司馬遼太郎が描いているのは、実は・・・  ~  歴史に残る名将 乃木希典

    幕府陸軍(1866年)
    幕府陸軍(1866年)

    長州征討(ちょうしゅうせいとう)は、元治元年(1864年)慶応2年(1866年)2回にわたり、江戸幕府が長州藩の処分をするために長州藩領のある周防国、長門国(以下、防長二州と記す)へ向け征討の兵を出した事件を指す。長州征伐長州出兵幕長戦争長州戦争などとも呼ばれる。

    特に慶応元年(1865年)5月の江戸幕府14代将軍徳川家茂の進発(出陣)に始まり、慶応3年(1867年)1月23日の解兵令に至る第二次長州征討「長州再征」とも呼ばれ幕末政治史上の一大事件となったが、長州側の立場から当該事件を歴史的に捉えた場合は四境戦争と呼ぶ向きもある。






    戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。

    そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

    私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、

    客観的に情勢を判断する必要があります。

    それでは、この書物を見ていきましょう!




    『 およそ名将として世間から尊敬される人物は、次のような条件が必要であろう。

    悩む女の子2

     その天賦の才能生まれ育った環境境遇、生涯にわたる本人のたゆまざる修練努力、そして最後に武運である。これらの四条件がそろってはじめて歴史に残る名将が生まれるのではないだろうか。この四条件のどれを一つ欠いても名将は生まれない。

    乃木希典 2
    乃木希典 (のぎまれすけ)

     では、乃木将軍の場合はどうであったろうか。

     乃木希典(幼名無人(なきと))は嘉永二年(1849年)十一月十一日江戸麻布日ヶ窪の長府藩邸で生まれた。現在、【六本木ヒルズの所在地】である。

    六本木ヒルズ内にある「乃木大將生誕之地」碑
    六本木ヒルズ内にある「乃木大將生誕之地」碑

     この長府藩邸は元禄の昔、【吉良邸に討入り主君の仇をとった赤穂義士・武林唯七ら十名が預けられ、切腹した場所】でもある。従って、物心ついた頃から、両親から聞かされた赤穂義士の物語は幼児の心中に深く刻み込まれてゆき、【将軍の人間形成に大きな影響】を及ぼしたことは想像に難くない。

    三代目市川八百蔵扮する武林唯七(勝川春英画)
    三代目市川八百蔵扮する武林唯七(勝川春英画)

     父希次(まれつぐ)は極めて厳格な人であり、母寿子(ひさこ)も厳しく将軍を育てたという。

     安政五年(1858年)、【満九歳】のとき、乃木一家は江戸より故郷の長府に移った【この移転の旅に、希典は京都まで父と共に歩き通している】約五〇〇キロメートルの旅である。

    驚き顔

     慶応元年(1865年)九月、毛利本藩、萩の藩校【明倫館に入学】を許され、文武両道を学ぶことになるが、翌二年幕府の長州征伐が再開され、世にいう【四境戦争(しきょうせんそう)】がはじまった【希典はこのとき満十六歳】であったが、報国隊に入隊【砲一門の長として小倉口の戦闘に参加】している。

    幕府軍(越後高田藩兵)行進の様子
    幕府軍(越後高田藩兵)行進の様子

     【大砲は当時、虎の子の兵器】で、その運用の如何(いかん)は戦闘の勝敗を左右したものである。

    ポイント 女性

    鳥羽伏見の戦いをはじめとし、幕末の各地の戦い官軍が勝った原因の第一は、官軍の砲質量共に幕軍に優っていたからである。

    ポイント 女性

     【弱冠十六歳で砲一門の指揮官に抜擢】されたということは、いかに彼がその【同士の中で頭角をあらわしていたかの証左】である。

    ポイント 女性

     明治二年(1869年)十一月満二十歳のとき藩命により同輩の五名とともに京都伏見の御親兵兵営に入り、フランス式訓練を受けた。

     この御親兵訓練所は時の兵部大輔(ひょうぶたいふ)・大村益次郎【新陸軍創設のため下級幹部の教育】を行ったところである。

    靖国神社参道の中央にある大村益次郎像
    靖国神社参道の中央にある大村益次郎像

     彼は【成績優秀で、翌年七月には練兵係伍長に抜擢】されている。

    ポイント 女性

     十二月、藩命により帰還し、【豊浦藩(毛利藩)の練兵教官となった】

    ポイント 女性

     乃木将軍二十歳という人生のうちで最も感受性の強い時期に、軍人としての基礎教育を受けたことは、甚だ意義のあることと考えなければならない。軍人の基礎教育というようなものはあまり早過ぎてもいかぬし、また遅くてもいけない。やはりタイミングが一番大事なのである。心身の発育状態が最も充実する二十歳前後が最適であることは、誰も異論がないであろう。

     【司馬は、乃木将軍が青年時代は文学青年で軍事的基礎教育はほとんど受けていないと強調】する。

    驚き

    近代的軍事知識は皆無だなぞと言いたげだがこの経歴いったい何と見るのかと問いたい。

    ポイント 22

     また、【乃木希典は元来文人志望であったなどという人もおるが、これも大きな間違い】だ。

     話は横道にそれるが、【江戸時代の武士はすべて役人、今日でいう官僚】である。【江戸時代の末期まで、日本には軍人なるものは存在していなかった】

    ポイント 女性

     軍人という職業が生まれたのは、西洋から兵学および洋式訓練が入ってきて、これらの知識技術を習得した連中が軍隊という組織を作ったときで、その組織の中の一員が軍人である。

     西洋の軍事知識を勉強しても、軍隊という組織に入らなければ軍人ではない。まして、いかに日本の在来の武芸にすぐれていてもまた孫子呉子の兵法に通じていても、それだけの知識技術をもっているだけでは軍人ではないのである

    ポイント 女性

     【戦術(タクティック)の知識】をもち命令号令で部隊を動かすものは【将校】であり、単に号令だけで少人数の部下を指揮するものは【下士】であり、上官の命令号令で武器を操作し動き回るのが【兵】である。この【将校下士兵の総称が軍人】である。こういうものは【江戸時代には存在せず】幕末になって西洋から軍事訓練が入ってきてはじめて生まれたものである。

    ポイント 女性

     明治維新という一大変革期遭遇した青年乃木が、将来、文人の道を進むか、軍人になるかその選択に迷うのは当然であろう。

     しかし彼は先輩である御堀(みほり)耕介のすすめによって軍人を志す明治二年十月のことである。

    御堀耕助
    御堀耕助

     満二十歳の乃木のそれからの生涯は軍人である。その豊かな文才によって多くの詩歌を作っておるが、それは軍人乃木の余技にしか過ぎないのである。』

    日の丸

    いかがでしょうか?

    この書物を読み進めていきますと、清々しく気持ち良いぐらいに司馬遼太郎の唱える「嘘」白日の下に晒されていきます

    著者は、司馬遼太郎

    乃木将軍が青年時代は文学青年で軍事的基礎教育はほとんど受けていないと強調

    していて、完全に独断偏見どこをどのように調べてそんなデタラメを書いているのか「叱咤」しています♥

    司馬遼太郎の小説で描かれている、乃木希典の人物像が、そもそも「間違っている」と。。。

    司馬遼太郎
    デタラメな物書きだった司馬遼太郎

    それでは、司馬遼太郎が、軍事的基礎教育はほとんど受けていないと強調している乃木希典についてWikipediaを見てみましょう

    「 嘉永2年11月11日(1849年12月25日)、長州藩の支藩である長府藩の藩士・乃木希次(馬廻、80石)と壽子(ひさこ)との三男として、江戸の長府藩上屋敷(毛利甲斐守邸跡、現・東京都港区六本木)に生まれた希典の長兄および次兄は既に夭折(ようせつ/若くて死ぬこと)していたため世嗣となる。

    幼名は無人(なきと)。兄たちのように夭折することなく壮健に成長して欲しいという願いが込められている。

    父・希次は江戸詰の藩士であったため、無人は10歳までの間長府藩上屋敷において生活した。なお、この屋敷は、かつて赤穂浪士の武林隆重(武林唯七)ら10名が切腹するまでの間預けられた場所であったので、無人も赤穂浪士に親しみながら成長した。

    幼少時の無人は虚弱体質であり、臆病であった。友人に泣かされることも多く、無人の名にかけて「泣き人」(なきと)とあだ名された。

    は、こうした無人を極めて厳しく養育した。例えば、「寒い」と不平を口にした7歳の無人に対し、「よし。寒いなら、暖かくなるようにしてやる。」と述べ、無人を井戸端に連れて行き、冷水を浴びせたという。この挿話は、昭和初期日本における国定教科書にも記載されていた。

    なお、詳しい時期は不明だが、無人は左目を負傷して失明している。その原因として、一説には、ある夏の日の朝、母の壽子が蚊帳を畳むため寝ている無人を起こそうとしたが、ぐずぐずして起きなかったので、「何をしている」とたしなめ、畳みかけた蚊帳で無人の肩を叩いた際蚊帳の釣手の輪が無人の左目にぶつかってしまったことによるという。後年乃木は左目失明の原因を明らかにしたがらなかった。失明の経緯を明らかにすれば母の過失を明らかにすることになるため、母も気にするだろうから他言したくない、と述べたという。」


    乃木希典
    乃木希典

    続いて見てみましょう。

    「 安政5年11月(1858年12月)父・希次は、藩主の跡目相続に関する紛争に巻き込まれ、長府(現・山口県下関市)へ下向するよう藩から命じられた上、閉門および減俸の処分を与えられた。無人もこれに同行し、同年12月(1859年1月)、長府へ転居した。

    安政6年4月(1859年5月)11歳になった無人は、漢学者の結城香崖に入門して漢籍および詩文を学び始めた。また、万延元年1月(1860年2月)以降流鏑馬弓術西洋流砲術槍術および剣術なども学び始めた。」


    流鏑馬(鏑流馬、やぶさめ)
    流鏑馬(鏑流馬、やぶさめ)
    弓術
    弓術

    しかし、依然として泣き虫で、妹にいじめられて泣くこともあった。文久2年6月20日(1862年7月16日)、集童場に入った。同年12月(1863年2月)、元服して名を源三と改めたが、依然、幼名にかけて「泣き人」と呼ばれ、泣き虫であることを揶揄された。

     元治元年3月(1864年4月)、16歳の源三は、学者となることを志して父・希次と対立した後、出奔して、長府(現・山口県下関市)から70km以上離れた萩(現・同県萩市)まで徒歩で赴き兵学者の玉木文之進への弟子入りを試みた。玉木家は乃木家の親戚筋であった。文之進は、源三が希次の許しを得ることなく出奔したことを責め、武士にならないのであれば農民になれと述べて、源三の弟子入りを拒絶した。しかし結局源三は玉木家に住むことを許され、文之進の農作業を手伝う傍ら学問の手ほどきを受けた

    元治元年9月(1864年10月)から、源三萩藩の藩校・明倫館の文学寮に通学することとなった。一方で、同年11月(同年12月)から一刀流剣術も学び始めた一刀流については明治3年1月(1870年2月)に、技術習得を意味する「目録伝授」されている。」


    松下村塾
    松下村塾

    ここまでを整理してみますと、乃木希助は、現代の小学校3年生のときに、東京から京都まで約500キロメートルを歩いて移動し、小学校5年生で、文学と同時に流鏑馬、弓術、西洋流砲術、槍術および剣術などの武術を習い、高校1年生の反抗期に家出して、あの「松下村塾」の創設者・玉木文之進に弟子入りを懇願その半年後に、明倫館に入学一刀流剣術を学び始めています♥ そして、この翌年に、四境戦争(しきょうせんそう)が始まります。

    明倫館

    「 元治2年(1864年)源三は集童場時代の友人らと盟約状を交わして、長府藩報国隊を組織した。
     
     慶応元年(1865年)、第二次長州征討が開始されると、同年4月(同年5月)、萩から長府へ呼び戻された。源三長府藩報国隊に属し山砲一門を有する部隊を率いて小倉口(現・山口県下関市)での戦闘(小倉戦争)に加わったこの際奇兵隊の山縣有朋指揮下で戦い小倉城一番乗りの武功を挙げた。しかし、そのまま軍にとどまることはなく、慶応2年(1866年)長府藩の命令に従い、明倫館文学寮に入学(復学)した。

     その後、報国隊越後方面に進軍して戦闘を重ねたが、これに参加しなかった。明倫館在籍時に講堂で相撲を取り、左足を挫いたことから、藩が出陣を許さなかったのである。 源三なんとしても出陣しようと脱藩を決意して馬関(現・山口県下関市)まで出たが、追捕され明倫館に戻された。」


    陸軍大輔時代の山縣(明治5年)
    陸軍大輔時代の山縣(明治5年)

    つまり、乃木希助は、現代の高校2年生のときに当時は虎の子の兵器だった大砲を率いる指揮官に抜擢されていて、山縣有朋のもとで小倉城一番乗りの「大手柄」を挙げているわけです♥

    ポイント 女性

    「 慶応4年1月(1868年2月)報国隊の漢学助教となるが、11月(1968年12月)には藩命により伏見御親兵兵営に入営してフランス式訓練法を学んだ。これは、従兄弟であり報国隊隊長であった御堀耕助が、源三に対し学者となるか軍人となるか意思を明確にせよと迫り源三が軍人の道を選んだことから、御堀が周旋した結果発令されたという。」

    ここで、乃木希典は、大学1年生のときに、漢学の助教になっています。頭が良かったわけです♥また、この年、元号が「明治」となり、「明治時代」が始まりました

    そして、次の進路を選択するに及んで、乃木希典学者ではなく「軍人の道」を選択したんです♥

    つまり、乃木希典は、「文武両道」の人物だったことが判りますね♥

    で、近代的な「軍人」になるための教育を受けに伏見に行ったんです♥ 現代でいえば、大学2年生のころになります。

    ポイント 女性 重要 5

    「 明治2年7月(1869年8月)、京都河東御親兵練武掛となり、次いで、明治3年1月4日(1870年2月4日)豊浦藩(旧長府藩)の陸軍練兵教官として、馬廻格100石を給された。

     そして、明治4年11月23日(1872年1月3日)大日本帝国陸軍少佐に任官し、東京鎮台第2分営に属した。当時22歳の源三が少佐に任じられたのは異例の大抜擢であったが、これには、御堀を通じて知り合った黒田清隆が関与したとみられている。乃木は少佐任官を喜び、後日、少佐任官の日は「生涯何より愉快だった日」であると述べている。」


    榎本武揚助命のため剃髪した黒田清隆(左)
    榎本武揚助命のため剃髪した黒田清隆(左) 

    黒田清隆は、薩摩藩士で、のちに陸軍中将、また、大日本帝国憲法発布時第二代内閣総理大臣でもあった人物です♥

    黒田清隆
    黒田清隆

    「 明治4年12月(1872年1月)正七位に叙された源三は、名を希典と改めた。その後、東京鎮台第3分営大弐心得および名古屋鎮台大弐歴任し、明治6年(1873年)3月越前護法大一揆鎮圧に出動する。同年明治6年6月25日には従六位に叙される。」

    いかがでしょうか?

    デタラメな物書きだった司馬遼太郎が、軍事的基礎教育はほとんど受けていないと強調している乃木希典本当の正しい人物像が御理解いただけましたでしょうか♥

    文武両道に秀でた人物であったからこそ、乃木希典は、誰の追随も許さず出世街道まっしぐらに昇進していったわけです♥

    むしろ、司馬遼太郎が描く乃木希典の姿は、「司馬遼太郎自身」の情けない姿のように思えますね♥

    史実を踏まえない愚書しか書けず、しかも、軍隊経験も1年そこらで無能司馬遼太郎。まさに、司馬遼太郎が描く乃木希典像と同じですね♥

    さて、さきほどの「黒田清隆」については、明日、もう一度取り上げさせて頂きますが、本日の最後に、大変参考になる歴史ブログをつくられている黒田裕樹さんの動画をご紹介させて頂きます♥ どうぞご覧ください。





    続きは次回に♥




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    Category: 国史
    Published on: Wed,  19 2016 00:02
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