2018-01-04 (Thu)
☆【これは奇跡】そらに忠実すぎる「プーさん」の雲が浮かぶ!これは誰がみても・・・
奇跡(奇蹟、きせき、英: miracle)は、神など超自然のものとされるできごと。人間の力や自然法則を超えたできごととされること。
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 維新回天、なる。
遂に300年続いた徳川幕府が政治の中心から追い払われる日が来ました。
戊辰戦争中の薩摩藩の藩士(着色写真)。フェリーチェ・ベアト撮影
我々は【世界史の奇跡】と言われる【明治維新】を知っています。【天皇の名のもと】に中央政府を作り、「政令一途」を実現する。税金を中央政府に集めて、国家全体の軍を創る。不平等条約を今すぐ撤回させる実力が無い以上、外交は「武備恭順」でやり過ごすしかない。その為には【「殖産興業」で「富国強兵」をはかる】。すなわち、【日本国民による日本国家を打ち立てる】。【国民国家になる】ことです。
【江戸の知識人】は、間違いなく【日本の歴史の中で最高に知的水準が高い人びとだった】でしょう。列強の侵略の脅威の中、【何をすればよいかの解を知っていました】。しかし、【知っているのと実行できるのは、まったく別の話】です。
政治に携わる人間は、誰もが現実をみます。
文久の改革以降の政治において、【常に中心となっていたのは徳川慶喜】でした。誰もが徳川慶喜抜きの政治はあり得ないと考えていました。
禁裏御守衛総督時代の慶喜
そうした当時の政界の常識に異を唱え、【「絶対に慶喜を排除する」と決心】していたのは【大久保利通】であり、【西郷隆盛】です。
志士時代の大久保利通(明治元年頃)
アヘン戦争以来、危機感を抱いた幕府は多くの改革をなしてきました。天保の改革、安政の改革、文久の改革、そして将軍慶喜による慶応の改革。そのいずれも中途半端に終わりました。
慶応3年(1867年)大阪での慶喜
【慶喜は徳川300年のしがらみを背負った人物】です。【慶喜がいる限り、日本は国民国家になることはできない】。それには自分が最高権力を握り、責任を負うしかない。そうした【大久保の意思が、慶喜を倒しました】。
『徳川治績年間紀事 十五代徳川慶喜公』月岡芳年
そうした【大久保を支えたのが、西郷】です。【西郷は大久保と共に慶喜排除に邁進】しました。
軍服姿の西郷隆盛 床次正精作
しかし、その後は二人の間に温度差が現れ、そして【悲劇的な結末】を迎えます。』
いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、「世界史の奇跡と言われる明治維新」と言われる、私たち日本人の偉大な歴史的出来事について、単なる受験用の「お勉強」の知識ではなく、現在を生きる私たち日本人一人ひとりに対する範を示した良き先例として学びなおす必要があることを、あまり語られてこなかった西郷隆盛の逸話も含めて、当時の主人公たちの生き様を浮かび上がらせている良書になります。
本書をご覧頂くと分かることなんですが、受験用の「お勉強」で歴史を学んだことがある日本人なら誰でも知っているはずの、あの「織田信長」について同じ著者によって書かれた書物と通底するテーマがあります。
『 人の命は、たかだか五十年。この世界の中で、夢幻のように儚(はかな)い、ちっぽけな存在。だったら、己はどのように生きるべきか?
最初に、なぜ近代史家の私が信長を語るのか、理由を説明しましょう。
幕末、白虎隊(びゃっこたい)の子供たちは、毎日切腹の作法を訓練していました。自分たちは武士だから、庶民と違って責任を負わなければならないと、心から思って生きていたからです。本当のエリート意識を背負って生きていました。明治までのエリートには、人の上に立つ者の覚悟がありました。だから、世界史の奇跡と言われる明治維新を成し遂げ、日清日露の両大戦を勝ち抜き、世界の誰にも媚びないで生きていける強い国、大日本帝国を築き上げました。
しかし昭和になり、エリートが「試験で優秀な成績を取った人」というわけの分からない定義に変わってしまい、結果、陸軍も海軍も官僚たちも“自称エリート”たちの庇(かば)い合いばかりで、誰も責任を負わないまま、敗戦という取り返しのつかない大失敗をおかしてしまいました。それでも戦前は、まだいい。少なからずの指導者たちが、自らの命を絶ちました。せめて、「死んでお詫びをしなければ」という責任かがありました。「アンタらが死んだくらいで、責任はとれないだろう!」と言いたくもなりますが、それでも己の命よりも責任が重いという意識はありました。
翻って現代日本、実にグダグダな時代です。戦争に負けて、負けっぱなし。殴り返す気力すら、失っている。アメリカの持ち物にされたばかりか、ロシアや中国までが「それを俺に寄越せ」と小突き回しに来る。あまつさえ、韓国や北朝鮮にまで舐められている。
元をたどれば、占領軍のダグラス・マッカーサーが日本人をそういうふうに去勢したのでしょうが、いつまで70年前の占領軍に責任を押し付けるのか。いいかげん、マッカーサーがいなくなって60年も経つのだから、自分で強くなる、自分で賢くなる努力を始めるべきではないのでしょうか。
このグダグダな現代を、どう生きるか。私はそのヒントを、本書で織田信長に求めたいと思います。』
詳しくはこちらをご参照❤
↓
☆「織田信長」を知らない、私たち日本人
織田信長も、西郷隆盛も、大久保利通も、高杉晋作も、別に「普通の生活」を過ごしていても良かったのですが、そこが決定的に違っていました。
何が違っていたのでしょうか?
「自分がやる」という、この一言に尽きます。他の誰かが、ではなく、「自分がやる」です。それも、やるからには「命懸け」なんです。素敵ですよね❤
さて、ここからは、昨日の続きとなります。
繰り返し取り上げておりますが、昨年末の、こちらのニュース。
☆【文春砲】社民党・福島瑞穂が「脅迫・傷害」で捜査中の“武闘派労組”を支援していたことが判明…
日本のメディアは、ちゃんと報道するのでしょうか?
そういえば、ある国会議員も、こんな風に仰っていましたがw
☆質問「なぜ辻元氏の関西生コン疑惑を追求している議員が足立さん以外誰もいないのでしょうか?」→ 足立議員の答えに反響…
で、社民党の福島瑞穂と密接に結びついているテロリスト、や、
立憲民主党の辻元清美との関係が深い連帯ユニオン関西地区生コン支部など、
それらは、いわゆる「新左翼」と呼ばれるテロリスト連中で、当ブログでは「珍パヨク」とも表現させて頂いておりますが、その「新左翼」「珍パヨク」らが、1960年代の学生運動のさなかに、筆跡で身元が割れないようにと使用していたのが「トロツキストの字」の意である「トロ字」、いわゆる「ゲバ字」と呼ばれるもので、「ゲバ」とは「ゲバルト( Gewalt)」、ドイツ語で威力・暴力という意味です。
中には、本当に「漢字」を知らない「おバカ」や、「日本語」が書けない「外国人」が紛れ込んだりもしていますということを確認してきました。
詳しくはこちらをご参照❤
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☆ゲバ字、知っていますか? ~ 漢字も書けない「パヨク」
ところが、ほとんどの方々にとって、「新左翼」とか「珍パヨク」っていうのが、いったい何なのかを理解し難いわけなんですが、それは受験用の「お勉強」でしか歴史を勉強してこなかったためなんです。
そこで、それを分かって頂くために、受験用の「お勉強」でしか歴史を勉強してこなかった、そのことを一番理解できる、たった一つの質問を書かせて頂きました。
それが、「大東亜戦争、第二次世界大戦で、本当の意味で勝ったのは、どこの国でしょうか?」です。
昨日までに見てきましたように、残った答えは2つで、「アメリカ」か「ソ連」の二者択一となりました。
これが昨日の宿題でした。
いまから100年ほど前、1917年に、当時の知識人の間で「ユダヤ人革命」と呼ばれた、最も重要な歴史的な出来事が起こりました。
それが、「共産主義」の実践を通じて、理想とする「社会主義」の国家を目指す、として、「マルクス主義」に気触(かぶ)れた左翼ユダヤ人らが中心となって、ロマノフ王家のロシア帝国を滅ぼし、史上初の「社会主義国家」である「ソ連」を成立させた「ロシア革命」です。
詳しくはこちらをご参照❤
↓
☆100年前の「ハイ・ファイナンス」と現代グローバリズム
この「ユダヤ人革命」・「ロシア革命」当時、一党独裁体制のファシズム(全体主義)国家である「共産主義国家」は、その「ソ連」ただ一つでした。
ところが、戦争が終わってみると、地球上の様子が一変するんです。
一党独裁の共産主義国家である、であった国
また、「社会主義」を宣言した国は、こんな風になります
自国を何らかの定義で社会主義国と宣言した全ての国。社会主義を宣言した期間で色分け
「戦争で、本当の意味で勝ったのは、どこの国でしょうか?」
これを見て、「アメリカ」が戦争に勝ったと思う方々には、一度、「精神鑑定」をお勧め致します。
でも、笑ってばかりもいられなくって、実は、受験用の「お勉強」で丸暗記させられる類の歴史では、何故か、「アメリカ」が戦争に勝ったということになっているんです。
「戦争で、本当の意味で勝ったのは、ソ連です」
そのソ連という国は、どんな国だったのでしょう?
『 スリーグノフ著『ソヴィエト=ロシアにおける赤色テロル(1918~23)』(梶山伸一訳、社会評論社)という訳著がある。この書物の原著は1924年にベルリンで出版され、2006年にロシアで最新版が発行された。日本でも30年以上前から出版の話はあったがそのままに放っておかれ、平成22年になってやっと日の目を見た。いかに日本でも左翼論壇による規制が行われているかを見てとれる。
この本は、ロシア革命後のスターリン以前から公然と虐殺が行われていたにもかかわらず、それ自身が暴力革命路線として秘匿され、非難の的にならなかったことが語られている。「血まみれの統計」という章では、1918年の段階から毎年「革命裁判所」により銃殺された人々の記述がなされている。この著者は、それが赤色テロルとして共産党のもつ階級闘争というイデオロギーでなされたことを語っている。ナチの人種抹殺よりもはるかに主観的な階級抹殺を口実に人々が逮捕され、処刑され、暗殺されていたことを述べているのだ。それはレーニンの時代から行われていたが、意外にもその指導者の責任のことはこの書物では語られていない。つまり、これらの処刑は集団指導的に行われたのである。必ずしも誰かが責任を問われることのない体制のなかで行われていたことになる。この革命はある共通な集団によってとりしきられていた。
その集団とは左翼ユダヤ人グループである。
当時の新聞が発表したソ連の指導者の記事は、いかにユダヤ人が多かったことかを記している。…私はトロッキーやカーメネフがユダヤ人であることは知っていたが、レーニンもメシユコフスキーもユダヤ人の血が流れていることは知らなかった。…そして指導者14人の名が並んでいるが、すべてユダヤ人であった。この調査によると、ソ連政府の各委員会におけるユダヤ人の数およびパーセンテージは、政府の中心の人民委員会総数23人のうち17人、77%がユダヤ人である。また、軍事委員会も76%、外務委員会、財務委員会が80%、司法委員会にいたっては95%であり、裁判がこの委員会の下で行われたとすると、ユダヤ人に処刑されたという印象が生まれたとしても不思議ではない。社会委員会、公の新聞記者の数にいたっては、100%ユダヤ人である。』
詳しくはこちらをご参照❤
↓
☆共産主義「ユダヤ人」による大量虐殺は、ナチス以上に酷かった
当初の革命の中心人物は、もちろんウラジーミル・レーニンこと、本名・ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフという「マルクス主義者」です。
ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ
このレーニンのウリヤノフ家と親しかったのが、ロシア革命の指導者の一人でもあったアレクサンドル・ケレンスキーのケレンスキー家で、ロシア革命の「二月革命」(1917年3月8日)で、改革派議員の有力者と目されていたケレンスキーはロシア国会臨時委員会の委員に選出され、3月16日に臨時政府が樹立されると司法大臣として入閣、のちに陸海軍相に就任します。
アレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキー
このとき、まだ第一次世界大戦の最中であり、ケレンスキーは戦争継続を主張し、ドイツ帝国に対する攻勢を命令していました。
ちなみに、その頃のレーニンが何をしていたかと言いますと、1900年以降スイスに亡命して本を書いたりしていたのですが、ロシア革命の「二月革命」(1917年3月8日)を受けて、ロシアへと戻ります。
1895年のレーニン
ただし、これは、敵対するロシアに反体制派のレーニンたちを送り込むことによって、その内部崩壊を目論んだドイツの戦略で、いわゆる「封印列車」によって輸送されたんです。
封印列車
ちなみに、封印列車の乗客リストは、こちらにあります。
↓
☆封印列車乗客リスト(СПИСОК N 1 ЛИЦ, ПРОЕХАВШИХ ЧЕРЕЗ ГЕРМАНИЮ ВО ВРЕМЯ ВОЙНЫ)
で、この戦略について、ドイツ帝政期における最も優秀な参謀将校の1人であると見なされているマックス・ホフマンによると、
カール・アドルフ・マクシミリアン・ホフマン
当時の「中央党」(ドイツのカトリック系政党で、ドイツ現存最古の政党)の党首であるマティアス・エルツベルガーを経て、外務省に対して対応を要請したものでした。
マティアス・エルツベルガー
余談ですが、この、マティアス・エルツベルガーはのちに暗殺されます。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 1921年1月26日、元士官候補生の男がベルリンの裁判所を出たエルツベルガーを狙撃したが、肩に負傷しただけですんだ。しかし同年8月26日、極右テロ組織コンスルのメンバーである元陸軍少尉ハインリヒ・シュルツと元海軍少尉ハインリヒ・ティレッセンが、地元で休暇中に党友と散歩していたエルツベルガーを襲撃、6発の銃弾を浴びせ、倒れたエルツベルガーの頭に2発の銃弾を撃ち込んで止めを刺した。ビーベラッハ・アン・デア・リスに埋葬された。
暗殺犯はナチスが政権を獲得した1933年に恩赦で出獄したが、第二次世界大戦後に再審され懲役刑を受けた。ミュージンゲンにあるエルツベルガーの生家は博物館になっており、またいくつかの学校や町の通りに彼の名が冠されている。」
.
このように、何故か、恩赦を受けた殺人犯たちは、遥か後の第二次世界大戦後になって、わざわざ再審されています。
どうして、そんなことをする必要があったのでしょうか?
ナチス政権時に恩赦されたから?
であれば、第二次世界大戦後も、数多くのナチス協力者は、そのままドイツで生き残っていましたので、矛盾していますね❤
ドイツ国民の総意によって、選出したのがヒトラーです。当時のドイツ人のほとんどが、ナチス支持者だったんですから(笑)
極右テロ組織コンスルのメンバーだったから?
それでは、その極右テロ組織コンスルも確認しておきましょう。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 コンスル(独:Organisation Consul、「執政官組織」の意)は、ヴァイマル共和政時代のドイツにおける極右の地下武装テロ組織。
徹底した非合法路線をとり、ミュンヘン一揆後は議会主義と合法路線に立ったナチスとは敵対的関係となり、「真の第三帝国」の立場からナチスを西欧デモクラシーの手先でありドイツ民族の敵と批判した。また、「民族ボルシェヴィズム」的路線から、反アングロ・サクソン帝国主義とアジア・アフリカの民族独立・解放運動の連帯を主張した。
1933年のナチス政権確立後、リーダーのヘルマン・エアハルトはスイスに亡命したが、他のメンバーは、ヴィルヘルム・カナリスの国防軍防諜部の士官となったフリードリヒ・ヴィルヘルム・ハインツ(戦後はゲーレン機関の幹部)や、ウーファに入ったエルンスト・フォン・ザロモンなど、ドイツ国内の諸組織・機関に入り込んだ。
ナチス時代初期には特攻隊員による総統官邸襲撃・ヒトラー暗殺を計画した。また、コンスルの影響下にあったベルリンの突撃隊員は党のベルリン支部を占拠し、制圧に来た親衛隊と大規模な銃撃戦を展開した。その後も国防軍防諜部に依拠し、突撃隊や親衛隊などに秘密組織を形成することで反ヒトラー運動を継続した。」
「封印列車」を実行させたマティアス・エルツベルガー。彼の「功績」を称える上でも、その「かたき討ち」を、「誰か」がやった、やる必要があった、ナチスなんて無関係、というのが当ブログの見解ですが、結局は謎のままですね!
さて、ロシアへと送り込まれたレーニンは、「ボリシェヴィキ」という極左集団を率いて、ドイツの願いどおりに、「パン・土地・平和」をスローガンとして掲げ、厭戦プロパガンダを始めます。
ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ
ちなみに、この「ボリシェヴィキ」に財政援助していた組織が、1915年にニューヨークに設立された「American International Corporation」でした。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 ボリシェヴィキはAmerican International Corporationから財政支援を受けていた。当社は1915年、Frank A. Vanderlipを会長としてニューヨークに設立された。出資者はジョン・モルガン、ロックフェラー、ジェームズ・スティルマン。1917年の役員はPierre S. du Pont、Percy Avery Rockefeller、Albert H. Wiggin、Beekman Winthrop、そしてEmpire Trust CompanyのMatthew C. Brushであった。」
フランク・アーサー・バンダーリップ
本日は、長くなりましたので、ここまでとさせて頂きます。
続きは次回に♥
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