「たった一人の権利を、国家の総力をあげて守る」ということ

    拉致 1
    北朝鮮による日本人拉致事件(きたちょうせんによるにほんじんらちじけん)とは、1970年代から1980年代にかけて、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の工作員や土台人よど号グループなどにより多数の日本人が、日本から極秘裏に、北朝鮮に拉致された国際犯罪事件である。







    戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。

    そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

    私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、

    客観的に情勢を判断する必要があります。

    それでは、この書物を見ていきましょう!




    『 文久二年(1862年)激動の年であった。3月、薩摩藩国父【島津久光】は、三千の兵を率いて上京した。

    島津久光像
    島津久光像

    4月に入洛すると、【朝廷・幕府・雄藩の提携を献策】した。朝廷はこれを採用し、勅使を江戸に派遣することとし、久光一行も随従する。6月、江戸に到着すると幕府と交渉し、【一橋慶喜】将軍後見職就任将軍家茂の上洛決定された。【政治の中心は江戸から京都へ】移り、慶喜が徳川の主体となる。

    慶応3年(1867年)大阪での慶喜
    慶応3年(1867年)大阪での慶喜

     徳川将軍家と譜代官僚による政権独占崩れ公家・親藩・外様大名の政治参加がなされた。【文久の改革】である。

     久光はその帰途現在の神奈川県にある生麦で、大名行列を横切ったイギリス人を殺傷した。一人死亡、二人重症である。

    生麦

    事件当時の生麦村
    事件当時の生麦村

    【開国を主唱した薩摩が皮肉にも真っ先に外国に喧嘩を売った】。…

    『生麦之発殺』(早川松山画)
    『生麦之発殺』(早川松山画)

     江戸幕府は怖気づいて賠償金を払い薩摩との直接交渉を促した【イギリスはインドから艦隊を呼び寄せ恫喝】する。これを【拒否した薩摩は、翌年の薩英戦争で鹿児島を火の海にされた】

    イギリス艦隊と薩摩砲台の戦闘
    イギリス艦隊と薩摩砲台の戦闘

     【たった一人が殺されたくらいで戦争】とは、と思う向きもあるかもしれない。

    ポイント 21

    では【何人殺されたら武力に訴えるのか】

    悩む女の子2

    それは【裏を返せば、何人までなら殺されても良いということになる】

    ポイント 23

    カナダやギリシャ、あるいはアヘン戦争で見せられた、【「たった一人の権利を、国家の総力をあげて守る」】という、【パーマストンが示した近代文明の原則】を思い知ることになった。【半文明国は文明国の法に従わねばならない、それを力で思い知らされた】のである。

    パーマストン
    パーマストン

     なお、日本薩英戦争と呼ぶこの戦いを、【イギリス人は単に「鹿児島砲撃」と呼ぶ】

    驚き顔

    この時点で【イギリスは日本を対等の決闘相手だなどと認めていない】のである。

    ポイント 女性

     ただ、オールコック駐日公使は違った。オールコックは、ロシアに対馬を占領されて何もできなかった幕府の当事者能力を強く疑っていた。また、自身が水戸藩士に襲撃された東禅寺事件、長州藩士による英国公使館焼打ち事件、そして薩英戦争に至る生麦事件など、異人切りが頻発するたびに土下座を繰り返す卑屈な幕府見限った

    ラザフォード・オールコック
    ラザフォード・オールコック

     むしろ、【干戈(かんか)を以って是非を決せんとした薩摩を日本における交渉相手とする】薩摩は多大な犠牲を払ったが、【世界最強の国に自分たちこそが付き合う相手だと認めさせた】のだ。

    ポイント 女性

     開国派として政局の中心に躍り出た薩摩が、皮肉にも攘夷を実行することでイギリスに接近することとなる。』

    日の丸

    いかがでしょうか?

    今回ご紹介させて頂きますこの書物は、「憲法」がどれほど命懸けの経緯を経て成立したか、またそこには、どれほどの人々の想いが込められているか、について感動的な幕末・明治の時代が描かれた書物です♥

    もちろん、当ブログお勧めの書物です♥

    読書 女性 15

    さて、本文中に「ロシアに対馬を占領されて何もできなかった幕府」と書かれていましたが、これが有名な「ポサドニック号事件」です。

    幕末に、私たちの日本にやって来たロシア帝国の軍艦が、対馬芋崎を占拠し、勝手に兵舎・工場・練兵場などを建設して半年余にわたって滞留した事件です。

    これって、現在南シナ海支那がやっている軍事施設の建設と、どこが違うのでしょうか?

    南シナ海 支那 軍事拠点 記事
    「重機も作業員もすべて中国から…」南シナ海に戦略拠点続々 マレーシアで陸路も開発 スリランカ港湾整備は調印めど立たず

    幕末の当時の日本も、私たち日本人は、とても平和で文化的な生活をしていました。高度な教育を受け、当時すでに、世界中で最高の識字率を誇っていたんです♥ 誰かが奴隷にされるといった身分制度もなく人々は皆、自分たちの役割ごとに社会に貢献し、類い稀なる社会を実現させていました♥

    具体的な例を一つ挙げてみますと、皆さんは、今から200年ほど前江戸時代の「算額」のこの問題が解けますでしょうか?

    例題

    「算額」というのは、こんな風にあちこちの神社に掲げられていたものです。当時の日本人みんなが楽しんだものです。

    群馬群榛名町 榛名神社 (文化8年(1811) 石田玄圭一徳門人 奉納 )
    群馬群榛名町 榛名神社 (文化8年(1811) 石田玄圭一徳門人 奉納 )

    詳しくはこちらをご参照♥

    江戸時代の日本人が、断トツで一位だったこと ~ 算額の問題を解いてみましょう!



    そんな平和で文化的な生活を送っていた私たちの日本にロシア帝国の軍艦がやって来たわけです。

    当時の世界で、他国への侵略によって、その領土を拡大していた大きな勢力が、大英帝国とロシア帝国の二カ国でした。世界中が、この二カ国に翻弄されていたんです♥

    その片方のロシア帝国が、平和な日本の対馬を占領したのが1861年のことでした。本文中に、「文久二年(1862年)は激動の年」とも書かれていましたが、まさにその前年に、ロシア帝国が対馬を占領したわけです♥

    以下は、Wikipediaからの抜粋です。

    「 文久元年2月3日(1861年3月14日)、ロシア帝国海軍中尉ニコライ・ビリリョフ軍艦ポサドニック号で対馬に来航し、尾崎浦に投錨し測量その後浅茅湾内に進航した。

     ロシア艦隊の中国海域艦隊司令官であったイワン・リハチョーフ大佐は、不凍港を確保するため対馬海峡に根拠地を築くことを提案海事大臣であった大公コンスタンチン・ニコラエヴィチが、対馬への艦隊派遣を許可…リハチョーフ司令官の命令によりポサドニック号が派遣されたのであった。

     ポサドニック号が尾崎浦に投錨すると、藩主宗義和重臣を急派し、非開港場投錨の非を責め速やかに退帆するよう抗議した。しかしビリリョフ艦長は船が難破して航行に耐えられないので、修理のために来航した旨を回答し、さらに修理工場の設営資材や食料・遊女を要求した。

     3月4日には芋崎に無断で上陸して兵舎の建設などを始めたその後、船体修理を名目に工場・練兵場などを建設する。

     対馬藩内では対応を巡って、武力での排撃を主張する攘夷派と紛争を避けようとする穏健派で論争が起こり藩内は混乱した。宗義和は事を荒立てず穏便に解決しようと接しながらも、問状使をポサドニック号に派遣し、その不法を何度か詰問した。しかしロシア側は無回答を貫き優勢な武力をもって日本側を脅かしたり住民を懐柔したりし、木材・牛馬・食糧・薪炭強奪または買収して滞留の準備を整えた。またロシア水兵は短艇を操って沿岸を測量し、山野を歩き回って野獣を捕獲したり、中には婦女を追跡して脅かす水兵もいたため、住民は激昂し、しばしば紛争が起こった。」


    こちらもご参照♥

    江戸時代にロシアに占領された対馬 ~ ポサドニック号事件



    まさに、「やりたい放題」ですね♥ 南シナ海の支那と同じではないでしょうか?

    女性 ポイント 10

    歴史を学ぶというのは、単に知識として蓄積すれば良いわけではなく、それを「今に活かす」ことが重要です♥

    それでは、この当時江戸幕府どういう対応をしたのでしょうか?

    悩む女の子2

    当時の日本には、オランダから1855年に寄贈された軍艦(というか練習艦)があり、幕府から佐賀藩に委託されていました。幕府海軍の養成のために長崎海軍伝習所(1859年閉鎖)で使用していたためです。

    「長崎海軍伝習所絵図」鍋島報效会蔵
    「長崎海軍伝習所絵図」鍋島報效会蔵

    この軍艦が木造外車式蒸気船「観光丸」です。

    復元船 観光丸
    復元船 観光丸

    ちなみに、観光旅行の「観光」という言葉は、この軍艦の名前を付けるときに参照された、支那の「易経」の『観国之光(国の光を観る)』という言葉に由来しています。

    お話を元に戻しますと、要するに、当時のロシア帝国に対抗できる「武力」がなかった江戸幕府は、ロシア帝国に対抗し得る「武力」を保持していた大英帝国に頼るしかありませんでした。

    以下は、Wikipediaからの抜粋です。

    「 7月9日、イギリス公使ラザフォード・オールコックとイギリス海軍中将ジェームズ・ホープが幕府に対しイギリス艦隊の圧力によるロシア軍艦退去を提案、老中・安藤信正らと協議する。

     7月23日、イギリス東洋艦隊の軍艦2隻(エンカウンター、リンドーブ)が対馬に回航し示威行動を行い、ホープ中将はロシア側に対して厳重抗議した。しかし実はこの時点においてオールコックもイギリスによる対馬占領を本国政府に提案していた(8月2日付・坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社)。

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     また老中・安藤信正は再度、箱館奉行・村垣範正に命じてロシア領事に抗議を行わせた。これまでビリリョフの行動をそのままにさせていたロシア領事ゴシケーヴィチは、イギリスの干渉を見て形勢不利と察し軍艦ヲフルチニックを対馬に急派し、ビリリョフを説得。文久元年8月15日(1861年9月19日)、ポサドニック号は対馬から退去した。

     9月、外国奉行野々山兼寛らは幕命を奉じて対馬に渡航し、箱館談判の決議にもとづいてロシア艦滞泊後の善後処置に任じ、ロシア人の造営物は破壊し、その材料は長崎に保管した。

     ロシア側の意図は、極東での根拠地獲得南海航路の確保だったといわれ、当時アジア一帯に広大な植民地を持っていたイギリスに先を超され対馬を租借されるのを恐れていたとされる。」


    世界の植民地化の流れ

    それでは、現在の私たちの日本は、これらの「歴史を学び」「今に活かす」にはどうしたら良いのでしょうか?

    当時の日本のように、大英帝国の「武力」でもって、ロシア帝国を追い払うのであれば、現在の私たちの日本は、トランプ大統領のアメリカの「武力」でもって、独裁政権のファシズム国家である支那追い払えば良いのでしょうか?

    私たち日本人何もしなくても良いのでしょうか

    悩む女の子2

    その答えが、幕末・明治の日本人の姿にあります。

    読書 女性 6

    続きは次回に♥




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    Category: 国史
    Published on: Fri,  17 2017 00:01
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