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    親子チョコ💗(500冊以上の良質な書籍のご紹介)

    子どもたちの教育のため、また、その親である私たち自身が学ぶための、読まれるべき良質な書籍のみをご紹介させていただきます。

     >  世界史 >  昔から「遊牧民」に支配されていたのが「中国」です

    昔から「遊牧民」に支配されていたのが「中国」です

    アンコール・ワット

    アンコール・ワット(クメール語: អង្គរវត្ត, 英語: Angkor Wat)は、カンボジア北西部に位置するユネスコの世界遺産(文化遺産)であるアンコール遺跡の一つであり、その遺跡群を代表するヒンドゥー教寺院建築

    サンスクリット語アンコールは王都クメール語ワットは寺院を意味する。

    アンコール・ワットヴィシュヌを奉る寺院である。

    アンコール・ワット 2






    戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。

    そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

    私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、

    客観的に情勢を判断する必要があります。

    それでは、この書物を見ていきましょう!




    『 【モンゴル帝国】チンギス・ハーンの孫の代にすでに【4つの地方王権に分かれた】が、これを、モンゴル帝国の崩壊という人はいない。

    モンゴル帝国の版図の変遷 テムジンがチンギス・カンを名乗った1206年から1294年のモンゴル帝国(赤)の領域に続き、4つの領域国家のゆるやかな連邦体制に移行した帝国の版図を示した(1294年時点)。ジョチ・ウルス(黄)、チャガタイ・ウルス(濃緑)、イルハン朝(緑)、大元ウルス(紫)である。
    モンゴル帝国の版図の変遷 テムジンがチンギス・カンを名乗った1206年から1294年のモンゴル帝国(赤)の領域に続き、4つの領域国家のゆるやかな連邦体制に移行した帝国の版図を示した(1294年時点)。ジョチ・ウルス(黄)、チャガタイ・ウルス(濃緑)、イルハン朝(緑)、大元ウルス(紫)である。

    なぜなら、【モンゴル帝国の大ハーン】【君主を兼ねた宗主国の元朝】も、【ロシアを支配した「黄金のオルド」またの名をキプチャク・ハーン国】も、【中央アジアを支配したチャガタイ・ハーン国】も、【イランを支配したイル・ハーン国】も、その後【ますます栄えた】からだ。

    1345年当時の世界
    1345年当時の世界

     【モンゴル帝国】のような【草原の遊牧民が建てた国家】を、私たちは【「遊牧帝国」】と呼ぶ。

    ポイント 23

     なぜ「帝国」なのかというと、理由は二つある。

    悩む女の子2

     ひとつは、日本語の「帝国」の原語である【英語の「エンパイア(empire)」には、国境に囲まれた領土という意味が含まれていない】ということ。…

     二つめは、【モンゴル帝国】は、いまのことばでいうなら、【これ以上はないというくらいの「多民族国家」だった】からだ。

    ポイント 21

    【支配階級は草原の遊牧民】だったが、…【さまざまの部族の連合だった】。いまでいう【モンゴル系】【トルコ系】や、その前からいた【イラン系】など、【あらゆる系統の人種が入りまじっていた】

    ポイント 女性

     【その遊牧民の支配を受けた】定住農耕地帯は、【東は朝鮮半島から西はロシア草原まで、南はシナからイラン高原までを含む】のだから、これはもう、【旧大陸のほとんどすべての民族を含んでいた】といっていい。

    ポイント 22

     そこで、次の問題だが、では【モンゴル帝国時代のモンゴル人とは、一体、どういう人たちだったのだろう】

    女性 悩む 02

     まず、【彼らをモンゴル民族だった、とするのは誤り】である。…

    女性 ダメ5

     モンゴル帝国時代のモンゴル人を、支配階級の遊牧民という意味だとすると、…【帝国の支配層はいろいろな部族の連合】で、【さまざまな人種で構成】されていた。

    ポイント

    さらにチンギス・ハーンと息子たちには世界中の女が嫁入りしたわけだから、その子孫は、さらに【いろいろな血が混じった】に違いないのだ。

     つまり【モンゴル帝国時代のモンゴル人】というのは、【アジア北部の草原から出てきたさまざまな部族出身の遊牧民を母体】としながら、【そこに、ユーラシア大陸の各地の人種が混血した人たち】だった、ということができる。

    ポイント 女性 重要 5

     では【モンゴル帝国時代のモンゴル人はその後どうなったのか】、ということでいえば、

    これ 女性

    彼らは、【旧大陸の世界各地に広がって、その地の住民たちとさらに混血し、別の名前で呼ばれるようになっていった】のである。…

     【日本人だけが、モンゴル帝国時代にモンゴル人の血が混じらなかった、稀有の例】だ。』

    日の丸

    いかがでしょうか?

    今回ご紹介させていただく書物は、私たち日本人が知っているようで実はまったく知らない「モンゴル」について、非常に幅広く日本とモンゴルとの文化の違いや、モンゴルの歴史について、とても分かりやすい文章で解説がなされている良書です。このモンゴルについての認識を正しく持つことができれば、満州人朝鮮人支那人チベット人ウイグル人などについても知ることができて、現在の中国共産党が唱える「中国人」なるもの「虚構」であるということが明白になります。

    読書 女性 3-16

    本日までの本書のご紹介で、「モンゴル」や「元朝」は、「中国」でも「中華人民共和国」でもなくましてや「モンゴル人」が「中国人でもない」ということがお分かりいただけたのではないかと思います。

    ポイント 000

    それでは、本日も、受験用の「お勉強」丸暗記させられる類の歴史教育から抜け出して、本当に実社会で役に立つ「歴史観」掴んで頂くために、とても役に立つ年代ごとの変遷が辿れる簡易世界地図(⇒ワールド・ヒストリカル・アトラス(古代から現在までの国の移り変わりを表現した歴史地図))を使って、少し見ていきたいと思います。

    前回のところ(⇒遊牧民の歴史を教えない「社会科」や「世界史」)では、「漢字」という文字をコミュニケーション手段として用いた多民族の集合体でしかない、「民族でもない」「人種でもない」「漢人」「漢民族」と呼ばれる人種的には「単なる雑種」の集団が、「漢字」を読み書きできないからと言って蔑んでいた北方の夷狄(いてき)に本来の居住地である「中原」から追いやられて南方へと移住していくという正しい歴史の流れを見てきました。

    紀元400年頃の世界地図
    紀元400年頃の世界地図

    ここで、上の世界地図を見て頂きますと、「フン族」というのが西ユーラシアに存在しているのが確認できますが、この「フン族」については今でも諸説あって不明な点が多いのですが、遊牧民であったのではないかと考えられます。で、この「フン族」の侵入を受けて、ゲルマン民族西へと追い遣られ現在に至るヨーロッパの基礎を作ることになります。そして、そのゲルマン民族の侵入によって、まず「西ローマ」が滅ぼされることになります。

    つまり、ユーラシア大陸の西と東で、同じように、「遊牧民の侵入」が起こってそれまでにあった国々が滅ぼされていったわけです。

    ポイント 31

    そして、そこには「連続性が無い」んです。これが、私たち世界最古の日本文明との決定的な違いになります。

    ポイント 32

    『  日本のように一つの所に同じ領域に同じ民族が住み続け二千年以上もの歴史を積み重ねてきた国ほかにはありません

     ヨーロッパを見てみましょう。古くはケルト人が住んでいました。カエサルの『ガリア戦記』に見るように、そこにラテン民族のローマ人がやってきてケルト人を蹴散らします。そのころ、中央アジア中央ヨーロッパでは、フン族の圧力に押し出される形でゲルマン民族が西へ移動してきます。ゲルマン民族のさまざまな種族がヨーロッパ各地に定着し、それがヨーロッパのさまざまな国の原型になったといわれています。

     それだけでは終わりません。13、14世紀になるとモンゴル族が侵入してきます。ヨーロッパは大きく動揺しました。国境線が西に東に、南に北に移動しました。

     これはアジア大陸でも同じことです。中国の歴史はいくつもの王朝の交代の歴史でした。そして、王朝と王朝との間にはほとんど連続性がありません断絶していたのです。秦王朝の兵馬俑(へいばよう)の技術は、その後の中国の彫刻になんら影響を与えていません。それは単に王朝の名称が変わっただけというのではなく漢族から鮮卑(せんぴ)族へモンゴル族へ満州族へ、という支配的民族の交代であったのです。

     そこには戦乱がありました。他民族に侵略され、追われて移動し、故郷を失い、消滅し、あるいは新たな故郷を求めるということが繰り返されて、現在ある国が定まっていったのです。

     世界の国々すべてこのような変化断絶を経験しています。

     しかし、日本にだけそのような歴史がありません。一度だけ、モンゴルが攻めてきたことがありますしかし日本の国土には侵入できませんでした

     明治以降を「近代」と呼び、何もかも変わったようにいう向きがあります。しかし、何が変わったのでしょう。日本人という民族はそのままです。また、日本はアメリカとの戦争に負けました。しかし米軍は、天皇には関与せず、本土上陸もしませんでした。その結果、基本は変わらなかったのです。日本民族は依然として同じ領域に日本人として暮らしています。そして、二千年以上も前から日本が変わらずにここにあることを示す何よりのものは、天皇がおられるということです。明治のいわゆる近代化の波も、戦争も軍事的な敗北だけで、日本を変えることはなかったのです。

     世界史では、近代が国家観を形成し、人々の国民意識を育て、国家が成立したといわれます。しかし、日本は大陸から隔てられた島国という条件もあって、自然と一体になって、大八洲(おおやしま)がそのまま国土として意識され、早くから巧(たく)まずして人々の国民意識を育てることになり、それが途絶えることなく今日まで続いているのです。

     日本人の変わらない連続性を示すものとして、たとえば『万葉集』を挙げましょう。それは日本の神話が生まれたのと同じ時期から詠み継がれてきたものです。あらゆる人々が自然の中で、農耕をしながら、旅をしながら、防人(さきもり)の困難さに耐えながら、あるいはいつに変わらぬ日常生活を営みながら、歌に詠んだものです。それをいま私たちが読んでも、何の違和感もありません。そこに詠まれている感情、気持ちをそのまま私たちのものとして感じとることができます。7、8世紀以前の人が心地よく感じた五・七・五・七・七の響きも、同じように心地よく響きます。だから、一部の専門家だけでなく、『万葉集』はいまも一般の人に広く読まれ、その歌が愛唱されているのです。

     このようなことは他の国には絶対にありません日本だけのものです。これは、日本では同じ体制、同じ言語、同じ文化が変わらずに連続しているからにほかなりません。

     世界には前世紀の高い文化を示すもの、神殿や劇場、闘技場や水道などがいくつもありますしかしそれらはすべて遺跡です。廃墟です。その文化は途絶えてしまっていまは生きていません

     日本は違います。まだ、仁徳天皇陵を拝んでいます。千三百年前にはじまった伊勢神宮の20年ごとの遷宮はいまも営まれ、人々は神々しい気分を感じながら玉砂利を踏んで参拝しています。千四百年前の木造建築である法隆寺は、いまもそのままに、仏教の法要が営まれています。それらはすべていまも生きているのです。日本が不易流行(ふえきりゅうこう:いつまでも変化しない本質的なものを忘れない中にも、新しく変化を重ねているものをも取り入れていくこと。また、新味を求めて変化を重ねていく流行性こそが不易の本質であること。)の国である現れです。

     グローバリゼーションの風潮の中で、国家観を薄めるかのような動きが起こっています。しかし、その流れに押し流されてはなりません。日本が不易流行の国、歴史大国であることを自覚し、その位置に立って私たち日本人の体験、思想を世界に向かってしっかり述べていくことが、日本人が世界に交わっていく道であることを知らなければなりません。日本一大文明の国なのですから。』


    詳しくはこちらをご参照❤

    世界では死んでいて、日本では生きています

    日本の歴史 本当は何がすごいのか 

    それでは、さきほどの世界地図から、100年経過した頃を見てみましょう。

    500年頃の世界地図
    500年頃の世界地図

    「中原」今の北京すっぽりと収まってしまう領域である支那の北半分「北魏」という「遊牧騎馬民族」の「鮮卑(せんぴ)族」の国が支配しています。その北方にある「柔然」西方にある「高車」さらに西にある「エフタル」も、「遊牧民」の国家です。

    そして、さらに100年が経過すると、こんな感じになります。

    600年頃の世界地図
    600年頃の世界地図

    支那では、漢滅亡から400年ぶりに、「隋」によって「中原」から南方を含む領域を統一していますが、この「隋」の支配層「遊牧騎馬民族」の「鮮卑(せんぴ)族」でした。

    さらに北方にある「突厥(とっけつ)」も、もちろん「遊牧民」です。

    ポイント 31

    について、少し確認しておきますと、「遊牧騎馬民族」の「鮮卑(せんぴ)族」の国であった「北魏」の将軍で、もともと「那羅延」という名前だった人物が、のちに「楊堅」として隋王朝を開きました(581年)。

    楊堅
    楊堅(那羅延)

    もとの名前である「那羅延」は、ヒンドゥー教神さまの一人である「ヴィシュヌ」その異名である「ナーラーヤナ」に由来しています。「ナーラーヤナ」を漢字で音写すると「那羅延天」となります。

    ヴィシュヌ
    ヴィシュヌ

    で、その楊堅(那羅延)の嫁「独孤伽羅(ドッコカラ)」西魏の匈奴系軍人の娘でした。

    このように、支那を再統一したのは中華思想で蔑むべき存在であるはずの北方の夷狄(いてき)による功績であったというのが正しい歴史の理解になります。

    ポイント 31

    それでは、本日はここまでとさせて頂きますが、もう一度、さきほどの世界地図を見て頂きますと、「日本」が登場していることがわかります。

    これ 女性

    600年頃の世界地図
    600年頃の世界地図

    漢滅亡から400年を経て、「遊牧騎馬民族」「鮮卑(せんぴ)族」による統一安定した支那(隋)に対して、私たちの日本は、どのような行動をしたのでしょう?

    そこで登場するのが、「聖徳太子」です。

    聖徳太子
    聖徳太子



    続きは次回に♥




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