日本人なら、恥ずかしくて言わないこと 「セカチュー」

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    『世界の中心で、愛をさけぶ』(せかいのちゅうしんで、あいをさけぶ)は、日本の小説家・片山恭一の青春恋愛小説である。小学館より2001年4月に刊行。通称「セカチュー」

    2004年以降、漫画化・映画化・テレビドラマ化・ラジオドラマ化・舞台化されている。

    2001年初版刊行初版8000部と発売当初はさほど話題にならなかったが、小学館の新入社員だった営業マンの目に留まり、彼が売り込んだことから、一部の書店販売員らの手書きのPOP広告と口コミにより徐々に話題になっていった。2002年に女優の柴咲コウが、雑誌ダ・ヴィンチに投稿した書評のコメント「泣きながら一気に読みました。私もこれからこんな恋愛をしてみたいなって思いました」が書籍の帯に採用され話題となった。

    2003年に100万部を突破。2004年東宝にて映画化。映画版も大ヒットし、相乗効果で映画公開後300万部突破、大ベストセラーに。「セカチュー」と略され流行語にもなり、「セカチューブーム」として社会現象になった。その後テレビドラマ化、2005年に舞台化された。

    小学館では、これまで文芸書のヒット作が少なかったが、本作や同じ恋愛路線の『いま、会いにゆきます』などのベストセラーで、出版社のイメージを変えた。2006年に小学館文庫から、文庫版も発売された。2014年には小学館ジュニア文庫からイラスト付きで発売された。







    戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。

    そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

    私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、

    客観的に情勢を判断する必要があります。

    それでは、この書物を見ていきましょう!




    『 ギリシャ文明の勃興により、初めてヨーロッパに文明が生まれた。

    こちらもご参照♥

    僕たちがヨーロッパなんだ! ~ ヨーロッパの民主主義と奴隷制度



    紀元前500年東方を支配するアケメネス朝ペルシャ帝国ギリシャに遠征した。スパルタとアテナイを中心とするギリシャ連合軍は、22年間で3度の苦戦を潜り抜けて防衛した。

    こちらもご参照♥

    古代ペルシアからハリウッドに伝えられたもの



     これでヨーロッパが世界の中心ならば【モンゴル帝国の侵略を2度にわたって撃退した鎌倉幕府も世界の中心地域だろう】日本人「鎌倉幕府は世界の中心だった」などと恥ずかしくて言わないが、【「ギリシャは世界の中心だった」と言うのが欧米人】なのである。

    ポイント 22

     次にヨーロッパ東方のアジア世界に勝利するのは、アレキサンダー大王である。紀元前332年、大王はエジプトを征服し、さらに世界征服を目論んでアケメネス朝ペルシャを滅ぼしたインドまで到達した大王は、「もはや征服する土地がない」と嘆いたという。

    こちらもご参照♥

    旭日旗を模したデザインを国旗にする国 ~ ギリシャ神話にみる天の川の起源



     当時ヨーロッパ人にとって世界の中心とは【東方のアジア帝国のこと】であり、エジプトとペルシャを征服した大王は世界征服をしたようなものであった。ところがこの大帝国は、大王一代で終わり、広大な帝国は分裂する。単なる一過性の現象であった。

    こちらもご参照♥

    オリエントの語源は、ラテン語で「日が昇る方角」 ~ ニセモノのヨーロッパと、本物のヨーロッパ



     その後、尚武(しょうぶ)の気風が薄れたギリシャに代わり地中海の盟主となったのは【ローマ】である。

    こちらもご参照♥

    「壁」が無かった『平城京』 ~ ローマの「道」と支那の「壁」との違い



     それまで地中海の覇者だったカルタゴ(チュニジア)やエジプトを滅ぼしたローマは、セレウコス朝シリアをも征服する。キリスト教紀元(AD)一年頃現在は中東と呼ばれる地域を属州としていく。』

    日の丸

    いかがでしょうか?

    欧米人恥ずかしげもなく「世界の中心だった」と自慢するギリシャも、私たち日本から見れば「小国」です♥

    日本 ギリシャ 地図
    『THE TRUE SIZE OF ...』

    ギリシャの後覇を唱えたのがローマでした。

    西暦117年当時のローマ帝国の最大版図
    西暦117年当時のローマ帝国の最大版図

    先程のギリシャとは桁違いだということが、お分かり頂けると思います♥

    日本 ヨーロッパ 地図
    『THE TRUE SIZE OF ...』

    優れた文明をもったローマ帝国も、やがて北方からの異民族の侵入ユダヤ人テロリスト集団の大暴動などに悩まされるようになり、東西に分裂のちに消滅してしまいます。

    2世紀から5世紀にかけての民族移動の図
    2世紀から5世紀にかけての民族移動の図

    以下は、Wikipediaからの抜粋です。

    「 民族移動時代(みんぞくいどうじだい、英語: Great Barbarian Invasion)は、西暦300年から700年代にかけて、ヨーロッパで起こった人類の移住の時代のことである。この移住古代を終わらせ中世が始まったと考えてもよい。

    この移住ゲルマン系及びスラブ系の移住、更に東方系の諸民族の侵略を主体としている。これは中央アジアでのトルコ系民族の移動や、人口爆発、気候変動、疫病の蔓延、高齢化人口の増大などが要因とされる。」


    日本語では、上に説明されるように「民族移動時代」といった単なる引っ越しのような誤解を与える言葉が用いられていますが、ここは英語で言うところの「Great Barbarian Invasion」が正しい意味を示していて適切だと思います。つまり、「Barbarian(野蛮人、未開人)」の「Invasion(侵入、侵略)」です♥

    最初にローマ帝国に侵入したのが、ゲルマン系の西ゴート族で、イタリア半島に侵入ローマを包囲したのちに、現在のフランス南部からイベリア半島にかけて支配する「西ゴート王国」を形成します。

    西ゴート族の移動
    西ゴート族の移動

    続いてイタリア半島に侵入したのが、ゲルマン系の東ゴート族で、西ローマ帝国滅亡後イタリアをほぼ全域支配下におく「東ゴート王国」を形成します。

    西ローマ帝国の廃墟の中から振興した東ゴート王国の領地
    西ローマ帝国の廃墟の中から振興した東ゴート王国の領地

    この「東ゴート王国」を叩き潰したのが「東ローマ帝国」の皇帝ユスティニアヌス1世でした♥

    ユスティニアヌス1世
    ユスティニアヌス1世

    以下は、Wikipediaからの抜粋です。

    「 日本ではあまり知られていないが、古代ギリシア文化の伝統を引き継いで1000年余りにわたって培われた東ローマ帝国の文化は、正教圏各国のみならず西欧のルネサンスに多大な影響を与え、「ビザンティン文化」として高く評価されている。また、近年はギリシャだけでなく、イスラム圏であったトルコでもその文化が見直されており、建築物や美術品の修復作業が盛んに行われている。」

    東ローマ帝国の版図の変遷
    東ローマ帝国の版図の変遷

    「 東ローマ帝国の住民の中心ギリシア人であり、7世紀以降ギリシア語が公用語であったが、12世紀までの東ローマ帝国はセルビア人・ブルガリア人といったスラヴ諸民族やアルメニア人などを内包する多民族国家であった。ギリシア人は国民全体の3割ほどだったとする研究者もいる。帝国内の自由民は、カラカラ帝の「アントニヌス勅令」以降ローマ市民権を持っていたため言語・血統にかかわらず自らを「ローマ人 (Ῥωμαίοι, Rhōmaioi)」と称していた東方正教を信仰し、コンスタンティノポリスの皇帝の支配を認める者「ローマ帝国民=ローマ人」だったのである。

    一方「ローマ人」以外の周囲の民族「蛮族」(エトネーあるいはバルバロイ)と見なしており、10世紀の皇帝コンスタンティノス7世が息子のロマノス2世のために書いた『帝国の統治について(帝国統治論)』では、帝国の周囲の「夷狄の民」をどのように扱うべきかについて述べられている。」


    続いてローマ帝国内に侵入してきた野蛮人「フランク人」で、現在のドイツやフランスを中心とした一帯を侵略支配した「フランク王国」を形成します。

    フランク王国の時代別の領土
    フランク王国の時代別の領土

    また、アングロ人サクソン人イングランドへと渡り、そこに複数の王国を築いていきますが、ノルマン人の一派であるデーン人が侵略していきます。

    詳しくはこちらをご参照♥

    イギリスにもある「万里の長城」 ~ イギリス王室とヴァイキング



    このように見てみますと、欧米人が恥ずかしげもなく「世界の中心だった」と自慢するギリシャですが、そのギリシャ由来の文化を受け継いできたのが現在のヨーロッパではなくイスラム圏であるトルコだということが御理解いただけると思います♥

    ポイント 女性

    で、その後、同じくノルマン系のいわゆる「ヴァイキング」ヨーロッパに繰り出していきます

    ヴァイキングの航海 緑色はヴァイキングの居住地(植民地)、青線は経路、数字は到達年。黒海やカスピ海、北アメリカ大陸のニューファンドランド島にも到達している
    ヴァイキングの航海 緑色はヴァイキングの居住地(植民地)、青線は経路、数字は到達年。黒海やカスピ海、北アメリカ大陸のニューファンドランド島にも到達している

    ここからは、昨年からの続きになります。

    私たち日本の戦国時代の頃ヨーロッパでは「宗教改革」を切っ掛けとしたキリスト教の分裂が始まっていました。

    国史と西洋史 4

    この時代は、西洋史でいうところの「近世」になります。

    で、当時の状況を簡単に表しますと、こんな関係で御理解いただければ良いかと思います。

    1547年時点でのハプスブルク家の領土 3
    1547年時点でのハプスブルク家の領土

    ここで、イングランド王国とフランス王国の関係を見ていく必要があるのですが、ポイントになる地域「ノルマンディー」です。

    ノルマンディー
    ノルマンディー

    詳しくはすでに書かせて頂いておりますので省略いたしますが、北方ゲルマン系ヴァイキングであるノルマン人が、侵入して支配したのが、このノルマンディーでした。

    12世紀にノルマン人が征服した地を赤で示す
    12世紀にノルマン人が征服した地を赤で示す

    この地を治めたノルマンディー公は、フランス王の臣下でもあったのですが、後のウィリアム1世の時代イングランドに攻め込み征服し、ノルマン人の王朝であるノルマン朝を開き、現在に至るまでその血筋が続くことになります。

    ウィリアム1世
    ウィリアム1世

    ノルマンディー公国の紋章
    ノルマンディー公国の紋章

    ノルマンディー公ギヨーム2世イングランド王ウィリアム1世として開いたノルマン朝は、その紋章からも分かるとおり、ヴァイキングのノルマン人の王国です。

    ノルマンディー朝の紋章
    ノルマン朝の紋章

    この時代、国王貴族教皇という、いわゆる支配階層が、政略結婚複雑な婚姻関係を築き、権力の増大領地の拡大権威の強化を図っていた時代でした。

    フランス国王の臣下であるノルマンディー公が、イングランド王を兼務するノルマン朝の後に続く王朝が、同じくフランス国王の臣下であるアンジュー伯及びノルマンディー公そしてイングランド王を兼務するヘンリー2世(在位:1154年 - 1189年)のプランタジネット朝でした。

    ヘンリー2世
    ヘンリー2世 

    プランタジネット朝の紋章
    プランタジネット朝の紋章

    フランス王国の臣下でありながらイングランド王も兼務する巨大なアンジュー帝国の誕生でした♥

    1172年頃のアンジュー帝国の版図
    1172年頃のアンジュー帝国の版図

    この流れは、現在のイギリスの国章からも分かる通り、いまも受け継がれています

    現在のイギリスの国章
    現在のイギリスの国章

    1199年「欠地王」とか「失地王」と呼ばれる散々な王様「ロビン・フッド」の物語でも、悪い王様として描かれる、プランタジネット朝第3代イングランド国王として、ジョンが就きます。

    ジョン
    ジョン

    このジョンの時代に、フランス領内の国土の大半を喪失してしまします。

    1180年と1223年のフランスにおけるプランタジネット家の版図(赤)とフランス王領(青)、諸侯領(緑)、教会領(黄)
    1180年と1223年のフランスにおけるプランタジネット家の版図(赤)とフランス王領(青)、諸侯領(緑)、教会領(黄)

    無能なジョン王に対して諸侯が反発し、内乱状態に陥ったイングランド王国ですが、この内乱にもフランス王国は介入をしていて、王太子ルイ(将来のルイ8世)ロンドンを占拠イングランド王位につくことを宣言しています。

    ルイ8世
    ルイ8世

    1216年、ジョン王が死去。すると、ジョン王の死で戦争をする理由がなくなってしまった諸侯たちが、その息子、9歳のヘンリー3世の陣営に加わってフランス王国と対峙するようになっていきます。

    ヘンリー3世
    ヘンリー3世

    このとき、若きヘンリー3世を補佐し、イングランド王国の諸侯をまとめフランス王国とそれに同調する反乱貴族を相手に奮闘したのが、プランタジネット朝の若ヘンリー王、ヘンリー2世、リチャード1世、ジョン王、ヘンリー3世の5人の王に仕え卑賤の身分からイングランドの摂政、そしてヨーロッパで最も有力な人間の一人となったウィリアム・マーシャルです♥

    ボールドウィン・ド・ギーヌを落馬させたウィリアム・マーシャル。マシュー・パリスの『大年代記』より
    ボールドウィン・ド・ギーヌを落馬させたウィリアム・マーシャル。マシュー・パリスの『大年代記』より

    以下は、Wikipediaからの抜粋です。

    「 1216年11月11日、ウィリアムは摂政として幼いヘンリー3世に仕えることになった。既に70歳近くの老齢ながら、イングランド王位を狙うフランス王太子ルイ(後のルイ8世)と反乱貴族達を相手に精力的に戦ったリンカーンの戦いでは、若い騎士達と共に先頭に立って戦い勝利に貢献した。ウィリアムはドーバー海峡で戦っていたヒューバート・ド・ブルースが勝利していたなら、ロンドンを占拠するルイ王太子を包囲する準備まで整えていた。1217年には、ルイや反乱した貴族達を厳しく非難することもなく寛容の心で許している

     だが、ウィリアムの狙いはむしろ早期の和解にあったという記録が残っている。節制と相手への譲歩はウィリアムの政策の中心であり、若いヘンリー3世に対する安全と平和を望んだ。1217年にマグナ・カルタが再発行された際、証人としてサインしてもいる。ウィリアムの存在なしにはイングランドはジョンの悪政によって崩壊していた可能性もあるとされる。フランス王と反乱貴族達王の言葉でなくウィリアムの方を信用していた。」


    ここまでのお話は、映画の『ロビン・フッド』を見て頂くと、大体、理解ができると思いますが、ロビン・フッド自体が架空の人物ですので、史実とは違った描写もなされていますので、その辺りは御考慮のうえ、御覧になってみてください。



    で、このヘンリー3世も、父親譲りの暴君で、度重なる外征の失敗外国人の重用ヨーロッパ各国の王位継承問題への介入による財政難及び課税の強化に対しイングランドの諸侯や聖職者の反発を招き、またもや内乱を招いてしまいます♥

    続きは次回に♥




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    Category: 世界史
    Published on: Wed,  04 2017 00:01
    • Comment: 3
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    3 Comments

    4711  

    No title

    あけましておめでとうございます。
    今年もよろしくお願い致します。

    小学生の頃、「1492年、コロンブスがアメリカ大陸発見」というのを聞いて、おかしいな、と思っていました。先に住んでいたのは、原住民たちですから。日本で習う世界史は、ヨーロッパ人の視点で書かれていた、ということだったのですね。

    2017/01/05 (Thu) 15:41 | EDIT | REPLY |   

    みっちゃん  

    Re: No title

    4711さん、明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

    日本で習う世界史は、ヨーロッパ人の視点で書かれていた ⇒ その通りですね♥ しかも、かなり捏造されています(笑)

    恐らく、私たち日本人だけが、本当の世界史の姿を描き出すことができると思います。いつの時代にあっても、胸を張って、誇ることができる歴史を紡いできたのは、私たち日本人だけなのではないでしょうか?ですから、堂々と「そこの歴史解釈って、間違ってますね」って、正しく批判ができるんです。私たち日本人こそ、声をあげて主張していかないといけませんね♥

    みんなで力を合わせて頑張りましょう!最近は秀逸な書物が次々と出てきていますので、少しでも多くご紹介させて頂きたいと思います。手元にまだ未読の書物が300冊以上あるのですが、新しく本棚も購入しましたので、頑張って読んでまいります^^




    2017/01/05 (Thu) 16:57 | REPLY |   

    せいれき  

    No title

    2017年=皇紀2677年

    2017/01/10 (Tue) 12:59 | EDIT | REPLY |   

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