日本に最初にやってきたイギリス人

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    モカ・ディックあるいはモチャ・ディック(Mocha Dick)は、19世紀前期太平洋に生息していた1頭の悪名高いオスのマッコウクジラの異名である。モチャ・ディックは、通常チリ南部のモチャ島近海を回遊していた。多くのマッコウクジラと違ってモチャ・ディックの体色は白かったこのクジラは、ハーマン・メルヴィルの名高い小説『白鯨』(1851年)の執筆動機となった

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    モチャ・ディックは、最終的に殺される前まで、少なくとも100回以上の鯨捕りたちとの戦いを生き残ってきたモチャ・ディックは巨大で逞しくその尾鰭で小さな船程度は難破させることができるほどであった

    探検家のJ.N.レイノルズの記述によると、モチャ・ディック1838年に捕鯨船に殺されそうになって動揺していた幼いクジラを助けようとして出現したところを捕殺されたという。

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    戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。

    そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

    私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、

    客観的に情勢を判断する必要があります。

    それでは、この書物を見ていきましょう!




    『 オランダ人が初めてこの国にやって来ることができたのは、(彼らに雇われていた)イギリス人航海士【アダムス】の技能と科学知識のおかげであった。残された手紙を引用しよう。…

    1598年5隻の船で構成されるオランダの船団が東インドに向かうことになったのだが、そのうちの1隻のチーフパイロットとして雇われることになった。…」

    船団がテセル島(現在のオランダ北ホラント州にある島)を出帆したのは1598年6月24日。エリザベス1世治世の晩年の頃である。

    テセル島
    テセル島

     当時は何事もうまくいく航海などはほとんどなかった。(トルデシリャス条約による)教皇子午線越える前には既に病気(壊血病)が蔓延し、アフリカのギニア沿岸に碇を下ろさざるを得なくなった。

    トルデシリャス条約(紫)とサラゴサ条約(緑)の境界線

    ギニア
    ギニア

    こちらもご参照♥

    日本にポルトガル人が最初にやってきた理由 ~ トルデシリャス条約



    指揮官はここにたどり着く前に亡くなっていてさらにここでも相当数が死んでいる。その後も苦難の連続だったが、1599年4月初め、ようやくマゼラン海峡まで達した。

    マゼラン海峡
    マゼラン海峡

    「南米のこの地は、既に冬となっていて雪も激しく、寒さと餓え仲間の多くが衰弱していった」

     当時、この海峡を抜けるヨーロッパの船はほとんどなく、海図もなく、アダムスはたとえ倍の時間がかかろうともケープ岬沖を抜けたかったようだ。

    ケープ岬
    ケープ岬

    「5、6日間は北東風に恵まれたから、一気に海峡を抜けることができたかもしれない。しかし船員の休養と薪水の補給がどうしても必要だった。…無理をすれば海峡を首尾よく通過できたかもしれなかったが、南から吹き込む風や冷たい雨と雪で越冬せざるを得なかった。4月6日から9月24日までの長期にわたってここに釘付けになり、食料も尽きていった。多くの仲間が餓えで死んでいった

     やっとのことで海峡を抜けたものの、船団は離れ離れとなってしまい、アダムスの乗るエラスムス号はチリ沿岸で僚船をおよそ9日間待ち続けた。現れない仲間たち。そこでモカ島(チリ南部太平洋岸の島)に向かうことにした。

    モカ島(モチャ島)
    モカ島(モチャ島)

     南アメリカの沿岸はどこにいっても、【スペイン人かポルトガル人が支配】していて、遅れてきた国の船乗りたちは彼らの激しい敵愾心と警戒心に悩まされた。

    スペイン帝国とポルトガル帝国による植民地化の色分け (1581-1640)
    スペイン帝国とポルトガル帝国による植民地化の色分け (1581-1640)

    「11月1日、南緯38度に位置するモカ島に近づいた。ところがあまりの風で碇が下ろせない。しかたなくサンタマリア島を目指した。この島についての情報は全く持ち合わせていなかった。少人数の先発隊を上陸させたのだが、島民との小競り合いで8、9人が負傷した。しかし島民は我々を親切にもてなしてくれた。翌日、船長2、30人の部下を連れ食料を求めて島に向かった。ひどく食料が不足して飢えがひどかったのだ。数人の島民が、親しげにボートに近づいてくると、のようなものを見せながら、上陸を促したもいる様子だった。船長はこの誘いに乗って部下と共に上陸した。ところが【これは彼らの策略だった】。どこかに隠れていた1000人を超すほどの原住民一斉に船長たちに襲いかかったのだ。虐殺された仲間の中には私の弟トーマス・アダムスもいた。あまりに多くの同僚を失い碇を上げることさえ難しくなるほどだった」

    サンタマリア島(フロレアナ島)
    サンタマリア島(フロレアナ島)

     この惨劇から2、3日してエラスムス号は見失った僚船の1隻と再会できたのだが、彼らも同様の手口でモカ島で船長と27人の仲間を殺されていた。…

     残りの僚船3隻のうち1隻【スペイン船に襲撃された】ことは聞いたが、あとの2隻がどうなったのかの情報は持っていなかった。おそらく沈没したのだろう。…こういう状況の中で、【どうしたら最高の利益を得る商売ができるかが最も重要なテーマだった】【積荷は毛織物】で、この商品をどこで売り捌くのか、必ずしもはっきりした当てがあるわけではなかった。

    「最終的に【日本に向かうことに決めた】。…この島では毛織物が重宝されているらしい。マラッカや東インド諸島では暑くて毛織物は不要だろう。こうして【目的地は日本】に決まった」…』

    日の丸

    いかがでしょうか?

    今回ご紹介させて頂く書物は、タイトルにも書かれているとおり、19世紀中頃、イギリス人の著者によってアメリカ国民に向けて、165年前に書かれた書物です。著者自身が日本を訪れたわけではなく、すべて伝聞による情報をまとめたものですが、結構細かいところまで書かれています。私たち日本人や日本のことを正しく理解しているとは言えませんがどんな風に理解していたのかが非常によく分かるお勧めの書です。

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    苦難の末、このイギリス人航海士アダムスらは、私たちの日本へとやって来ます1600年現在の大分県に漂着した時、生存者は僅かに24名で、翌日にはそのうちの3名が亡くなっています

    リーフデ号
    リーフデ号

    このエラスムス号が、理由は分かりませんが「リーフデ号」と呼ばれ、この船の備砲や砲員を、その年の「関ヶ原の合戦」で、徳川家康が活用したという記録が残っています。

    また、現在、復元船を長崎県の「ハウステンボス」で見ることが出来ます。

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    ハウステンボスHP

    「 1600(慶長5)年オランダ船リーフデ号豊後(大分県)に漂着しました。二十数名といわれる乗組員の中には、オランダ人航海士のヤン・ヨーステンと、同じくイギリス人航海士のウィリアム・アダムスがいました。彼は日本に初めて来たイギリス人といわれています。

     長崎奉行船内に積まれていた大砲や火縄銃弾薬といった武器を没収し、船員を徳川家康のもとに送って判断を仰ぎました。その際、すでに日本にいたイエズス会の宣教師たちは、彼らを即刻処刑するように要求したことが知られています。

     ウィリアム・アダムスは家康に謁見し、気に入られました。その際には、西洋の様子を知らせ、イエズス会の宣教師たちが危険であることを説いたはずです。そのことにより徳川幕府の外交方針に影響を与え、ポルトガル、スペインを排除することにつながったと思われます。さらに、幾何学や数学航海術などの知識を幕府に伝えたといわれます。家康大型船の建造を指示1607年には120トンの船舶を完成させました。…


    ウィリアム・アダムス
    ウィリアム・アダムス

     日本とイギリスの関係は、ウィリアム・アダムスによってはじまりましたが、皮肉なことに、幕府はそのために鎖国政策をとりました。そして、日本が貿易相手国として選んだのはオランダでイギリスではありませんでした。彼のもたらした情報が、幕府にその後のイギリスの植民地主義を予測させたのかもしれません。それは、正しい判断だったといえるでしょう。」

    詳しくはこちらをご参照♥

    カトリックのテロリスト IRA ~ Chris Harper Mercer



    オランダ人航海士のヤン・ヨーステンや、イギリス人航海士のウィリアム・アダムスもそうですが、私たち日本人には西洋人のように「奴隷」の概念が無かったため、彼らは重宝されています。同様の事例は、織田信長の家臣になった弥助にも当てはまります。

    詳しくはこちらをご参照♥

    ゆとり教育と奴隷 ~ 黒人奴隷から武士になった「弥助」



    さて、ここからは昨日の続きになります。

    先ほどのお話は1600年頃のことでしたが、そこから20年ほど経過したころに、アメリカ大陸へ清教徒が渡って行きました

    最初の入植から163年を経てアメリカ13植民地独立(1783年)します。これによって、ミシシッピ川より東側のほとんどが、アメリカの領土となります。

    ミシシッピ川流域図
    ミシシッピ川流域図

    もともと、北アメリカ大陸のほとんどの地域を領有していたのはフランスでしたが、

    1750年当時の北アメリカと各国の勢力図。ピンクと紫がイギリス領、青がフランス領、オレンジがスペイン領である。
    1750年当時の北アメリカと各国の勢力図。ピンクと紫がイギリス領、青がフランス領、オレンジがスペイン領である。

    フレンチ・インディアン戦争(1755年~1763年)で、フランスイギリスに敗北

    1763年のパリ条約後の北アメリカ。ピンクがイギリス領、黄色が、1762年のフォンテーヌブロー条約後にスペインが手に入れた領土である。
    1763年のパリ条約後の北アメリカ。ピンクがイギリス領、黄色が、1762年のフォンテーヌブロー条約後にスペインが手に入れた領土である。

    結果、ミシシッピ川を境として東側をイギリスに、西側はフロリダと引き換えにスペインに割譲されました。

    これでは、フランスとしては面白くないですね♥

    女性 ポイント 10

    ですから、アメリカ13植民地独立戦争(1775年~1783年)を始めると、当時のフランスブルボン朝第5代フランス国王ルイ16世(在位:1775年5月10日~1792年8月10日)が、アメリカ13植民地に肩入れしたんです♥

    ルイ16世
    ルイ16世

    「 バーボンというと、いかにもアメリカ的な雰囲気を感じさせるウイスキーといっていい。原料はトウモロコシ。…

     そのアメリカはかつてイギリスの植民地だったため、法的な定めこそないものの、実質的な公用語は英語である。ただ近ごろはヒスパニックが数多く入り込み、…スペイン語が「第二の公用語」になりつつある。…

     アメリカの中西部から西部にかけての一帯には、はるか昔から、サンフランシスコ、ロサンゼルス、サンタフェなど、スペイン語に起源を持つ地名が数多くある。…

     カリフォルニア州にはサンノゼ、サンディエゴなど、「聖」を意味する「サン」や「サンタ」を冠した地名が掃いて捨てるほどある

     そうした中意外と忘れられているのがフランスの存在だ。…バーボンも、アルファベットで表記するとbourbonだが、これはフランスの王朝名「ブルボン(Bourbon)」の英語読みである。

     事の発端は、アメリカ独立戦争にさかのぼる。イギリスの植民地13州同盟を結んだルイ16世のフランス戦争に加わった

     1783年独立を達成したアメリカフランス=ブルボン王朝への感謝を込め、バーボンをケンタッキー州の郡の名前に採用したのだった。それがケンタッキー生まれのウイスキーの呼び方として定着している。 」


    詳しくはこちらをご参照♥

    バーボンの語源



    ケンタッキー州
    ケンタッキー州

    こうして、アメリカが、もともとフランスの領土だったところをフランスの支援のもとに、イギリスからもぎ取って領土を増やしたわけですが、この直後に、支援したフランスでは大変なことが起こってしまいます

    それが、アメリカが独立(1783年)した、わずか6年後「フランス革命」(1789年)です♥

    『民衆を導く自由の女神』(1830年、ウジェーヌ・ドラクロワ画)
    『民衆を導く自由の女神』(1830年、ウジェーヌ・ドラクロワ画)

    詳しくはこちらをご参照♥

    ヨーロッパで個人が自由を獲得したのは、たったの230年前なんです ~ リベラルの原点「フランス革命」



    ユダヤ人の敵は「キリスト教」 ~ フランス革命の意味



    続きは次回に♥




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    Category: 日米関係
    Published on: Sat,  06 2017 00:01
    • Comment: 2
    • Trackback: 0

    2 Comments

    4711  

    No title

    ちょっと話題がそれるかもしれませんが、メキシコからアメリカへの不法移民が問題となっている中、トランプの「国境に壁を造る」などアメリカ側の対策は講じられていますが、メキシコ側の責任には一向に言及されません。これは視点の違いというより、無能力なほう(失礼!)に期待しても何もならないからでしょうか。庶民が生活を護る為に法を犯すのは止められないという点で。

    2017/05/07 (Sun) 09:06 | EDIT | REPLY |   

    みっちゃん  

    Re: No title

    4711さん、こんにちは^^

    メキシコ側は、わざと送り込んでいると考えるべきですよ。日本と朝鮮の立ち位置を頭に思い浮かべて、それから日本をアメリカに、朝鮮をメキシコに置き換えると理解がしやすいと思います。

    自分の国を捨てて、他国へと渡らなければならないのは、「食詰め者」だから、つまり貧乏あるいは不品行で、生活に行き詰まった輩になります。そういった輩が国外へ出て行ってくれるのは、メキシコにとっては、とても有難いわけです。

    イギリスからアメリカへと渡らざるを得なかった移民も同じような輩です。イギリスからすれば、どんどん出て行けばいい!ってなるわけです。

    一方で、アメリカ側に「内通者」、つまりメキシコのゴロツキを利用しようとする輩がいて、これは州ごとに違っていますが、ゴロツキを受け入れて保護しているのが「サンクチュアリ・シティ(聖域の町)」で、アメリカの民主党の牙城となっています。

    それは当然の話で、メキシコからのゴロツキにタダ飯を食べさせ、数々の特権を与え、さらには「投票権」も与えようっていう流れがあるわけです。

    同じように、私たち日本でも、なぜか無関係で存在価値がない朝鮮人に、タダ飯を食べさせ、数々の特権を与え、さらには「投票権」も与えようってしている民進党が存在しています。

    とても、分かりやすい利権構造です。

    ですが、まんまと安倍総理の仕掛けている罠に、どんどん嵌り込んでいっています(笑)

    そのことにつきましては、追々書かせて頂きます。

    これからも、どうぞ宜しくお願い致しま~す☆彡

    2017/05/07 (Sun) 12:54 | REPLY |   

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