日本の王道を描いた物語

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    画像はこちらのサイトからお借り致しました♥⇒平和台公園・はにわ公園・平和の塔(宮崎県宮崎市)

    一霊四魂(いちれいしこん)とは、心は天と繋がる一霊「直霊」(なおひ)と4つの魂から成り立つという日本の思想である。

    一霊四魂のもっとも一般的な解釈は、神や人には荒魂(あらみたま)・和魂(にぎみたま)・幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)の四つの魂があり、それら四魂を直霊(なおひ)という一つの霊がコントロールしているというものである。和魂は調和、荒魂は活動、奇魂は霊感、幸魂は幸福を担うとされる。

    四魂の名称は記紀などによるもので、『日本書紀』の「神功皇后摂政前紀」には新羅征討の際に神功皇后に「和魂は王身(みついで)に服(したが)ひて寿命(みいのち)を守らむ。荒魂は先鋒(さき)として師船(みいくさのふね)を導かむ」という神託があったとある。また、神代には、大国主命のもとに「吾(あ)は是汝(これいまし)が幸魂奇魂なり」という神が現れ、三輪山に祀られたとある。『古事記』では、神宮皇后が、「墨江大神(すみのえのおおかみ)の荒御魂」を国守神(くにもりのかみ)として新羅に祀ったとある。




    戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。

    そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

    私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、

    客観的に情勢を判断する必要があります。

    それでは、この書物を見ていきましょう!




    『 宮崎市の高台、平和台公園「平和の塔」が建っている。

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    神事で用いる御幣(ごへい)の形に模して石柱を連ね、高さ36・4メートル。

    御幣
    御幣

    昭和15年【皇紀2600年を記念】して建てられ、十銭紙幣に描かれるほど親しまれた。

    八紘之基柱竣工式
    八紘之基柱竣工式

    十銭紙幣
    十銭紙幣

     戦前名称も異なった。【「八紘之基柱」(あめつちのもとはしら)】カムヤマトイハレビコノミコト、後の【初代神武天皇が日向から東征し、大和に橿原宮(かしはらのみや)を造営した際の言葉が基】になっている。

    月岡芳年「大日本名将鑑」より「神武天皇」。
    月岡芳年「大日本名将鑑」より「神武天皇」

    「六合(りくがふ)を兼ねて都を開き、八紘(はちくわう)を掩(おほ)ひて宇(いへ)と為さむこと、亦(また)可(よ)からずや」

     日本書紀にそうある。四方の国々を統合して都を開き、天下を覆ってわが家とすることははなはだ、良いことではないか、という【国造り宣言】である。

    神武東征

     この故事に基づいて、塔の四隅には【神武の四面性を示す像】が配された。【荒御魂(あらみたま/武人)、和御魂(にぎみたま/商工人)、幸御魂(さちみたま/農耕人)、奇御魂(くしみたま/漁人)】である。

    一霊四魂の概念図
    一霊四魂の概念図

    このうち【荒御魂像は終戦で削り取られた】。軍国主義を憎んだ【GHQ(連合国軍総司令部)の指示】だった。

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     荒御魂像昭和37年市民らの要望で復活した。ただ【大切な故事が抜けていた】

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    像が持つ楯に描かれていた【八咫烏(やあたがらす)】が、鳥とも鶏とも見える不思議な絵に変わっていたのである。

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    画像はこちらからお借り致しました♥ ⇒やっぱりロケットではなかった!平和の塔の内部はこうなっている。



    【三本足ではないので、八咫烏ではない】ことは間違いない。復元に当たった職人が、【東征の故事を知らなかったためのミス】です」

    八咫烏
    八咫烏

     塔の案内をする宮崎市神話・観光ガイドボランティア協議会副会長の湯川英男氏はそう話す。【八咫烏は、イハレビコを熊野から吉野まで導いた高天原(たかまがはら)の使い】で、今でも【日本サッカー協会のシンボル】になっている。この故事さえ知らない日本人が増えたことを、新たな像は示している。

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    東征は実は軍事行動だけではなく、【3つの文明・文化を伝播する旅】でした。【稲作と鉄器、そして灌漑技術】です」

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     宮崎県延岡市の情報サイト「パワナビ」の黒田健編集長はそう話す。黒田氏は宮崎市などが3年前、東征ルートをたどるキャンペーンを計画した際、イハレビコゆかりの地200カ所以上を踏査した。

    「たとえば【今は無人の島の海岸近くに井戸】を掘ったりしていて、その【技術の高さ】に驚きます【東征は道々の人々の生活を変えていく旅】だったと思います」

    神武東征ルート
    神武東征ルート

     古事記では16年間、書記では6年間かかったとされる東征は、【建国神話にふさわしい内容】になっている。そう指摘するのは立正大の三浦佑之教授である。

    イハレビコは太陽の御子だが、苦難の旅を続け、各地の民と葛藤しながら、成長しながら国の中心部を目指す。敵対者が現れた時には援助者が現れ、道を開いてくれる。【まさに、王道を描いた物語】だと思います」

    ポイント 女性

     三浦教授は、【神武天皇誕生で日本の神話は完結する】と読む。【神代と人代をつなぐ存在がイハレビコ】なのである。

    八咫烏に導かれる神武天皇(安達吟光画)
    八咫烏に導かれる神武天皇(安達吟光画)

    「現存する神代の絵姿を見ると、明治天皇に似ているものが多い。明治維新の近代国家造りが、建国の神話と重ねやすかったためでしょう」

    高橋由一 『明治天皇』
    高橋由一 『明治天皇』

     近代日本のスローガン【富国強兵、殖産興業】。この文言は、【「平和の塔」の四魂(しこん)像と全く同じバランスで構成】されている。商工人農耕人漁人がいて武人がいる。【4分の3は国民を豊かにする人、する言葉】なのである。

    想う 女性 読書

     【神武の国造りの精神は現代にも通じる】。戦後70年。忘れられた東征の物語を追ってゆく。』

    日の丸

    いかがでしょうか?

    昨日も、池上彰を事例にご説明させて頂きましたが、戦後の「社会科」教育によって、私たちの日本の歴史歪めようとしている連中がいます♥

    ポイント 22

    池上彰 108 池上彰 101

    詳しくはこちらをご参照♥

    新しい祝日 山の日(8月11日)の楽しみ方 ~ 池上彰の本がお勧めできないワケ

    池上彰の本を読んではいけない理由 ~ 教科書って、本当に正しいの?

    池上彰が知らない「神武東征」 ~ 教科書と「古事記」や「日本書紀」のどっちが正しいのでしょう? ~ 



    歴史を歪める「ハリウッド」



    そういった連中は、私たちの日本は、「朝鮮半島経由で大陸から技術や文化を学んだ」みたいな「一方通行」的な思考に凝り固まっています

    ポイント 女性

    それは、「学校でそう習ったから」からなんですけど♥

    たとえば、誰もが知っている、この「ラクダ」

    ラクダ

    現在の生息地は、こんな感じです。

    ラクダの生息域
    ラクダの生息域

    でも、もともとのラクダの生息地は、現代では海で隔てられているアメリカです♥



    「ラクダは砂漠にとてもよく適応しているので、他の場所で暮らす姿など想像できません。でも、ラクダに対する見方が完全に間違っていたとしたらどうでしょう?あの大きなこぶも、足や目も、別の時代の違う気候に適するように進化していたとしたら?ラジオ番組『Radiolab』のラティフ・ナサーが語るのは、とても小さな奇妙な化石によって、彼のラクダに対する見方と世界観が一変するまでの驚くべき物語です。」

    ラティフ・ナサー: あなたの知らない、ラクダの本当の故郷

    つまり、現代の世界で、ラクダが砂漠の国に住んでいるからといって昔からずっと砂漠の国の生き物だったとは言えないんです♥

    現代では海で隔てられているからといって全くの別世界だったわけではないんです♥

    このことは、動物だけではなく、私たち人類も同じです♥

    人類

    「 『古事記』と『日本書紀』はそれぞれ異なるやり方で、一方はより文学的に、他方はより学問的に、世界神話のあらゆる大きな主題を、比類のない技法でつなぎ合わせています。そしてこれらの神話は、そのなかで少しずつ歴史に溶け込んでいるのです。そこに日本文化が提起する基本的な問題があります。広大な大陸のはずれで周縁的(マージナル)な位置を占め、長いあいだの隔離を経験していながら、同時にその最古のテクストが、他の地域では散逸した状態でしか見出せない諸要素この上なく洗練されたやり方で綜合できたことを、どのように説明したらよいのでしょうか。

     問題は、旧世界だけに限られたものではありません。これらの古い文献に見出される神話的な多くの主題やモチーフは、アメリカ大陸にも存在するのです。けれども、この点に関しては慎重を要します。アメリカ先住民と古い日本に共通するすべての主題は、インドネシアにもあり、そのいくつかのものはこの三地域にしか認められないのです。この三地域の神話細部にいたるまで一致しているので、個別に考え出されたという仮説はただちに排除できます。

     それなら、これまでにもやって来たように、これらの神話の単一の起源を探す努力をすべきでしょうか。インドネシア、あるいは日本の神話が、独立に二つの方向に旅をしたのか、あるいはインドネシアを出たこれらの神話が、まず日本にもたらされ、次いでアメリカに渡ったのでしょうか。

     宮城県での最近の発掘によって、4万年から5万年前のものとされる石器の一群が見つかり、人間が居住していたことが明らかになりましたが、北方に位置することを考えると、旧世界から新世界へと移動する通過地域にあたっていたのかもしれません。忘れてはならないのは、大氷河期のあいだ、そしてそれより後の、およそ1万2千年から1万8千年前の時代には、日本は何度もアジア大陸とつながっていたということです。そのころ日本は、北に向かって彎曲(わんきょく)した長い岬だったのです。この時期にはマレー半島つまり一方では台湾とオーストラリアのあいだ他方ではニューギニアとマレー半島のあいだの島々の大部分は大陸とつながっていました。さらに、およそ1千キロメートルの幅の陸地が、現在のベーリング海峡にあたる地域で、アジアとアメリカを結んでいたのです。

     大陸の縁(へり)で、地球上の大通りともいうべき場所が、人やもの思想を自由に行き来させていたのです。それはインドネシアから中国沿岸部、朝鮮、満州、北シベリアを経て、アラスカまで達していました。先史時代のさまざまな時期に、この広大な複合体は、両方向への人々の移動の舞台になっていたに相違ありません。ですから、起源地を探すのは、やめにした方がよいでしょう。おそらく神話が共通の遺産をなしていて、その断片を、あちらこちらで私たちは採録しているということなのでしょう。」


    詳しくはこちらをご参照♥

    日本列島の誕生 ~ 日本、インドネシア、アメリカ大陸に共通して残っているもの 



    御覧のとおり、世界中にある神話の中で、「あらゆる大きな主題」を繋ぎ合わせてひとつの大きな物語にしているのが、私たち日本の『古事記』や『日本書紀』なんです♥

    そして、『古事記』や『日本書紀』に見られる「多くの主題やモチーフ」が、「アメリカ大陸にも存在」しているんです♥

    さらに、「アメリカ先住民と古い日本に共通するすべての主題」が、インドネシアにもあって「この三地域にしか認められない」ものがいくつかあるんです♥

    長い歳月を経て双方向で行き来していた、交流があったと考える方が自然なんです♥

    決して、隔離された別世界なんかではなく、その往来は「一方通行」ではないはずですね♥

    ポイント 女性

    池上彰のように、私たちの日本が、「朝鮮半島経由で大陸から技術や文化を学んだ」みたいな「一方通行」的な思考に凝り固まってしまうのは、戦後の教育で習ってきたこと「丸暗記しているだけ」だからです♥

    池上彰 108

    わかりやすい事例が、「遣唐使」や「遣隋使」です♥

    「一方通行」であったかのように教育されてきた典型的な例です♥

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    「 奈良東大寺大仏殿南西にある正倉院は、高床式校倉(あぜくら)造りの壮大な倉庫で、聖武天皇と光明皇后の御物を納める、文化財の宝庫です。 その御物には唐や西城、さらに遠くペルシャから渡ってきた品々が数多く含まれています。そこから正倉院を「シルクロードの東の終点」といったりします。この呼び名には間違いはありません。確かに多くの文物が大陸から直接に、あるいは朝鮮半島を経て日本に流れ込みましたしかしそれだけなのでしょうか日本から向こうに渡っていったものないのでしょうか

     日本のこの時代に対する歴史観には、日本は文化が遅れていて中国や朝鮮に学び向こうの文化を取り入れて発展してきたという観念抜きがたくあります特に戦後この見方が浸透しました。

     その代表例遣隋使、遣唐使です。推古天皇十五(607)年に小野妹子が遣隋使として派遣されました。遣唐使の最初の派遣は舒明(じょめい)天皇二(630)年です。以後、途中で船が難破したりしているので数え方にもよるのですが、いずれにしろ日本からたびたび唐に出かけて向こうの進んだ文化を学びそれによって日本は発展したという文脈で語られています

     しかし事実はまったく違うのです。


    ポイント 女性

     たとえば小野妹子の遣隋使のときです。こちらから行っただけでなく随からも裴世清(はいせいせい)をはじめ位の高い役人などが32艘もの船を連ねてやってきていますいわば「遣日使」です。

     唐の時代になると、さらに頻繁に日本にやってきていますその人数がまたすごいのです。

     たとえば、天智天皇八(669)年には2千余人が来ています天智天皇十(671)年にも2千人来日、という具合です。ほかにも、当時新羅は日本に高い関心を抱いていたようで、三十数回も来ています

     いまの中国の満州から朝鮮北部、そしてロシアの沿海州まで版図を広げた渤海という国がありましたが、ここからも33回来ているのです。遣隋使、遣唐使よりも遣日使のほうがはるかに多かったのです。

     では彼らは何のために日本にやってきたのでしょうか

     ほかでもありません。日本の文化を摂取するために来たのです。経済的には日本の産出する銀、絹などの高い需要がありました。八世紀後半になると日本は金も産出するようになり、日本への関心はさらに高くなりました。文化的には日本の仏教、それに聖徳太子の思想を学ぶということもありました。

     鑑真(がんじん)が日本への渡航に5回も失敗し、6度目にようやくたどり着いた話は有名てすが、鑑真がなぜこれほど日本に執着したのか。聖徳太子の思想をはじめ日本に定着している仏教を高く評価していたということが根底にあるのです。鑑真だけではありません。インド人ヴェトナム人ソグド人の僧日本の仏教を学びに来ています。」


    詳しくはこちらをご参照♥

    遣隋使や遣唐使よりも、はるかに多かった「遣日使」



    それでは本日の最後に、最新の研究成果で判明した、現代科学が指し示す私たち日本人の祖先について見てみましょう♥

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    「 縄文人はアジアの“古株” 2万~3万年前には出現か

    縄文人は、東アジアや東南アジアに住み着いた共通の祖先から最も早く枝分かれし、約2万~3万年前には出現していた可能性があるとの研究成果を、総合研究大学院大学などのチームが専門誌に発表した。

     人類アフリカからユーラシア大陸の東方へ進出した際に、縄文人につながる集団が現れたと考えられるという。チームの斎藤成也・総研大教授は「縄文人ユーラシア大陸の他の集団と比べても非常に特異だといえる」としている。

     チームは、福島県北部にある三貫地貝塚で発掘された約3000年前の人骨を基に調査した。人骨の奥歯からDNAを抽出し、その配列を解析。東京周辺にいる現代の日本人や中国人、アフリカ人や南米の先住民など世界各地の集団と比べた。

     その結果縄文人東ユーラシア大陸の集団に近いものの、その中では遺伝子的に大きな差があることが判明東ユーラシアの中では早い段階で出現したことが分かった約1万5000年前アジアからベーリング海峡を渡ったとされるアメリカ大陸の先住民よりも前に現れたとみられる。」


    縄文人はアジアの“古株” 2万~3万年前には出現か

    このお話については、明日、もう少し詳しくさせて頂きます♥



    続きは次回に♥




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    Category: 国史
    Published on: Tue,  27 2016 00:01
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