教皇、国王、そして金融

    ピーテル・パウル・ルーベンス 『マリー・ド・メディシスの生涯』(1622年~1625年)より「マリーのマルセイユ到着」
    ピーテル・パウル・ルーベンス 『マリー・ド・メディシスの生涯』(1622年~1625年)より「マリーのマルセイユ到着」

    『マリー・ド・メディシスの生涯』(マリー・ド・メディシスのしょうがい、仏: Cycle de Marie de Médicis)は、フランドルの画家ピーテル・パウル・ルーベンスが描いた24点の連作絵画の総称フランス王アンリ4世妃マリー・ド・メディシスが、パリのリュクサンブール宮殿改修時の装飾絵画として、1621年秋にルーベンスに制作を依頼した作品群である。1622年初頭に正式な絵画制作契約が結ばれ、マリーの娘アンリエット・マリーの結婚式に間に合うように制作が進められた。全24点の連作のうち21点の作品の主題となっているのはマリーの生涯における重要な出来事で、マリーが経験してきた苦難や栄華が描かれている残る3点の絵画にはマリーと両親の肖像画が描かれている。現在『マリー・ド・メディシスの生涯』はすべてパリのルーヴル美術館が所蔵しており、リシュリュー翼の「メディシスの間 (la Galerie Médicis)」または「ルーベンスの間」と呼ばれる部屋に展示されている。

    ルーヴル美術館リシュリー翼メディシスの間で展示されている『マリー・ド・メディシスの生涯』。
    ルーヴル美術館リシュリー翼メディシスの間で展示されている『マリー・ド・メディシスの生涯』

    ルイ・ベローが描いた、ルーヴルで展示されている『マリー・ド・メディシスの生涯』(1904年)
    ルイ・ベローが描いた、ルーヴルで展示されている『マリー・ド・メディシスの生涯』(1904年)

    ピーテル・パウル・ルーベンス 『マリー・ド・メディシスの生涯』(1622年~1625年)より「マリー・ド・メディシスの運命」
    ピーテル・パウル・ルーベンス 『マリー・ド・メディシスの生涯』(1622年~1625年)より「マリー・ド・メディシスの運命」




    戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。

    そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

    私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、

    客観的に情勢を判断する必要があります。

    それでは、この書物を見ていきましょう!




    『 一昨年(平成26年)末の衆議院選挙、そして参議院選、続く都知事選と【民主党(現民進党)は惨敗し、国民の信頼を完全に失った】と言えます。

    れんほう 中国籍 

    多くの国民が長年の自民党一党政権に疑問を感じ、【できもしない美味しい民主党のマニュフェストに騙され】政権交代を実現させました。しかし【見事に3年半で馬脚を現し、どれほどの国益を損ねることになった】か、検証すればするほど恐ろしいことになっていました。

    ポイント 女性

     おそらく国民としては肌で感じているものの、【現実にどのような国益の損失があるのか】偏向マスコミにより報道をされることはないのでよくわからないと思います。

    悩む女の子2

    マニュフェスト倒れは、もともと民主党が掲げ、いかにも実現するかのごとく宣伝したので国民もよく理解できていると思います。しかし【報道されることもなく、簡単には目に見えない国益の損失の方がはるかに大問題】だと思います。…

    れんほう 中国籍 7

     安倍自民党【民主党政権の弊害の洗い出し作業】が進んでいます。

    ポイント 女性

     特に影響を受けているのが、【内閣府・警察庁・防衛省・外務省であることも明らかになっています】

    驚き

    つまり日本の国策そして外交防衛が、1度でも政権交代があると【めちゃくちゃにされてしまう】のです。元に戻すには何年もかかります。例えば外交で民主党のした約束だからとすぐに戻すわけにはいきません。朝令暮改だと言われ、外国からの信用がなくなります国内においても簡単に大臣が出した命令措置を変えるわけにはいきません。その命令に沿って予算もかけ、国民の間では続々と進行しているからです。

    驚き 女性 13

     こうした省庁には【非常に多くの機密事項】があるため、【民主党政権になりその機密に触れる立場を誰が得たかからどこまでの機密が漏れたかも検証されています】

    ポイント 女性

    機密に携われるように【各省庁への意図的人事異動】もありました。

    驚き顔

    そして【機密事項そのものの任務にあたらせていたケースまである】ことが確認されました。

    驚き 2

    【民主党により後退どころか破壊されてしまった】こともあります。

    驚き 6

    【在日帰化人の左翼過激派が民主党本部事務員の身分で内閣府にまで入り込んでいた】のです。

    驚き 8

    【防衛省システム管理にも1人いました】。』

    日の丸

    いかがでしょうか?

    この本の著者である井上太郎さんは、ブログでもたくさんの有益情報を提供なされていますので、ぜひ、そちらも御覧になってみてください♥ 

    「目からウロコ」なのは、間違いなしです。

    こちらをご参照♥

    日本のために ~ ネットワークを駆使して入手したいろんな情報をお届けします。

    さて、ここからは、昨日の続きになります。

    現代のアメリカに存在している左翼ユダヤ人「革命思想」

    その重要人物が、この左翼ユダヤ人でした。

    ソウル・アリンスキー
    ソウル・アリンスキー

    そして、アメリカによって戦後の日本に持ち込まれた「日本独特の左翼・リベラル」が、そもそもどのような思想、どのような経緯から生まれてきたのか、を考えますと、この「左翼ユダヤ人の思想」に繋がります

    憲法九条左翼

    私たち日本人とは相容れないものであるにも関わらず、「日本独特の左翼・リベラル」の連中がそれに気が付いていないため、世界中の左翼・リベラルとは全然違う「何か得体のしれないモノ」になっているんです♥

    ポイント 女性

    中世(500年~1500年)~近世(1500年~1800年初頭)ヨーロッパでは、聖職者や騎士・貴族が、奴隷としての「農民」を支配していた社会システムが存在していました。キリスト教会も、奴隷を支配していたんです♥

    その社会システム、日本には存在しなかったフューダリズム(Feudalism)崩壊するのが、ルターの宗教改革から約300年も経た「フランス革命」によってでした。このときヨーロッパの人々は「個人の自由を獲得」します。そして、これこそがリベラリズムの原点になります。

    国史と西洋史 3

    詳しくはこちらをご参照♥

    ヨーロッパで個人が自由を獲得したのは、たったの230年前なんです ~ リベラルの原点「フランス革命」



    こちらもご参照♥

    日本の消費税より高い、「教会税」 ~ 教会に賠償金を払いつづける国



    そして、それは、被差別民だったユダヤ人が、キリスト教世界において初めて「権利」を認められた「流血革命」であって、「反キリスト教」の革命でもあったんです♥

    以下は、Wikipediaからの抜粋です。

    「 1790年8月3日政府ユダヤ人の権利を全面的に認めた。1792年5月から1794年10月まで、キリスト教は徹底的に弾圧された。当時カトリック教会の聖職者は特権階級に属していた。革命勃発以来聖職者追放教会への略奪・破壊がなされ、1793年11月には全国レベルでミサの禁止と教会の閉鎖が実施され、祭具類がことごとく没収されて造幣局に集められ、溶かされた。」

    これが、「フランス革命」の重要なポイントです♥ リベラリズムの原点ユダヤ人の権利獲得は、重なっているんです。

    既存の権威・権力を否定して、自分たちの権利「暴力革命」によって奪い取っていくこの思考パターンが長きに渡り被差別民であった「ユダヤ人」の思考パターンです。

    ポイント 女性

    ユダヤ

    それでは、そんなユダヤ人の思考パターンに繋がる歴史を、権威の象徴である「教皇」、権力の象徴である「国王」、そしてそれらを巡る「金融」に注目して、振り返ってみてみましょう。

    16世紀日本が戦国時代であった頃、ヨーロッパではキリスト教の分断(カトリック対プロテスタント)という現象が起きていました。

    国史と西洋史 2

    キリスト教(カトリック)は、国王と結びつくことで教会の権力と権威を絶対的なものとしていましたが、そんなローマ・カトリック教会抗議(ラテン語: prōtestārī, プローテスターリー)し、「宗教改革」を求めたのがマルティン・ルターたちでした。

    マルティン・ルター
    マルティン・ルター

    こちらもご参照♥

    偉人? 宗教改革のルター♥



    この時、キリスト教(カトリック)のトップだったのが、ローマ教皇レオ10世でした。

    ラファエロ・サンティ『レオ10世と枢機卿達』
    ラファエロ・サンティ 『レオ10世と枢機卿達』

    このローマ教皇レオ10世は、イタリアの富豪「メディチ家」の出身です。あのルネサンス期と関わりの深い「メディチ家」です。

    以下は、Wikipediaからの抜粋です。

    「 メディチ家(メディチけ、イタリア語:Medici)は、ルネサンス期イタリア・フィレンツェにおいて銀行家、政治家として台頭フィレンツェの実質的な支配者として君臨し、後にトスカーナ大公国の君主となった一族である。その財力でボッティチェリレオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロヴァザーリブロンツィーノアッローリなどの多数の芸術家をパトロンとして支援し、ルネサンスの文化を育てる上で大きな役割を果たしたことでも知られている。」

    メディチ家紋章
    メディチ家紋章

    「 メディチ家は、ジョヴァンニ・ディ・ビッチ(1360年 - 1429年)の代に銀行業大きな成功を収める。メディチ銀行ローマやヴェネツィアへ支店網を広げ1410年にはローマ教皇庁会計院の財務管理者となり、教皇庁の金融業務で優位な立場を得て、莫大な収益を手にすることに成功した。」

    ジョヴァンニ・ディ・ビッチ
    ジョヴァンニ・ディ・ビッチ

    「 ジョヴァンニの息子コジモ(1389年 - 1464年、コジモ・イル・ヴェッキオ)は政敵によって一時追放されるが、1434年にフィレンツェに帰還し、政府の実権を握る(1434年から一時期を除き、1737年までのメディチ家の支配体制の基礎が確立する)。自らの派閥が常に多数を占めるように公職選挙制度を操作し、事実上の支配者(シニョリーア)としてフィレンツェ共和国を統治した。家業の銀行業も隆盛を極め、支店網はイタリア各地の他、ロンドン・ジュネーヴ・アヴィニョン・ブルッヘなどへ拡大した。メディチ家イタリアだけでなくヨーロッパでも有数の大富豪となった。」

    コジモ・デ・メディチ
    コジモ・デ・メディチ

    フィレンツェ共和国の版図(1494年)
    フィレンツェ共和国の版図(1494年)

    「 コジモの孫ロレンツォ(1449年 - 1492年)は優れた政治・外交能力を持っていた。イタリア各国の利害を調整する立場として大きな影響力を振るい、信頼を得ていた。パッツィ家の陰謀への対処に見られるように反対派には容赦無い弾圧を加える一方で、一般市民には気前良く振舞い、またボッティチェリミケランジェロなど多数の芸術家を保護するパトロンとしても知られているロレンツォの時代フィレンツェの最盛期でもあり、「偉大なるロレンツォ」(ロレンツォ・イル・マニーフィコ)と呼ばれた。しかし、銀行経営の内実は巨額の赤字であり、曾祖父ジョヴァンニと祖父が築き上げたメディチ銀行は破綻寸前の状態であった。また、共和国の公金にも手を付けていたといわれるロレンツォの不正は、メディチ家のフィレンツェの支配者としての意識の変質を物語るものとなる。」

    ロレンツォ・デ・メディチ
    ロレンツォ・デ・メディチ

    「 ロレンツォ43歳で病死し、長男のピエロが家督を継ぐが、1494年シャルル8世率いるフランス軍の侵攻に対する対処を誤り(第一次イタリア戦争)、市民の怒りを買った。メディチ家フィレンツェを追放され、メディチ銀行も破綻した。この失態からピエロは、ピエロ・イル・ファトゥオ(愚昧なピエロ)というあだ名で呼ばれることになった。その後ピエロはチェーザレ・ボルジアの軍と共に行動していたが、1503年に溺死した。このため、ピエロ・ロ・スフォルトゥナート(不運なピエロ)とも呼ばれる

     ピエロの死により、メディチ家の当主弟のジョヴァンニ枢機卿(ロレンツォの次男)に継承された。1512年ジョヴァンニを筆頭にしたメディチ家は、ハプスブルク家の援助を得てスペイン軍と共にフィレンツェに復帰し、その支配を再確立した。1513年ジョヴァンニ教皇レオ10世として即位し(在位:1513年 - 1521年)、メディチ家フィレンツェとローマ教皇領を支配する門閥となったレオ10世芸術を愛好し、ローマを中心にルネサンスの文化の最盛期をもたらしたが多額の浪費を続けて教皇庁の財政逼迫を招き、サン・ピエトロ大聖堂建設のためとして大がかりな贖宥状(いわゆる免罪符)の販売を認めたことで1517年のマルティン・ルターによる宗教改革運動のきっかけを作った。」


    ほどなく、宗教改革大航海時代影響を受け、イタリア自体の地位が西欧で低下し、イタリアの富豪「メディチ家」も没落していきますが、マリー・ド・メディシス(イタリア語名はマリア・デ・メディチ)フランス王と結ばれることで、フランス革命で処刑されるルイ16世まで続く「ブルボン朝」の血統をつくりました。

    ピーテル・パウル・ルーベンス『マリー・ド・メディシスの肖像』1622年
    ピーテル・パウル・ルーベンス 『マリー・ド・メディシスの肖像』 1622年

    国史と西洋史 3

    なお、ルネサンスについては、先日、アルブレヒト・デューラーのお話と絡めて、何回かに分けて書かせて頂いておりますので、そちらをご覧ください♥

    アルブレヒト・デューラーと「在日」姜尚中



    アルブレヒト・デューラー 『自画像』1500年
    アルブレヒト・デューラー 『自画像』1500年

    さて、1529年ルター派の諸侯や都市が、宗教改革を求める「抗議書(Protestatio, プロテスタティオ)」を送った相手が、神聖ローマ帝国皇帝カール5世でした。カール5世は、ハプスブルク家の出身です。

    ティツィアーノ・ヴェチェッリオ 『カール5世』1548年
    ティツィアーノ・ヴェチェッリオ  『カール5世』 1548年

    以下は、Wikipediaからの抜粋です。

    「 カール5世(1500年2月24日 - 1558年9月21日)は、ハプスブルク家出身神聖ローマ皇帝在位:1519年 - 1556年)であり、スペイン国王在位:1516年 - 1556年)としてはカルロス1世と呼ばれる。

     ハプスブルク帝国の絶頂期に君臨し、その治世は、ヨーロッパ統合を果たしたカール大帝以来の歴史的ヨーロッパ概念の体現者とも言われる。さらに当時は大航海時代の真っ只中にあったため、「太陽の沈まない国」と称されたようにヨーロッパから新大陸、アジア(フィリピン)に至る世界帝国を築き上げた彼の理想はオットー1世以来有名無実化していた神聖ローマ帝国を統一し、最終的には西ヨーロッパの統一カトリック的世界帝国の構築であったが、覇権を争うフランス王国との戦い宗教改革の嵐スレイマン1世が率いるオスマン帝国の伸張など相次ぐ戦いに阻まれ、あと一歩のところで目的は果たせなかった。晩年は長年の痛風と相次ぐ戦争に疲れ果て自ら退位し、修道院に隠棲した。」


    で、カール5世の出身であるハプスブルク家の財政担当ともいえるのがフッガー家で、さきほどのアルブレヒト・デューラーのパトロンでもありました♥

    アルブレヒト・デューラー 『ヤーコプ・フッガー』
    アルブレヒト・デューラー 『ヤーコプ・フッガー』

    そして、「宗教改革」の原因である贖宥状(免罪符)販売という入れ知恵をしたのも、フッガー家でした♥

    以下は、Wikipediaからの抜粋です。

    「 フッガー家(Fugger)は、中世ヨーロッパのアウクスブルクを中心に鉱山、金融を営んだヨーロッパの富豪

     政治との関係も深く、神聖ローマ皇帝スペイン国王ローマ教皇などの御用銀行として資金を融通した。宗教改革のきっかけとなった1517年の贖宥状(免罪符)販売は、ブランデンブルク公フッガー家への借金を返還するためでもあった。また、1519年の皇帝選挙では、ハプスブルク家のスペイン王カルロス1世に選挙資金を貸し付けたカルロスフランス王を抑え神聖ローマ皇帝に就くことができた。1511年にヤーコプは神聖ローマ帝国の貴族に列せられている。

     ヤーコプの後継者アントンの代には、資産は710万フローリンと最大になった。しかし、新大陸などから大量の銀が流入したことによって(商業革命)経営している鉱山の経営が悪化し、顧客であるスペイン王室を筆頭とする王侯が戦争で貸付金が焦げ付く時代になってしまい、アントンの長子マルクスの代にフッガー家の事業は三十年戦争の後に解散してしまった。」


    「 教皇レオ10世サン・ピエトロ大聖堂の建築のための全贖宥を公示し、贖宥状購入者に全免償を与えることを布告した。中世において公益工事の推進のために贖宥状が販売されることはよく行われることであったが、この贖宥状問題が宗教改革を引き起こすことになる。

     宗教改革がヨーロッパ全域の中で特に神聖ローマ帝国(ドイツ)で起こったことには理由があったドイツ最も大々的に贖宥状の販売が行われたからである。この大々的な販売は当時のマクデブルク大司教位とハルバーシュタット司教位を持っていたアルブレヒトの野望に端を発していた。彼はブランデンブルク選帝侯ヨアヒム1世の弟であり、兄の支援を受けて、選帝侯として政治的に重要なポストであったマインツ大司教位も得ようと考えた。しかし、司教位は本来1人の人間が1つしか持つことしかできないものであった。

     アルブレヒトローマ教皇庁から複数司教位保持の特別許可を得るため多額の献金を行うことにし、その献金をひねり出すためフッガー家の人間の入れ知恵によって秘策を考え出した。それは自領内でサン・ピエトロ大聖堂建設献金のためという名目での贖宥状販売の独占権を獲得し、稼げるだけ稼ぐというものであった。こうして1517年アルブレヒトは贖宥状販売のための「指導要綱」を発布、ヨハン・テッツェルというドミニコ会員などを贖宥状販売促進のための説教師に任命した。アルブレヒトにとって贖宥状が1枚でも多く売れれば、それだけ自分の手元に収益が入りローマの心証もよくなっていいこと尽くしのように思えた。」


    教皇、国王、金融の繋がりの一端が御理解いただけましたでしょうか?

    他にも、重要な「金融の拠点」だったところに、「フランドル」「ジェノヴァ」がありますが、本日はここまでとさせて頂きます。

    続きは次回に♥




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    Category: 日本
    Published on: Thu,  15 2016 00:01
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