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    世界の見方に合わせただけ ~ 「チーナ」と「支那」

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    ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ(シドッチ、イタリア語: Giovanni Battista Sidotti、寛文8年(1668年) - 正徳4年10月21日(1714年11月27日))は、イタリア人のカトリック司祭江戸時代中期の日本へ潜入して捕らえられ、その死まで江戸で幽閉された。時の幕政の実力者、新井白石シドッティとの対話をもとに『西洋紀聞』などを著した









    戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。

    そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

    私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、

    客観的に情勢を判断する必要があります。

    それでは、この書物を見ていきましょう!




    『 日本は戦前、お隣の大陸【支那(しな)】大陸と呼び、今の中国人を【支那人】と呼んでいました。日本で支那ということばが使われるようになったのは【江戸時代】です。

    ポイント 女性 重要 5

     1708年、イタリアのシチリア島生まれの宣教師【ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ】が、日本にキリスト教を布教しようとして、髪は月代(さかやき)に剃り和服を着て刀を差した侍の姿をして、今の【フィリピンのマニラ】から船に乗って【屋久島】一人で上陸しました。

    ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ

     外国人でも、【日本人の格好をしていたらばれないだろうと考えた】ところが、【当時のマニラ】という町が、いかに【いろいろな人種がいた】かということを表しています。

    ポイント 23

    でも、日本人しか住んでいない日本では、【もちろん怪しまれてすぐに捕まりました】。シドッティは長崎に送られたあと、翌年、江戸に護送され、小石川のキリシタン屋敷に幽閉されたまま、1714年に死にました。

     江戸でシドッティは、六代将軍・徳川家宣(いえのぶ)を補佐していた【新井白石(あらいはくせき)】の尋問を4回受けました。当時の幕府の政治における実力者で儒学者だった新井白石は、シドッティの学識や人柄に感心して敬意を持って遇し、シドッティから多くのことを聞き出しました

    新井白石
    新井白石

     新井白石は、シドッティの語ったことをもとにして、【『采覽異言』(さいらんいげん、1713年)】【『西洋紀聞』(1715年)】を書き、【ヨーロッパ人の知識に基づいて世界の形状を描写】しましたが、そのなかで、【日本人が「漢土(かんど)」とか「唐土(とうど)」とか呼んでいるものを、ヨーロッパ人は「チーナ」と言っている】ことに注目しました。

    女性 ポイント 11

     【漢】という国は【3世紀に滅び】て、魏・呉・蜀の三国時代になりましたし、【唐】【10世紀には滅んでいます】それでも日本人は、古い時代にそこから伝えられた【文字】【漢字・漢文と呼び続け】ていましたし、平安時代に遣唐使を送ったこともよく覚えていたので、【お隣の大陸を、長い間、漢や唐と呼んでいた】のです。…

    ポイント 女性 重要 5

     しかしすでに隣の大陸では、【唐が滅んだ】あと、【宋】という王朝が興って【滅び】【モンゴル人の建てた元(げん)も滅び】【明】になって、さらに江戸時代には【清】という国になっていました。【日本人もそのことは知っていた】のですが、【土地を通して呼ぶ名前はなかった】のです。

    女性 ポイント 10

     新井白石は、たいそう博識でしたので、【ヨーロッパ人の言う「チーナ」】が、古い漢訳仏典の『大蔵経』(だいぞうきょう)にある【「支那」と同じことば】であることに気づきました。【お隣の大陸では王朝がどんどん交代します】から、このあと【日本では、王朝名ではなく、土地の名前として支那が使われる】ようになり、【そこに住む人を支那人と呼ぶことになった】のです。

    ポイント 31

    【世界の見方に合わせた】わけです。』

    日の丸

    いかがでしょうか?

    今回ご紹介させていただく書物は、著者自身「これが書きたかった」「偏見やイデオロギーに囚われず、中国近現代史を直視する--、そのような本を書いて見たいと思っていました」と言われるほど、教科書で覚えさせられている受験用の「支那の歴史」ではなく実社会で、特に対支那でビジネスをされる方々が知っておかなければならない「支那の正しい歴史」について、非常にわかりやすく解説されている良書となります。

    読書 セーター

    教科書で覚えさせられている受験用の「支那の歴史」と、実社会で役に立つ「支那の正しい歴史」とが、どこに違いがあるのかと申し上げますと、ハッキリ言って、その内容や意味合い「悉(ことごと)く違っている、全く別のモノ」ということになります。

    ポイント 31

    さて、昨日までのところで、ある意味で大変参考になる「教科書ガイド」を例にして、受験用の「お勉強」でしかなく実社会では何の役にも立たない「世界史」や「日本史」の授業で、世界に通用しない過去の学説である「四大文明」覚えさせている一方で、私たちの「日本文明」についての「正しい歴史」を、隠し教えないようにしている、ということを確認してきました。

    教科書ガイド 中学社会 教育出版版 中学社会 歴史 

    教科書ガイド ぶんめいのおこり

    しかし、私たち日本人は、相当古い時代から、すでに様々な高度な技術を保持していたということが明らかになってきています

    ですので、私たちの「日本文明」についての「正しい歴史」を、キチンと学ぶことができれば、「四大文明」などと呼ばれる、「日本文明よりも遥かに遅い時代の文明」正体がバレてしまいます

    日本の歴史 時代区分 マラソン 7

    実は、このことが明白になってしまうと非常に都合が悪くなることがあるからこそ、隠しておきたい教えたくない、となるんです。

    昨日も確認してきましたが、「共産主義」・「社会主義」を信仰する信者の方々がアカデミックな世界には多いのですが、その宗教と言える「共産主義」・「社会主義」布教する科目こそが、戦前には存在していなかった「社会科」になります。

    ポイント 32

    ちなみに、昨日も取り上げさせて頂きました「おバカの集まり」として、アカデミックな世界において有名「高大連携歴史教育研究会」ですが、

    高大連携
    高大連携歴史教育研究会

    事務局は、京都教育大学教育学部のなかにあります。念のために申し上げますが、この大学って、教員養成のための国立の大学ですよ(笑)

    こうやって、「共産主義」・「社会主義」の信者を増やしていっているんでしょうね❤

    ポイント

    実は、この「共産主義」・「社会主義」の信者にとって、「日本文明」についての「正しい歴史」を、キチンと学び「四大文明」などと呼ばれる、「日本文明よりも遥かに遅い時代の文明」正体がバレ明白になってしまうと非常に都合が悪くなることがあり、だからこそ、隠しておきたい教えたくない、というのが実情なんです。

    その「共産主義」・「社会主義」の信者信仰の根幹となるのが「マルクス主義」で、「唯物史観」あるいは「進歩史観」というものが含まれています。

    ポイント 21

    『 フランス革命という言葉は知っていても、実際はどんな性質のものだったのか?ナポレオンという名前は知っていても何をした人だったのか?それを知らない人は意外と多いと思いますが、真実は知っておくべきです。知識や情報は力です。あやふやなままにしておいたり、嘘を教え込まれたままになっているより、本当のことを知ったほうが自分のためになります。知らないことを知るのはプラスです。自分自身で良し悪しを判断できるので、精神的にも余裕が生まれます。

     最近は「マルクス主義がよくわからない」「ソ連は崩壊したのに、どうしていまだにマルクス主義という言葉が生き残っているのか?」といった声も学生たちから聞かされます。そのたび、いろいろ説明していますが、マルクス主義はある意味、キリスト教の鬼っ子のような面があります。マルクス(1818~1883年)の言っていること「新約聖書」にも近いことです。

     キリスト教はユダヤ教から出てきたもので、ユダヤ人じゃなくても信者になれることで爆発的に世界に広がっていきました。信仰によって救われた人たちもいるはずですが、宗教戦争が繰り返されて、多くの犠牲者が生まれました。そんな中で登場してきたマルクスは、新たなイデオロギーを提示しました。ドイツの地方生まれのユダヤ人であるマルクスは、市民革命が相次いだ時代にヨーロッパを転々として赤貧生活を送っていました。そして、わかりやすくいえば、「貧乏人は救われる」「虐げられている人たちに正義がある」「労働者は団結しろ」「既得権益者をやっつけろ」というようなことを説いていったのです。

     「それならば、マルクス主義は宗教なのではないですか?」と質問する人もいますが、そう感じるのも当然です。マルクスの主張の根本はかなり宗教に近いものだったといえるのです。あと2百年もすれば宗派のひとつとして捉えられているのではないかと私は思います。

     マルクス主義は、資本主義社会の矛盾を指摘し、社会主義社会へと移行する必然性を説いた思想体系です。世の中は、原始共産制→古代奴隷制→中世封建制→近世資本主義→未来共産制と移り変わっていくという「発展段階論」マルクス主義の軸となっています。そうした経済活動のあり方と変化が歴史を前進させる原動力となるという考え方「唯物史観」です。こうしたイデオロギーは宗教にも似ているうえに、現在の「進歩史観」に大きな影響を与えています。

     進歩史観歴史の見方を大別したときのひとつであり、人間社会は最終形態に向けて進歩を続けていると考える立場です。これをダーウィンの「進化論」と結びつけて考える人もいますが、ダーウィンが言っているのは「適者生存」です。マルクスの進歩史観は進化して適者になるということではないので、両者の立場は異なります

     古代から現代へ向けて社会が良くなっていく過程として中世を位置づけたマルクスは、それぞれの時代を経済の仕組みと重ね語っていますその発展段階においても多くの疑問が持たれます。「それならば日本の古代はどう考えればいいのか?」と、まず問いたいところです。飛鳥時代に奴隷がいなかったわけではありませんが、マルクス主義者と呼ばれる人たち皇帝がいるところには必ず奴隷がいるというような極端な見方をします。そのため、天皇制がある日本を古代のままであるようにも解釈するのだから始末に負えません。天皇制がある限り未来共産制が来ないので廃止しろ、といったことまでを言い出してしまうのがマルクス主義者です。

     奴隷がいれば古代になるとするなら、「アメリカは南北戦争まで古代だったのか?」ということにもなります。南北戦争は1861年から1865年まで続いたので、日本でいえば明治維新を目の前にしていた時期です。

     封建制が中世の区切りになるなら、始皇帝が封建制の世を改めたシナでは、「秦の時代(秦による統一は紀元前221年)から現代だったのか?」ということにもなってきます。

     カザフスタンやモンゴルは、ロシア革命のあと間もなく社会主義になっていますが、その過程に中世封建制があったかといえば、その点でも難しい問題が出てきます。マルクスのいう封建制つまりフューダリズムは、ドイツのエルベ河から西、フランスのロワール河から北のあいだにしかなかった現象で、騎士が自分の領地の一部を有力な君主に献上して、その見かえりに保護を受ける契約を結ぶことでした。そこでカギとなるのは土地所有をめぐる関係性です。しかし、遊牧民にはもともと土地所有のという概念がないのです。カザフやモンゴルでは遊牧民に封建制があったといえるのかという議論が長く続けられてきましたが、その結論は出ていません。主人と家来の関係はあったことから中世封建制はあったと見ることはできますが、さすがに近世資本主義は経験していません。それでモンゴルでは『資本主義を飛び越えて』(B・シレンデブ大統領著)という本が書かれているくらいです。』


    詳しくはこちらをご参照❤

    マルクス主義は、キリスト教の鬼っ子

    日本人がつくる世界史 

    つまり、「共産主義」・「社会主義」の信者信仰の根幹となるのが「マルクス主義」考え方は、明らかに間違っていることが判明しており、彼らの考え方では古代から現代へ向けて社会が良くなっていくはずなのに、すでに大昔から高度な文明を誇っていた、私たち「日本文明」の存在自体彼らの信仰上の考え方見事なまでに粉砕してしまうわけです。

    だからこそ隠しておきたい教えたくない、ということなんです❤

    ポイント 22

    そして、彼らの考え方に基づいて、「戦後」に造り出されたものが、日本独自の時代分類である「縄文時代・弥生時代」であり、「歴史を発展段階的に捉える唯物史観によって立つ研究者たちの様々な忖度(そんたく)の末に生じたもの」で、現在においても学校教育で子どもたちが植え付けられている「偽りのイメージ」に繋がって行きます。

    『 多くの人々が読むという一般向け書籍の性格を考慮すると、縄文時代や弥生時代という語の普及に大きな影響を与えたのは、おそらく先の『岩波講座 日本歴史』シリーズと並んで、河出書房から刊行された『日本の考古学』シリーズであったと思われる。本シリーズの特徴は、考古学的な時代区分としと、先土器時代・縄文時代・弥生時代・古墳時代・歴史時代という日本独自の時代区分を前面に押し出したという点にある。このうち第二巻の縄文時代は1965年に、第三巻の弥生時代は1966年に刊行されている。第三巻の編者でもある和島誠一は、弥生時代の定義を「弥生時代は、ながく停滞的な採集経済の段階にあった縄文時代の日本民族が、大陸の農耕文化の促進的な影響をうけて稲作を中心とする生産経済にうつり、米を主食とする日本人のその後をきりひらいた時代である」と述べ、弥生時代は縄文時代より発展した時代であり、弥生時代こそ日本人の日本人たる文化が始まった時代であることを主張した。ただ、和島の主張だけのせいではないが、このような言説が、意識するしないにかかわらず、縄文時代を劣位、弥生時代を優位と考えるような、ある種「上から目線のモノの見方」を育んでしまったことはまちがいなかろう。

     現在でも考古学を志す学生の間では、縄文時代以前のテーマで卒論を書こうとすると、「コメを喰っていないサルの時代か」と揶揄されることがあるそうだ。実際、私の学んだ大学でもそうであった。今はどうか知らない。また、現在私が勤務している国立歴史民族博物館(博物館といっても、研究施設に付属する博物館なので、一般の博物館とはちょっと性格が違うが)は、小中学校を中心とする児童・生徒達の社会科学習の場としても利用されるのだが、引率の先生の口からも先のような発言が生徒に向かってなされることがあるさらには「縄文時代の人と弥生時代の人、どちらが幸せだったでしょう」といった小学生用の教材までインターネット上に公開されている。思わず、天を仰ぐことも少なくない。

     このような視線の背景には、単なる戯れ言では済まない「食糧を生産する社会の方がより高い文化を持ち、優れている」というドグマが見え隠れしているといってよい。このドグマそのものは、歴史を発展段階的に捉える唯物史観によって立つ研究者たちの様々な忖度(そんたく)の末に生じたものだが、このドグマこそが、後の弥生時代の地域性を語る際に大きな問題となり、また弥生時代を優位と考えるということと同根である。自分たちがより高いレベルの文化・文明に属しているという錯覚が、いわゆる発展途上国などの人々に対する「上から目線」を生み出す根源とさえなっている。これについては、多くの民族誌的研究から批判がなされているのだが(たとえばクラストル1987など)、その批判が私たちの社会に届いているとは、ちょっと思えない部分がある。

     縄文時代が停滞期であり、大陸からの新しい文化、水田稲作技術をともなって波及した文化によってピリオドが打たれたとする縄文時代観は、…1960年代当時の基本的な歴史観であった。その後十年を経て、佐原真が弥生時代の定義として1975年に記した文章には、「弥生時代は、『日本で食糧生産を基礎とする生活が開始された時代』である」と書かれている。また、現在においても山川出版社から発行されている高校歴史教科書である『詳説日本史B』には、縄文時代を食糧採集の段階、弥生時代を食糧生産の段階と明記されている。佐原がいう「基礎とする」という部分をどのような指標に求めるかが問題であるが、この定義が今日においても弥生時代に対する基本的な理解であることは否めない。

     このように、縄文時代・弥生時代という語の成立を研究史的に概観してみると、明治から昭和期の初めにおいては石器時代としと一括されていたものが、イネの発見などにより縄文と弥生が生業的・経済的な観点から切り離され、「縄文式文化」、「弥生式文化」という内容の認識が行われたのちに、第二次世界大戦後において、新たな日本の歴史を編纂していく過程で「縄文式時代」、「弥生式時代」という概念が成立してきたことがわかる。…

     また、縄文時代という概念の成立と弥生時代のそれは、表裏一体のものであり、両者はほぼ同時に使用されるようになったということになる。そして1950年代頃までは、「縄文式文化」を新石器時代に、「弥生式文化」を鉄器時代や原史時代などとして世界史的な時代区分のなかに位置づける言説が多かったのに対し、1960年代以降日本の歴史における一時代として縄文時代、弥生時代が取り上げられるようになったそして現在に至るという訳である。』


    詳しくはこちらをご参照❤

    縄文時代を劣位、弥生時代を優位と考えるような「危険思想」

    つくられた縄文時代: 日本文化の原像を探る 



    続きは次回に♥




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    Category: 支那
    Published on: Thu,  28 2017 00:01
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