没後20年 司馬遼太郎の「デタラメ」が暴かれる ~ 世界的名将を祀る乃木神社

    乃木神社
    乃木神社(のぎじんじゃ)は、東京都港区赤坂八丁目にある神社。乃木希典将軍と乃木静子夫人を祀る

    乃木神社(東京都港区)一の鳥居
    乃木神社(東京都港区)一の鳥居

    乃木夫妻明治天皇大葬の日自刃した邸宅の隣地である。旧社格は府社。現在は神社本庁の別表神社。

    自決当日の乃木夫妻
    自決当日の乃木夫妻

    大正2年(1913年)、東京市長だった阪谷芳郎が中心となって、乃木希典を敬慕する人々による中央乃木会を設立し、大正8年(1919年)、当社の創建を申請・許可され、大正12年(1923年)11月1日に鎮座祭が行われた。設計は大江新太郎が手掛けた。昭和20年5月の東京大空襲で焼失したが、新太郎の息子・大江宏の設計で昭和37年に復興した。昭和58年(1983年)には宏の長男・大江新と三男・昭によるコンクリート造の宝物殿が建てられ、焼け残った新太郎設計の手水舎と合わせて親子3代に渡る建築家の作品が一堂に会す。

    乃木神社 2
    乃木神社 公式HP






    戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。

    そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

    私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、

    客観的に情勢を判断する必要があります。

    それでは、この書物を見ていきましょう!




    『 戦前【世界的名将】として広く【日本国民はもちろん、全世界の人々から尊敬されていた乃木大将】が、

    乃木希典 2
    乃木希典 (のぎまれすけ)

    【戦後一転して愚将と言われる】に至ったのは、…戦前においても、【一部の者の中に存在】した「乃木大将は立派な軍人であったが、戦(いくさ)は下手だった」という評価が、【戦後になって、マスコミの時流に乗った人気作家の著作によって爆発的に喧伝されたから】である。

    ポイント 女性 重要 5

    司馬遼太郎
    マスコミの時流に乗った司馬遼太郎

     このために現在においては有名無名を問わず、【乃木大将を語り、日露戦争を論ずるものはすべて皆、この先入観から抜け切れないのが実状】ではないだろうか。

    ポイント 女性

     確かに【戦前の陸軍大学校の戦史教育】において、【乃木大将を不当に低く評価した教官】のいたことは事実である。こういう教育のためか、旧陸軍将校の中にも「乃木大将なんかたいしたことはない」と公言して憚(はばか)らなかった人間がいたことも事実である。

     しかしながら、これらの【乃木大将に対する軽蔑中傷の多くは、乃木大将の名声に対する嫉妬か、長州閥に対する反感】(乃木大将は山口県(長州)出身で、明治時代に山口県出身者が陸軍部内で羽振りを利かしたが、これに対する反感から、大正末期から昭和初期にかけて逆に山口県出身者が排斥された時期があった)から出たもので【まことに取るに足らぬもの】である。

    ポイント

    こういう【乃木大将を戦下手とする連中】に対して、具体的に大将のどこが下手だったか【問い質(ただ)したとき、明確に答えられるものが一人もいない】ことも事実である。…

    ポイント 23

     いま静かに古今東西の戦史戦例をひもとき、乃木将軍のたどった戦跡と比較検討するとき、いまさらながら【乃木将軍の偉大さが、しみじみと感じられる】のである。

    乃木希典
    乃木希典

     【名将】とは、【変転する戦況】の中で、よく状況の【本質を捉え】決断を下すべきときに【真に適切な決断を下す】ことができた将師である。

    『ニーヴァ』誌に掲載された乃木の挿絵
    『ニーヴァ』誌に掲載された乃木の挿絵

     乃木将軍がその全生涯において遭遇した幾多の戦いにおいて、いかなる決断を下し、いかなる処置を講じたかを検討して、【乃木将軍の名将中の名将たるゆえん】を明らかにしていきたい

    二銭切手
    二銭切手

     つらつら思うに、【旧陸大の戦史教育の誤りが日本陸軍の敗戦をもたらした】ものと言っても決して過言ではない。

    ポイント 女性

    本書の中においても具体的にこの点にふれているが、【その陸大の教材を基にして書かれた】と思われる【司馬遼太郎氏の乃木希典(まれすけ)観】が一世を風靡しているのが、今日の現状である。

     しかし一度本書をひもとかれた方は、【司馬氏の著述】いかに【事実を誤解し、偏見独断に満ち満ちたもの】であるかを、容易に了解されるものと確信する。

    ポイント 22

     いずれにせよ【本書によって、乃木将軍に関する真の史実が後世の国民に伝えられることができる】としたら、筆者にとってこれ以上の喜びはない。』

    日の丸

    いかがでしょうか?

    この書物を読み進めていきますと、清々しく気持ち良いぐらいに司馬遼太郎の唱える「嘘」白日の下に晒されていきます

    今年は、「嘘吐き」のデタラメ作家、司馬遼太郎死んでくれてから、ちょうど20年目になります♥

    余談ですが、こんなイベントも行われるようで。。。

    司馬遼太郎展

    しかも、最初の巡回地が北九州市ですから、ほんとに嫌らしいですね♥

    北九州市小倉は、乃木希典官軍として赴任した地で、のちに「秋月の乱」「西南戦争」で、その才能を遺憾なく発揮するところとなります。

    小倉赴任時居宅跡の碑
    小倉赴任時居宅跡の碑

    ぜひ、司馬遼太郎展に、「本書」の展示もして頂きたいものですね♥

    「 ここで一つ、例を挙げましょう。今日でも国民的な人気を誇る作家の故・司馬遼太郎さんにまつわる話です。司馬さんが書いた『歴史の中の日本』という本に収録されている話ですが、戦争中、戦車第一連隊に所属する下級将校であった司馬さんは、昭和20(1945)年の初夏、満州から本土決戦のために栃木県佐野に移動しました。そのときの話を書いています。

     ある日、大本営の少佐参謀が彼の部隊に来たのですが、同じ連隊のある将校がこの参謀に質問します。

    「我々の連隊は、敵が上陸すると同時に南下して敵を水際で撃滅する任務をもっているが、しかし、敵上陸とともに、東京都の避難民が荷車に家財を積んで北上してくるだろう、当然、街道の交通混雑が予想される。こういう場合、わが八十輌の中戦車は、戦場到着までに立ち往生してしまう。どうすればよいか」

     これに対して、この大本営の少佐参謀が、ごく当たり前な表情で、

    「轢(ひ)き殺してゆく」

    と答えたというのです。

     しかし、実はこの話はあとで「かなり根拠が曖昧」だったことが明らかになっているのです。

     これについては、歴史家の秦郁彦氏が、戦争中に、やはり戦車連隊の中隊長であり、戦後は防衛庁の戦史編纂官となった近藤新治氏(元陸軍大尉)との対談で明らかにしています(『増刊・歴史と人物』中央公論社、昭和58年8月号収録)。

    近藤 「あの話は、われわれの間で大問題になったんです。司馬さんといっしょの部隊にいた人たちに当ったけれど、だれもこの話を聞いていない。ひとりぐらい覚えていてもいいはずなのですがね。」

    秦 「もっとも、無理に住民の中へ突っ込めば、大八車なんかもあるし、戦車のキャタピラの方が壊れてしまうのではないかという意見もありますがね。」

    近藤 「当時、戦車隊が進出するのには、夜間、4なり5キロの時速で行くから、人を轢くなどということはまずできなかったですよ。夜光虫をビンに入れて背中にかけた目印の兵が戦車の前に立ち、それの誘導でノロノロ進むのです。轢き殺して行けと言ったとしたら、その人は、戦車隊のことがよく分かっていないのではないですか。」

    秦 「夜光虫とはおどろいた。」

    近藤 「これが、まっすぐ見たら見えないんです。少し横から見ると見える、ですからそういう訓練もしましたね。」

     実は、私の友人でもあるジャーナリストの丸谷元人(まるたにはじめ)氏も、学生時代に戦史関連の国際会議で近藤新治氏の通訳をしたことがあり、その会議の休憩時間に、ご本人に直接この逸話を聞いたそうです。

    そのとき近藤氏は、

    「あの発言をしたという少佐参謀は、私の士官学校の先輩で、とても朴訥(ぼくとつ)な方であり、絶対にそんなことを言う人ではなかった」

    と、おっしゃったそうです。そして、以下のように話されたと言います。

    「その後、『朝日ジャーナル』か何かが、この問題を取り上げて、私と司馬さんの対談をセッティングしてくれました。そこで私は司馬さんに向かって、『なんであんなことを言うのか。あの参謀は私の先輩だし、あなたの周りにいた将校も、誰ひとりそんな発言は聞いていない』と言ったんです。そうしたら司馬さんはニヤリと笑って、『近藤先生は学者ですなあ』とだけ言ったんですよ。『私は小説家だから』という意味なのかもしれませんが、結局その対談企画はなぜかボツになってしまって、出版されることはありませんでした」

     司馬遼太郎ファンの皆さんにはショックかもしれません。しかし残念ながら、戦前の昭和日本を痛烈に批判する司馬さんも、結局は、戦後のGHQ史観を推進するうえで、実はとても役に立ったのだろうなと感じざるを得ません。

     当時の司馬さんは国民的な人気作家でしたから、マスコミもそんな話は伏せたかったのでしょう。ここにも、マスコミが中立などではなく、真実さえ隠蔽してしまう姿が現れています。

     ちなみに、元首相の菅直人氏は、前述の「戦車で轢き殺せ」とする司馬さんの発言をよく引用するのですが、それには理由があります。

     菅氏を政治家へと引き上げた最大功労者の一人が、司馬さんであるからです。このことは、前田和男氏が書いた『民主党政権への伏流』(ポット出版)という本に詳しく書かれています。

     かつて無名の若手運動家にすぎなかった菅氏を政治家に引き上げたのは、旧社会党の江田三郎でした。

     江田は、売れていなかった頃からの司馬さんの熱烈なファンでしたが、あるとき、社会党を割って出る際に司馬さんに相談します。そのとき、司馬さんは、

    「世間では江田さんは『老兵』です。この決起を成功させるには、自分の子供か孫くらいの若者と組まなければダメです」

    と言い、当時は無名であった東京在住の菅氏を引っ張り上げたのです。

    ですから、菅氏とすれば、司馬さんがいたおかげで国会議員から首相にまでなれたわけです。今でも熱心なファンであるということも頷ける話です。

     それにしても、こんな「根拠の怪しい証言」を、いまだに首相経験者や、毎日新聞のような大手新聞が取り上げて、「日本軍=悪」というイメージをつくりあげようとしていることに、ある意味では恐ろしささえ感じてしまいます。」


    詳しくはこちらをご参照♥

    アメリカがつくった「日本共産党」 ~ 今でも利用されている左翼・リベラルな人々



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    続きは次回に♥




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    Category: 国史
    Published on: Tue,  18 2016 00:02
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    2 Comments

    ゆずりはん  

    戦下手の乃木

    人柄は良かったが、戦では正に無能だった。
    無能な部下の伊地知を使い続けた結果多くの日本兵を見殺しにした罪は重い、だから殉死をした。
    児玉源太郎が居なければ203高地は落ちていなかった。

    2017/03/17 (Fri) 07:48 | EDIT | REPLY |   

    みっちゃん  

    Re: 戦下手の乃木

    ゆずりはん、こんにちは^^

    全然間違った御認識ですね。無能なのは「海軍」ですよ。
    それが理解できるようになると、隠されているものが見えてきますよ。

    児玉源太郎が居なければ203高地は落ちていなかった。⇒ いえいえ、そもそも乃木希典がいなければ無理でした(笑)旅順港に敵艦船を逃してしまったのは「海軍」の大失態ですね?だから、旅順攻略にも苦戦したわけですね?補給戦を断つことが出来なかったですし。しかも、敵艦船に搭載されていた大砲がすでにはずされて要塞に持ち込まれているにもかかわらず、ビビって攻撃しなかったんですよね?もちろん、そんな事実はご承知だと思いますが。

    もう少しヒントを差し上げましょうか?

    ハワイ攻撃で、なぜ占領しなかったのでしょうか?
    なぜ、あんな遠方にまで無謀な戦いに行ったのでしょうか?
    なぜ、たったの6カ月で壊滅的打撃を受けた責任を、海軍は誰かとったのでしょうか?

    陸軍と協力してフィリピン方面を確保する方、そしてそこから本土までの補給線を確保すること、これが本当に海軍がやらなければならなかった事でしょ?いたずらに戦線を拡大した海軍、そして、ことごとく失態を繰り返す海軍、これが歴史の示しているところです。

    そして、もし、その海軍上層部に、敵方と内通している人物がいたら・・・すると、どうでしょう。すべてのお話が繋がってくるはずですよ♥ 東京裁判で裁かれたのは「陸軍」だけですし。

    もう少し、お勉強をなされた方が良いかもしれませんね♥

    これからも、宜しくお願い致しま~す☆彡

    2017/03/17 (Fri) 15:53 | REPLY |   

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