ファリサイ派、サドカイ派、エッセネ派 ~ ユダヤ教徒のイエスは何派?

    ピエロ・デラ・フランチェスカ 『キリストの洗礼』
    ピエロ・デラ・フランチェスカ 『キリストの洗礼』

    イエスの洗礼(-のせんれい)とは新約聖書の福音書にあらわれるイエス・キリストの生涯のエピソードのひとつで、ヨルダン川において洗礼者ヨハネから洗礼を受けた出来事

    イエスの洗礼の記述はどれも同じような組み立てになっている。初めに洗礼者ヨハネが紹介され、彼の言葉と洗礼の儀式について述べられる。次にイエスがヨルダン川にやってきて洗礼を受ける。そのあと天がひらけてイエスこそ自分の子であるという神の声が聞こえる。これがイエスの公生活の始まりとされている。






    戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。

    そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

    私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、

    客観的に情勢を判断する必要があります。

    それでは、この書物を見ていきましょう!




    『 十字軍は、ただただ凶暴だったが、最も凄惨を極めたのはイベリア半島だった。地中海を制圧したイスラム教徒は沿岸のサハラ以北アフリカを領有し、さらに現在のスペインとポルトガルにあたる地域を属占領した。

    アッバース朝の版図(深緑はまもなく離反し、緑が850年以降の領土として留まる)
    アッバース朝の版図(深緑はまもなく離反し、緑が850年以降の領土として留まる)

     そして王朝の興亡はあれど、【700年の間イスラム教徒がイベリア半島を支配する】こととなる。実に、日本の鎌倉から江戸まで幕府が置かれていた期間と同じ長さである。それほどの間、異教徒異民族に支配されていれば、文化的影響を色濃く受けないはずがない。現に、スペインはいまでも建築を見ればわかるように、最もイスラム文化の影響が強いヨーロッパの国である。

    サンタ・マリア教会
    サンタ・マリア教会

     しかし、キリスト教徒700年間何度負けても戦い続けた【十字軍と異端審問によって】である。教皇庁「失地奪還(レコンキスタ)」を宣言し、何度もイベリア半島に対する十字軍を差遣(さけん)した。

    The Battle of the Puig at El Puig de Santa Maria in 1237
    The Battle of the Puig at El Puig de Santa Maria in 1237

     後ウマイヤ朝をはじめ、イベリア半島の支配者であった【イスラム帝国は、キリスト教徒にも信仰の自由を認めた】。貢納する限り、信仰の自由を認めるのが、【ムハンマド以来の商人的伝統】である。強制改宗させれば、貢納が少なくなるし統治が面倒になる。

    ポイント 女性

    この合理性に、被支配者であるキリスト教徒はどうしたか

    悩む女の子2

     【ひたすら裏切り者を拷問によって殺し続けた】のである。

    驚き 女性 いや 

    よく知られる【魔女狩りは異端審問の一種】である。「疑わしきは拷問により苦しめて殺す」「主の名によって疑われたこと自体が有罪の証拠である」「異端の罪は異教の罪より重い」「改心させて殺すことが、天国に送る善行」「拷問により苦しめているときに歓喜しない者もまた有罪」など、教会の言葉こそイベリア半島のキリスト教徒を支配した。

    ポイント 女性

     そして1492年最後のイスラム教徒の支配地であるグラナダを攻略した。700年の屈辱を撥(は)ね返し、勝ったのだ。』

    日の丸

    いかがでしょうか?

    イスラム教こそが「寛容」であり、キリスト教はまったくの「非寛容」だということ、これが歴史が示す真実です♥

    ポイント 女性 重要 5

    「 …ムスリムが支配して以来、キリスト教会やクリスチャン極端な宗教的迫害を受けることはなかった。…キリスト教支配の下では信仰が禁止されていたユダヤ教徒たちもエルサレムへの帰還を許され、…礼拝を行った。ところが、この三つの宗教の共存キリスト教の十字軍の遠征によって崩れていく。」

    詳しくはこちらをご参照♥

    【真実】世界中で戦争の火種をまき散らかしてきたキリスト教♥



    それでは、前回からの続きです。

    「イエス・キリストはキリスト教の創始者ではない」

    これを理解するためには、「ユダヤ教の分裂」の歴史を知っておく必要がります。そもそも、ユダヤ人であるイエスは、あくまでもユダヤ教徒でしかあり得ないんです♥

    紀元前140年、ハスモン朝がシリアから独立します。

    ハスモン朝
    ハスモン朝

    このハスモン朝は、ユダ王国が滅ぼされ(紀元前586年)てから、400年以上を経て復活したユダヤ人国家です♥

    ポイント 女性

    ここで、問題が生じます。

    この王朝を開いたハスモン家は、イスラエル王であったダビデの血筋に属していないため、イスラエルの統治者としては相応しくないという考え方が生じてきたんです。

    このハスモン家の正当性をめぐってユダヤ教の内部で、「サドカイ派」「ファリサイ派」、この二派への「分離」が鮮明になってきます。

    エルサレム神殿による祭司たちから構成されて権力側に密着したサドカイ派と、民衆の中にあって宗教者としての指導力を発揮しながらも政治的指導者とは距離をとったファリサイ派という構図です。ファリサイ派は、律法への忠実さを特色としています。

    ポイント 女性

    ハスモン朝の世襲体制に対して批判的なファリサイ派。それに対して、ヨハネ・ヒルカノス1世は、サドカイ派と接近し、統治体制に組み込むことで、ユダヤ教の指導層をつなぎとめようとしました

    ヨハネ・ヒルカノス1世
    ヨハネ・ヒルカノス1世

    このヨハネ・ヒルカノス1世の死後混乱が始まることになります。

    以下は、Wikipediaからの抜粋です。

    「 ヨハネ・ヒルカノス1世の時代、ハスモン朝イスラエルは古代のダビデやソロモンの王国に匹敵する最大版図を実現した。ヒルカノス1世が死ぬと、彼の持っていた二つの権力宗教的権威政治的権威分けられる形で後継者にゆずられた。すなわちその妻が「女王」として統治し、息子アリストブロス1世は「大祭司」として宗教的権威を持つことになったのである。」

    アリストブロス1世
    アリストブロス1世

    ところが、アリストブロス1世は、この「権力の分割」が気に入りませんでした

    ポイント 女性

    以下は、Wikipediaからの抜粋です。

    「 父ヨハネ・ヒルカノスの死後、その遺言により王国の実権はヒルカノスの妻に継承され、初め息子のアリストブロス1世宗教的な指導者である大祭司に任じられた。しかし、これに不満を抱いたアリストブロス1世実の母と兄弟を獄に投じて実権を握り王位についた母を牢獄で餓死させている

    驚き顔

    アリスブロスはギリシャ風に王号を用いたが、これはバビロン捕囚以来となるユダヤでの王政復活となった。治世中イトゥリア地方の征服活動を行い、住民のユダヤ教への強制改宗・割礼を行なった

    驚き 8

    彼は仲の良かった弟アンティゴノスを重用したが、重臣たちはアンティゴノスを中傷し、アリストブロスも徐々に信じるようになった。アンティゴノスが病臥中のアリストブロスの見舞いにやってくると、武装せずにやってくるよう求めた。ところが、アンティゴノスを陥れようとした人々が武装してくるように騙したため、護衛兵たちがアンティゴノスを殺害した。この時、エッセネ派のユダという人物はアンティゴノスの死を預言したという。

    治世1年あまりで病に倒れた。歴史家フラウィウス・ヨセフスによれば、アリストブロスは弟アンティゴノス殺害を深く後悔したために発病したという。アリストブロス没後妻サロメ・アレクサンドラ兄弟を獄から解放し、弟のアレクサンドロス・ヤンナイオスと再婚した。これによってヤンナイオスは王位につくことができた。」


    文中に「エッセネ派」が出てきていますので、確認しておきましょう。

    以下は、Wikipediaからの抜粋です。

    「 エッセネ派(ヘブライ語: האיסיים‎)は、紀元前2世紀から紀元1世紀にかけて存在したユダヤ教の一グループの呼称。現代では複数の関連のある集団がまとめてエッセネ派という名で言及されていたと考えられている。呼称の語源は不詳。ファリサイ派から発生したと考えられるが俗世間から離れて自分たちだけの集団を作ることにより自らの宗教的清浄さを徹底しようとした点で民衆の中で活動したファリサイ派とも一線を画している

     エッセネ派思想的に第二神殿(エルサレム神殿)の権威を否定していたと思われる。とはいっても神殿の概念そのものを否定したかったわけではなく、自身の共同体を新しい神殿とみなしていたのであろう。エッセネ派はいずれ、自分たちがサドカイ派に勝利しエルサレム神殿における主導権を掌握することができると考えていたようである。ユダヤ戦争の結果70年にエルサレム神殿が崩壊し、神殿を権威の根拠としていたサドカイ派とシャンマイのグループは終焉を迎えたがエッセネ派も期待した勝利を得ることができず、結局対立グループの消滅とともに自らのアイデンティティーを消失し、ヒルレルの影響を受けたファリサイ派のグループと合流していくことで歴史から姿を消すことになる。

     神殿崩壊後のユダヤ教はファリサイ派の中でもヒルレルのグループが中心となって担っていくことになる。エッセネ派の持っていた「神殿によらずして神に仕えることができる」という発想キリスト教の発生に影響を与え、神殿崩壊後のユダヤ教を支える思想的な基礎になった。

     新約聖書には、ファリサイ派とサドカイ派はあらわれるが、それらとならんで当時の主要なグループであったエッセネ派が一切登場しないため、洗礼者ヨハネイエス・キリストが、エッセネ派に属していたあるいは関係グループに属していたという説もある。」


    グリゴリー ・ ガガーリン 『キリストの洗礼』
    グリゴリー ・ ガガーリン 『キリストの洗礼』

    イエスに関する重要なところが出てきていますが、ここでは飛ばして、先へと進みます♥

    ハスモン朝の次の王に就いたアレクサンドロス・ヤンナイオスについて。

    以下は、Wikipediaからの抜粋です。

    「 ヤンナイオスとファリサイ派・民衆の関係は険悪であったが、仮庵の祭りの際に人々がヤンナイオスを侮辱すると、彼は約6000人を処刑した。結果として、ユダヤ支配の復活を目指したセレウコス朝の王デメトリオス3世ファリサイ派を支援する形で内戦が勃発(紀元前90年頃)。サドカイ派と組んだヤンナイオスファリサイ派や種々の反対勢力と武力衝突に至った。しかし、軍事指導者としての才能があったヤンナイオスは各地で勝利し、反対派やファリサイ派の要人を捕らえては残酷なやり方で処刑した。彼は妾たちと祝宴を張りながら、800人を磔(はりつけ)に処し、その眼前で妻子を殺害したという。

     アレクサンドロス・ヤンナイオスファリサイ派に対抗する味方を増やすため、エッセネ派とも接近したと伝えられている。

     ヤンナイオスは内戦に勝利した余勢をかって領土拡張をはかり、プトレマイオス朝と戦っては南西方向、ヨルダン川東部地域に領土を拡大した。ヤンナイオスはなおも戦いを続けたが、ラガバ要塞の包囲攻撃中に陣没した。49歳であった。彼の拡大戦争により、ユダヤ人国家はソロモン王以来の広範な領域を統治する国家となった。その後のイスラエル妻のサロメ=アレクサンドラが女王として統治した。

     ヤンナイオス遺言で、ファリサイ派に権力を与えること自分の死体を彼らの思うままに処分させることを命じた。これによりファリサイ派の敵意を収め、アレクサンドラが安定した統治を行なえるようになったという。ファリサイ派ヤンナイオスを称賛し、盛大な葬式を執り行った。」


    アレクサンドロス・ヤンナイオス
    アレクサンドロス・ヤンナイオス

    続いて、妻サロメ・アレクサンドラについて。

    「 夫の遺言に従い、弾圧されていたファリサイ派との和解を果たし、民衆に影響力を及ぼしていたファリサイ派の権勢はますます高まった。エジプトに亡命していたシモン・ベン・シェタハを呼び戻し、サンヘドリンの議長に任命した。ハスモン朝を敵視していたファリサイ派との和解は、一応国内に安定をもたらしたものの、息子たちの権力争いや重税に対する民衆の不満は募りつつあった。記録によれば、「肝臓くらいの大きさの麦の穂、オリーブの実ほどの大麦の実」、「金のつぶのようなレンズ豆」など豊富な収穫物に支えられ、富裕な生活を送っていたと言われ、穀物の3分の1果樹園・ブドウ畑の収穫の半分を受け取る権利を持ち、塩税など間接税による負担民衆には苦痛であったと思われる。」

    サロメ・アレクサンドラ
    サロメ・アレクサンドラ

    そして、このあと、いよいよ「ローマ帝国」が介入してきます。

    それでは、本日の最後に、「イエスの洗礼」についてみて見ましょう。「イエスはユダヤ教徒である」っていうことが、ハッキリすると思います♥

    ポイント 女性 重要 5

    「 新手の説教師、預言者、民衆煽動家、自称メシアらが聖都をほっつき歩き、…ローマからの解放を説いて、「神の国」の到来を約束していた。

     紀元28年、ヨハネという苦行僧のような男が、自分の信じる真のイスラエル民族に仲間入りさせる儀式として、ヨルダン川の水中で人々に洗礼を授け始めた。」


    「 ラクダの毛衣をまとい、腰に皮の帯を締め、イナゴと野蜜を常食とする野生人だったヨハネ。彼は言った…

    「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ、食べ物を持っている者も同じようにせよ」

    …徴税人には

    「規定以上のものは取り立てるな」

    …兵士たちには

    「誰からも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」

    …洗礼者ヨハネの言葉はたちまち辺りに広がった。」


    「 人々は、遠くヨルダン川の畔に、ヨハネの説教を聴きに来た。そこに着いた彼らは衣服を脱ぎ捨て、東岸まで泳いで渡ると、ヨハネが待っていて手を差し伸べる。ヨハネは一人一人を流れる水に浸す。彼らは水から顔を上げると、ヨルダン川の西岸へと泳いで戻る。1000年も前から(ユダヤ人の)祖先がしていたように、神に約束された土地に戻るのだ。こうして洗礼を受けた者は悔い改め、救われて、新たなイスラエルの民となり、神の国に入る準備が整う。」

    「 「ナザレのイエス」も…ヨハネの洗礼を受けるためにヨルダン川に出向いた

     初期キリスト教徒にとっての問題は、ヨハネとイエス接触時の基本的な事実として、…ヨハネの方が上位の人物であることを暗黙のうちに容認しなくてはならないということだった。…ヨハネによる洗礼罪の赦し(ゆるし)のためであったとすれば、イエスがそれを受けたことは彼の罪がヨハネによって浄化される必要があったことを示唆する。…両者が処刑されてからずっと後になってヨハネの信奉者イエス運動に吸収されるのを拒否したのはまさにそのためだった。彼らは自分たちの主人ヨハネの方がイエスよりも偉大だと主張していたからである。」


    「 ヨハネの重要性必死で格下げしようとした初期のキリスト教徒たちは、イエス洗礼者ヨハネの単なる一人の弟子として布教活動を始めた事実否定したかったのである。

     でなければ神であるイエスに師匠が存在することとなり、そうであれば信仰・崇拝すべき「神」はイエスではなく上位の、その師匠「洗礼者ヨハネ」となってしまうからだった。

     歴史的事実から本来はヨハネ・キリストでなくてはならないことになる。なぜならば、ヨハネに会う前のイエスは、単なる無名の貧農日雇労働者に過ぎなかったからだ。とても「神」とは…

     以上の理由から、キリスト教の福音書では、無理矢理コジツケに近い物語を挿入してまでも、イエスの方がヨハネよりも上であると必死に主張している。歴史的な事実はヨハネ上位を意味しているにもかかわらず…


    詳しくはこちらをご参照♥

    イエス・キリストは実在したのか? ♥ レザー アスラン

    51iun3ffF1L.jpg 

    レオナルド・ダ・ヴィンチの描いた『洗礼者ヨハネ』も、眺めてみて、どのようにお感じになられるでしょうか?

    「俺の方が『↑』だよ!」って、言っているようにも見えますね♥

    レオナルド・ダ・ヴィンチ 『洗礼者ヨハネ』
    レオナルド・ダ・ヴィンチ 『洗礼者ヨハネ』

    続きは次回に♥




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    Category: 世界史
    Published on: Tue,  10 2017 00:02
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