件処理委員会を組織し、調停にあたるとともに、政治改革の要求を提出した。)
不料,陳儀顢頇剛愎,壹面協調,壹面以士紳爲奸匪叛徒,逕向南京請兵。國民政府主席蔣中正聞報,即派兵來台。3月8日,二十壹師在師長劉雨卿指揮下登陸基隆。10日,全台戒嚴。警備總司令部參謀長柯遠芬、基隆要塞司令史宏熹、高雄要塞司令彭孟緝及憲兵團長張慕陶等人,在鎮壓清郷時,株連無辜,數月之間,死傷、失蹤者數以萬計,其中以基隆、台北、嘉義、高雄最爲慘重,事稱二二八事件。
(しかし、予期に反し陳儀は愚鈍で強情で一方で調停に応じると見せながら、一方で地方のリーダーたちを反徒とみなし南京に派兵を求めた。国民政府主席の蒋中正は報告を聞くと直ちに兵を台湾に派遣した。3月8日、21師団が師団長の劉雨卿の指揮の下に基隆に上陸し、数ヶ月間、死者、行方不明者は数万を数えた。そのうち、基隆、台北、嘉義、高雄、が最も凄惨だった。この事件は二二八事件と呼ばれている。)
斯後近半世紀,台灣長期戒嚴,朝野襟若寒蟬,莫敢觸及此壹禁忌。然冤屈鬱積,終須宣泄,省籍猜忌與統獨爭議,尤屬隱憂。1987年解嚴後,各界深感沈疴不治,安和難期,乃有二二八事件之調查研究,國家元首之致歉,受難者與其家屬之補償,以及紀念碑之建立。療癒社會巨創,有賴全民共盡心力。勒石雋文,旨在告慰亡者在天之靈,平撫受難者及其家屬悲憤之情,並警示國人,引爲殷鑒。自今而後,無分你我,凝爲壹體,互助以愛,相待以誠,化仇恨于無形,肇和平于永恒。天佑寶島,萬古長青。
(それから半世紀、台湾は長期的な戒厳令下にあって、朝野とも口を閉ざし誰もこのタブーに触れようとしなかった。しかし、屈服と鬱積は最後には発散されなければならない。とりわけ、省籍による不信感と統一・独立に対する争いは覆い隠される。1987年の戒厳令解除後、各界はこの事態の困難さと、和解の難しさを深く感じたために、二二八事件の調査・研究、国家元首の謝罪、受難者と遺族への補償、そして記念碑の建立を行った。社会の大きな傷を癒すためにはすべての国民がともに心を尽くすことが必要である。碑文を刻むことには天にある死者の魂を慰め、受難者と遺族の悲憤を鎮めるとともに、これを鏡とするよう国民に警告を与えるという趣旨がある。今後、敵味方を分かたず、一体となって互いに助け合い、互いに誠実に恨みをなくし、平和を永遠のものとしようではないか。宝の島に天の恵みあれ、永遠に栄あれ。)
財團法人二二八事件紀念基金會謹立。」
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 昭和20年8月、日本が大東亜戦争に敗北した後、【アジアには平和が到来したのだろうか】。
現在使われている【わが国の中学校用歴史教科書にはこう書かれている】。
「第二次世界大戦は、(中略)日本の降伏で、1945年8月に終わりました。日本の植民地とされた【朝鮮や台湾】、日本軍に占領されていた【中国や東南アジア】の人々は、【解放を喜びました】」(帝国書院『中学生の歴史』、平成19年1月発行)
「日本は、8月14日、ポツダム宣言を受け入れて降伏することを決定し、(中略)第二次世界大戦は終わりました。日本が占領した【東南アジア諸国や、朝鮮、台湾】などの日本の植民地は【解放され、独立に向かいました】」(東京書籍『新しい社会 歴史』平成18年2月発行)
しかし、【これらの記述は、重要な歴史に全く触れていない】。
日本を「平和に対する罪(侵略戦争を行った罪)」で裁いた【連合国が戦後、東京裁判中にアジアで何をしていたのか】、ということだ。戦後の復興を支援してくれたのか。いや、違う。【アジア諸民族に対して「侵略戦争」を行い、独立を蹂躙(じゅうりん)していたのである】。
【台湾】は、【蒋介石率いる中国国民党によって占領】され、【数万もの民衆が虐殺】された(【二・二八事件】)。
当時の弾圧を描いた木版画(二・二八事件)
中国大陸では、国民党と共産党による内戦が繰り広げられ、【中国共産党一党独裁政権の樹立によっていまなお中国の民衆は抑圧に苦しんでいる】。他のアジア諸国も、【ラオス、ベトナム、カンボジアは再びフランス軍によって侵略】を受け、ベトナムに至ってはその後、15年近くも独立戦争を強いられ、国土は荒廃した。
パトロールを行うフランス外人部隊とM24軽戦車(インドシナ戦争)
【インドネシアもイギリス軍、次いでオランダ軍によって一方的に攻撃を受け】、3年半の独立戦争で約80万人もの犠牲者を出した。
インドネシア独立戦争のストモ(あるいはブン・トモ)
【チベットとウイグルは戦後、中国共産党政府によって侵略され、独立を失った】。【モンゴルも事実上、ソ連の支配下に置かれた】。そして【朝鮮は米ソ両国によって南北に分断】され、1950年6月25日、【朝鮮戦争が勃発】した。
中国人に自己批判させられるチベット人女性 1958年
【これが戦後、東京裁判中にアジアで起こった「現実」である】。
それでは、【なぜ日本の敗北後、アジア諸民族は、連合国による侵略に苦しめられることになったのか】。
理由は明確だ。【ソ連共産主義勢力】や【欧米植民地政府】の【侵略に対する「盾」となっていた日本軍がいなくなったから】である。
サイゴンにてイギリス軍に降伏する日本海軍将校
大東亜戦争において【日本は、アジアを支配していた欧米の植民地政府を次々と打倒】していった。この絶好のチャンスを生かして、アジアの指導者たちは次々と独立を宣言した。…
ジャワ島へ上陸する日本軍
ところが日本軍の敗北によって、…新興独立国は自らの力で欧米による再侵略と対峙せざるを得なくなった。【戦勝国となったイギリス、オランダ、フランスといった連合国は、植民地を放棄するつもりはさらさら無かった】からだ。
【独立の後ろ楯となっていた日本軍】が降伏した以上、アジア諸民族も再び欧米の軍門に降ってくるに違いないと、欧米連合国は思い込んでいた。
ところが、【アジア諸民族は一旦手にした「独立」を手放す気はなかった】。その結果、【連合国とアジア諸民族の間に「戦争」が勃発する】ことになったのである。
インドネシア人により独立のために使用された旧日本軍の軽戦車
そして、【連合国による戦後の「侵略戦争」を正当化した理論が、東京裁判史観】であった。欧米連合国は、「侵略国家」日本と連携して独立を宣言したアジアの独立指導者たちは日本と同じ軍国主義者であり、その独立は認められない--と主張したのである。』
いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、「コミンテルン・キラー」と呼ばれる著者によるもので、2012年12月に発刊された書物になりますが、主にソ連・コミンテルンとアメリカのルーズベルトが大東亜戦争と第二次世界大戦、そしてその後のアジア諸国への「戦勝国による再侵略」を引き起こした元凶であり、そのように歴史を見直す動きが、すでに起きていますといった内容がメインになります。これ一冊で、かなりの範囲がカバーできますので、今後、どのように歴史の見直しが進んでいくのか、知っておきたいという方々に、非常にお勧めの良書です。
さて、本文の記述にあったように、実は、私たちの日本が敗戦したことによって、東南アジア諸国に対して、再び侵略してきたのが戦勝国となったイギリス、オランダ、フランスといった連合国でした。
先日、御紹介させて頂きました書物にも書かれていたように、私たちの日本は、「アジア諸国を植民地から解放」するために命懸けで戦った、そしてその目的を果たした素晴らしい国家です。
詳しくはこちらをご参照❤
↓
☆安濃 豊 大東亜戦争の開戦目的は植民地解放だった ― 帝国政府声明の発掘
ところが、学校の「社会科」という戦後になって作られた、デタラメな科目の授業では、私たち日本が敗戦した後に、アジア諸国の人々が、ようやく手に入れた「白人国家からの独立」を手放さないために、多大な犠牲者を出しながらも必死に戦っていたにもかかわらず、その事実には一切触れず、何故か「解放されて喜んだ」という架空の物語を子どもたちに教えているというわけです。
そんな教科書をお金を出して買う必要って、どこにあるのでしょうか?そんなデタラメな授業をすることで給料がもらえる社会科の先生って、この世に必要なんでしょうか?
台湾領有宣言を行った中国国民党軍(1945年10月)
『 「日本は台湾の近代化のために一生懸命でした。なにせ台北の下水道施設などは内地よりも早かったぐらいです。衛生管理を徹底することによって伝染病などを一掃しました。それから教育などはあらゆる身分の人が受けられるよう、金を与えてまで修学を奨励しております。こういったことが今日の台湾発展の基礎となっているんです。とにかく良いことは良い。我々台湾人はそう受け止めています。」 蔡焜燦(さいこんさん)
「台湾統治」=「植民地統治」=「搾取」=「反日感情」というお決まりのパラダイムは台湾には存在しない。
【二・二八事件】専売局台北分局前に集まった群衆(1947年2月28日)
戦後、真っ先に中国の侵略を受けたのが台湾だった。
誰もが「二・二八事件」に眉をひそめ、ここに初めて「台湾が中国の一部ではない」ことを認識することになる。二・二八事件、それは、…前代未聞の大虐殺事件のことである。この事件を知れば、「二つの中国、一つの台湾」という実体が見えてくる。
中国国民党軍の無差別虐殺。その残虐さに台湾の民衆は抵抗を諦めた(二・二八事件)
陳(春栄)氏はかつて回天特攻隊員として訓練を受けた大日本帝国海軍軍人だった。
「私は日本のために一生懸命戦いました。ほんと、精一杯戦いました。ところが戦後、台湾にやってきた大陸の連中に捕まえられて、こんな風に腕をへし折られたんです。」
陳さんは涙を目尻に光らせながら語ってくれた。
「私の精神は、゛大和魂゛です。帝国海軍軍人として日本の正義を証明するためにこうして軍服を着て参加しています。いまでも戦っているんですよ!」 二・二八事件の追悼集会にて 台湾人 陳氏』
☆画像はこちらからお借り致しました⇒ 「台湾は日本の生命線!」
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『 2014年3月…台湾の学生らが立法院を占拠するという騒動があったのを覚えているでしょうか?親中の左翼メディアは積極的に報じようとしなかったので、小さなニュースだと思っていた人もいるかもしれませんが、世界的にもその時の最も大きなニュースでした。日本でもインターネットの「ニコニコ生放送」で、82万人の視聴者がその様子を見守っていました。最終的に約880万人の来場者(アクセスした人数)がありました。
台湾人による反中国運動が世界中に報道されたことで、中国は大きなダメージを食らったのではないかと思います。
「台湾人も大多数が漢人では?」と思うかもしれませんが、実際には違います。そう思わせているのも中国の工作の一つです。
台湾に大陸の中国人(漢人)が入ってきたのは清の時代ですが、清の統治時代に、原住民(台湾人)たちは姓を名乗るために形だけ漢人になったのです。実際には、風土病が怖くて自ら進んで台湾に来たがる中国人はいませんでしたし、日本が統治するようになってからはほとんどの中国人が本土に帰って行きました。
今の台湾人が中国の移民の子孫でないことは、「二・二八事件」当時のイギリス外務省も認めています。つまり中国人が勝手に、「今の台湾人は漢人の子孫」と言っているだけなのです。
今の台湾人の大多数が原住民の子孫であるということは、遺伝学的な見地からも証明されています。』
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『 許 江陶(キョ コウトウ)氏
敗戦後の台湾がどのような運命を辿ったか、日本の人たちには想像もつかないでしょう。
1945年の8月15日に終戦を迎え、その日から一年間、中国が来るまでの間、台湾は無政府状態になりました。日本は負けましたから、全然権限がありません。玉音放送を聞いたその日、台湾の警察は制服を脱いでさっさと逃げ出しました。職務から逸早く離れたわけです。何故か?庶民からの報復を恐れて逃げたのです。でも、台湾人は日本教育のお陰で、皆、法をよく守って、無政府状態であっても、強盗、略奪など、犯罪が起こりませんでした。
例えば、アメリカでも災害があると暴動や略奪など起こるでしょう。その当時の台湾には、重大な刑事事件はありませんでした。起きたのは、支那兵が来てからです。支那兵というのは国民党、蒋介石政権といったほうがいいのです。暴漢、略奪…。支那兵は、台湾人を同胞と呼んで、やってきました。しかし、その実態は新たな支配者に過ぎませんでした。
奴ら二百万の兵が来るまでの一年くらいは台湾は平和でした。
奴らがやってきて、私たちの生活は足元から崩れ去りました。台湾の物資は中国に大量に流され、密輸による物不足が始まり、米も砂糖も野菜も不足するようになりました。特権階級の地位を独占する中国人の雇用を行ったため、台湾人の働き口は減り、多くの者が生活に困りました。倒産、失業と社会は混乱を極め、さらにインフレが起こり、台湾の経済は崩壊しました。
この対応に、国民党政府は紙幣の増刷で対応したため、台北市の米価格が1945年8月から1946年の4月の僅か8ヶ月で、百倍の値段に跳ね上がりました。百倍ですよ。1949年には、旧台湾紙幣と新台湾紙幣の両替レートは、なんと4万元に対し1元。信じられますか?
本当に中国人には失望しました。特に末端の役人や下級兵たちの振る舞いは、横暴極まりないものでした。反感とともに、失望感は激しい不満に変わっていきました。
その不満と怒りが爆発するきっかけとなったのが、1947年の二・二八事件です。
台湾人の手足を針金で貫いて数珠繋ぎにし、生きたまま川に落とす(二・二八事件)
☆画像はこちらからお借り致しました⇒ 「台湾は日本の生命線!」
私は、実の兄も、義理の兄も二・二八事件で支那兵に殺されました。
1947年2月27日、台北市で闇タバコ取締官がタバコ売りの台湾人女性に暴力を振るい、これを非難した市民に発砲して即死させました。この事件の抗議のため翌日公舎に向かった民衆に対して、官憲が機関銃で無差別に機銃掃射し、死傷者が多数出ました。これをきっかけに台湾人の怒りが一気に爆発し、抗議活動や暴動が台湾全土に広がりました。これが二・二八事件です…
私の兄は当時30歳で公務員でした。3月6日の正午、私の兄は高雄市役所で市民代表と協議していましたが、何の前ぶれもなく、支那兵が機関銃掃射し始めました。兄は機関銃音を聞いて、直ぐに市役所の広場の防空壕に避難しましたが、撃ち殺されました。所持していた公金、腕時計、リング、革靴が剥がされ、奪われていました。この時殺戮された市民は、数百人にのぼると言われています。
この時、義理の兄にも悲劇が起きました。当時自宅の隣で時計店を営んでいた義兄の家屋に支那兵が侵入し、金目のものを強奪しようとしました。ところが金目のものは手に入らなかったので怒って、家から逃げ出そうとしていた義兄を撃ち殺しました。
それだけではありません。同僚も出勤途中に殺され、所持していた現金、腕時計、リングも剥奪されました。乗っていた自転車は支那兵は乗れないので残っていました。
この事件で殺されながらも、亡き骸が見つかっていない人々の数は少なくありません。身内が亡き骸を引き取りに来ると金銭をせびり、支払わないと引き取らせないという非情なことが多く起こっていました。台湾全土で、虐殺された人の数は2万人を超えると言われていますが、正確な数は今もわかっていません。
日本人は中国人の本当の姿がわかっていません。私はそもそも親日ですが、今の実情をみると苛立ちます。台湾の今の実情がわからないから、なぜ台湾が反日化しているかもわからないでしょう。』
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そう言えば、こんなデタラメな辞書もありましたが、一体誰が、こんなシロモノを購入するんでしょうね(笑)
☆「広辞苑」に台湾が「中華人民共和国」の一部として表記されていることに対し、台湾が修正要求~ネットの反応「岩波書店じゃあしょうがない」
☆広辞苑、台湾を「台湾省」と20年前から記載 日本政府声明よりも踏み込んだ記述に「誤りとは考えていない」~ネットの反応「そういう立ち位置で発行されてると認識するべきだな」「岩波書店だしなあ」
続きは次回に♥
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