うたかたの恋 ~ オーストリア皇太子のミステリー「マイヤーリンク事件」

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    『うたかたの恋』(うたかたのこい、原題:Mayerling)は、フランスの作家クロード・アネ(Claude Anet)の小説である。
    オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子ルドルフと男爵令嬢マリー・ヴェッツェラの心中事件通称「マイヤーリング事件」を基に、1930年に書かれた小説

    なお、実際のルドルフとマリーの関係や事件の真相については諸説ある





    戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。

    そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

    私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、

    客観的に情勢を判断する必要があります。

    それでは、この書物を見ていきましょう!




    『 オーストリア国民(16歳以上1012名)を対象にした対日世論調査(2013年日本の外務省実施)では、「日本は信頼できる国か」との問いに【70%が「信頼できる」と回答】。逆に「信頼できない」と答えたのはわずか9%なので、【圧倒的な信頼感】といえる。「オーストリアにとって日本との友好関係は重要か」では、予想を超える【77%もの人が「絶対に重要」あるいは「重要」と回答】した。

    オーストリア 対日世論調査
    オーストリアにおける対日世論調査

     また「日本人の良い面」は、「勤勉(86%)」「伝統・文化を大切にする(71%)」「創造力がある(40%)」が上位を占めた。他方、「関心のある日本の文化・芸術」では1位が盆栽(38%)で、2位の空手や柔道など武道(28%)を上回った。アルプスを擁する森林の国の人々は、緑に関心が高いようだ。

    オーストリア 対日世論調査 2
    オーストリアにおける対日世論調査

     そういえば日本に造詣の深かった【フランツ・フェルディナンド】も、ウィーンに日本庭園を造らせたことがあった。

    シェーンブルン宮殿の日本庭園
    シェーンブルン宮殿の日本庭園

    シェーンブルン宮殿
    シェーンブルン宮殿

    「シェーンブルン宮殿(シェーンブルンきゅうでん)は、オーストリアの首都ウィーンにある宮殿。ハプスブルク王朝の歴代君主が主に離宮として使用した。現在、同宮殿と庭園群は世界遺産に登録されている。」

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    彼は、第一次大戦の引き金となった【サラエボ事件】で暗殺されたフランツ・ヨーゼフ一世の皇位継承者で、世界史の授業では「皇太子」と習った御仁だ。

    フランツ・フェルディナント
    フランツ・フェルディナント大公

     皇帝と皇妃エリザベート(通称シシィ)のひとり息子ルードルフ皇太子マイヤーリンクの狩猟で情死(一説には暗殺)すると、皇帝の実弟のカール・ルードヴィッヒが皇位に就くのを断ったため、その息子のフェルディナンドにお役目が回ってきたのだった。

    ルドルフ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン
    ルドルフ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン皇太子

     彼は第一皇位継承者となってから、後学のため世界一周の旅に出て、明治26年(1893年)8月の暑いさかりに日本に約3週間滞在している。本当はお忍びで遊行したかったらしいが、それも叶わず岸壁には歓迎の人々が待ち構えていた。船が長崎の港に近づくと日本軍の音楽隊がオーストリア国歌を奏で、返礼にオーストリア側も日本国家を演奏するという粋な計らいを見せた。この訪日でフェルディナンドは明治天皇・皇后両陛下に謁見して歓待を受けているから、オーストリアヨーロッパ諸国のなかでも最も早く皇室同士の交流がはじまった国でもある。

    新橋駅に到着したフランツ・フェルディナント大公を描いた日本の錦絵(楳堂小国政画)
    新橋駅に到着したフランツ・フェルディナント大公を描いた日本の錦絵(楳堂小国政画)

     このフェルディナンドの『日本日記』には、当時の日本の面積や人口、日本の軍艦の数・重量・馬力、艦砲や乗組員の数までことこまかに記述されている。また、木と紙でできている日本の家屋はなかが丸見えだと驚き、さらに女性が化粧し髪を結う姿まで観察している。彼は日本の急速な西洋化をむしろ残念がったようだが、「日本の清潔さと快適さに感動した」と書いている。そして、日本の少女「エヴェの娘たちの中で最も美しい」と、世界一の美女と称えている

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     だが、普通のオーストリア人日本文化と出会ったのは、これに先立つ【1873年開催のウィーン万博】のときだった。

    ウィーン万国博覧会(1873年)会場俯瞰図
    ウィーン万国博覧会(1873年)会場俯瞰図

    【日本政府としてははじめての万博参加】で、蒔絵(まきえ)漆塗り器三味線・琴・琵琶などを展示。パビリオンの建設には、日本から庭師や職人が準備のために渡墺(とおう)し、庭石石灯籠(いしどうろう)もある本格的な日本庭園が好評を博した。

    日本館。当時欧州は、ジャポニスムの最中であった
    日本館。当時欧州は、ジャポニスムの最中であった

    このとき、日本代表団として岩倉具視一行が約2カ年の欧州旅行中でウィーンを訪問し、皇帝主催の晩餐会でフランツ・ヨーゼフ一世妃エリザベータの隣の席に座ったとの記録がある。

    エリーザベト・アマーリエ・オイゲーニエ・フォン・ヴィッテルスバッハ(1867年)
    エリーザベト・アマーリエ・オイゲーニエ・フォン・ヴィッテルスバッハ(1867年)

    19世紀末【当時ヨーロッパで流行した“ジャポニスム”が、ウィーン万博を機にオーストリアにも波及】したことは、ウィーン分離派【グスタフ・クリムト】の作品にも見てとれる。

    グスタフ・クリムト
    グスタフ・クリムト

    オーストリアを代表する画家【クリムトは着物を蒐集(しゅうしゅう)するほどの日本びいき】で、尾形光琳の屏風(びょうぶ)絵に影響を受け、金箔花紋ちらし渦巻きなど【浮世絵と同じ手法】を用いている。

    『接吻』1908年 クリムト
    『接吻』1908年 クリムト

     一方、“画家の王”と呼ばれファッションも手がけた総合芸術家の【ハンス・マカルト】は、胸を露わにした西欧女性のモデルにかんざしと帯をつけさせて、『日本娘』というタイトルの絵を描いた。

    ハンス・マカルト 1884
    ハンス・マカルト 1884年

    『日本娘』ハンス・マカルト
    『日本娘』ハンス・マカルト

    また、デザイナーとしても有名な【コロマン・モーザー】『三人の女性の屏風』という絵を残している。』

    日の丸

    いかがでしょうか?

    19世紀のヨーロッパに、私たちの日本が与えた衝撃それがジャポニズムでしたが、このことについては、何度も書かせて頂いておりますので、そちらをご参照ください♥

    ヨーロッパ人が憧れる日本や日本人の素晴らしさ

    西洋近代絵画から物語性が消えたワケ ~ ジャポニズムの衝撃



    で、本日は、ルードルフ皇太子が情死したとされている「マイヤーリンク事件」について見てみましょう。

    ルドルフ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン
    ルドルフ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン皇太子

    以下はWikipediaからの抜粋です。

    「 ルドルフ・フランツ・カール・ヨーゼフ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(ドイツ語: Rudolf Franz Karl Joseph von Habsburg-Lothringen, 1858年8月21日 - 1889年1月30日)は、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の子で皇太子ハプスブルク=ロートリンゲン家の世継ぎとして周囲に期待されたが、父帝との反目や政治的対立などから孤立し、男爵令嬢マリー・フォン・ヴェッツェラと謎の死を遂げた(「マイヤーリンク事件」)。その死については、今もなお謎に包まれている。」

    マリー・フォン・ヴェッツェラ
    マリー・フォン・ヴェッツェラ

    「 1881年ルドルフベルギー王レオポルド2世の次女ステファニー(シュテファニー)と結婚し、1883年には娘エリーザベトが誕生していたが、性格の不一致は深刻なもので、2人の仲は冷え切っていた

    ステファニーとルドルフ
    ステファニーとルドルフ

    エリーザベト・マリー・ペツネック
    娘のエリーザベト・マリー・ペツネック

    結婚以前から、彼は貴族専門の娼婦や女優たちとの関係があったが、特にミッツィ・カスパル一番のお気に入りの女性であった。

    ミッツィ・カスパル
    ミッツィ・カスパル

    1888年末頃、ルドルフは16歳のマリー・ヴェッツェラと出会った。この出会いを仲介したのは、母エリーザベトのお気に入りだった従姉(エリーザベトの兄ルートヴィヒが一介の女優と貴賎結婚してもうけた娘)ラリッシュ伯爵夫人マリー・ルイーゼだった。

    マリー・ルイーゼ(左)
    マリー・ルイーゼ(左)

    「つやのない麦わらのような金髪はぼさぼさで、眉毛は薄く、正視に耐えなかった」と口の悪いラリッシュ伯爵夫人が語った皇太子妃シュテファニーの姿と比べて、マリー・ヴェッツェラ小柄の美しい娘であった。やがてルドルフはマリー・ヴェッツェラに惹かれ、教皇レオ13世に宛ててステファニーとの離婚を求める書簡を送った教皇は「不許可」と回答したが、これはルドルフにではなくローマ駐在の外交官を通じてフランツ・ヨーゼフ1世に返書が渡されたために一切が洩れてしまい、父帝の激しい怒りを呼び起こした。

    フランツ・ヨーゼフ1世(1865年)
    フランツ・ヨーゼフ1世(1865年)

    ルドルフドイツ帝国宰相ビスマルクに不信感を抱いていたため、帝国のドイツ頼みの政策を嫌っていたルドルフは、ロシアやフランスとの同盟を構想して、フランスには積極的に接近する一方、秘密裡にロシアにも赴いたことがあったが、これも新聞によって暴露されてしまった。

    オットー・フォン・ビスマルク
    オットー・フォン・ビスマルク

    1889年1月26日激怒した父帝ルドルフを呼びつけて叱責した。しかも、翌朝のフランツ・ヨーゼフ1世の書簡には「今宵のドイツ大使館のパーティには、プロイセン軍第一礼装で出席するように」と書かれていた。父帝は、新聞に暴かれた親仏・親露、反独疑惑を払拭するために必死だった。プロイセン軍の礼装を身に着けたルドルフは、「この軍服は僕には耐えられないほど重い」とこぼした。その日の午後、ルドルフウィーン郊外のプラーターの狩猟地に赴き、従姉のラリッシュ伯爵夫人に「明日、マリー・ヴェッツェラを連れてきてほしい。今頼れるのは彼女だけだ」と語った。警察諜報員ドクトル・フローリアン・マイスナーが、警察長官のフランツ・クラウス男爵に提出した報告書によると、ルドルフ最後の夜となった1889年1月28日月曜日に、彼はミッツィ・カスパルを訪ねている。彼は夜中の3時までミッツィの元に留まって何杯もシャンパンを飲み、管理人には口止め料として10グルデンを与えた。そしてルドルフは別れ際に、彼女の額に十字を切った。そしてそこからマイヤーリンクへ赴いた。」

    この当時の時代背景として、忘れてはならないのが、自由主義、いわゆる「リベラリズム」の台頭と、「共産主義」の誕生です♥

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    19世紀半ば、今から約150年前、この頃の世界の大国は、イギリスロシアフランスオーストリアプロイセン(のちのドイツ帝国)です♥

    そして、私たち日本との関係で言いますと、

    日本(江戸時代) VS イギリス、ロシア、フランス

    となっていた時代です。

    薩英戦争(1863年)下関戦争(1863年、1864年)もこの頃の出来事で、のちの大政奉還(1867年)へと繋がっていく時期です♥

    イギリス艦隊と薩摩砲台の戦闘
    イギリス艦隊と薩摩砲台の戦闘

    フランス海軍陸戦隊によって占拠された長府の前田砲台。
    フランス海軍陸戦隊によって占拠された長府の前田砲台

    この頃の、ヨーロッパにおける「リベラリズム」「共産主義」のその後の動きが、第一次世界大戦、そして大東亜戦争引き起こしていく根本的な原因となります♥ 世の中を混乱させたのがこの二つの思想だって言うことです♥

    詳しくはこちらをご参照♥

    映画 『宗家の三姉妹』 ~ 「中国人」を簡単に理解するための「パロディ映画」



    『最後の授業』 ~ 母国語を奪われたフランス人の感動的な物語



    ルドルフ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン
    ルドルフ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン皇太子

    「マイヤーリンク事件」の主役ルードルフ皇太子の思想についてみてみますと・・・

    以下はWikipediaからの抜粋です。

    「 母エリーザベトに代わって、厳格な祖母ゾフィーにより、ハプスブルク=ロートリンゲン家の方針に従って養育された。当初、祖母がルドルフに付けた教育係のレオポルド・ゴンドレクール伯爵は、鞭打ちや冷水シャワー、過酷な運動等の軍事教練まがいのスパルタ式教育を押し通した。精神と肉体を痛めつける教育の影響により、ルドルフ暴力的で神経過敏かつ虚弱体質の、恐怖心の強い子供となった。またルドルフ内気で意固地で事あるごとに自分の殻に閉じ籠った

    エリーザベト・アマーリエ・オイゲーニエ・フォン・ヴィッテルスバッハ(1867年)
    エリーザベト・アマーリエ・オイゲーニエ・フォン・ヴィッテルスバッハ(1867年)

     1865年、ゴンドレクールの教育の影響を憂いた母エリーザベトが公式に親権を取り戻すことを要請し、7歳以降のルドルフの教育方針は一転する。1867年に成立したオーストリア=ハンガリー帝国の思想基盤となったのは自由主義思想であるが、その思想を支えた政治家や教育関係者と親交の深かったエリーザベトが付けた教育係はヨーゼフ・ラトゥール・フォン・トゥルンベルクであり、彼が選抜した教師のほとんどが、多かれ少なかれ何らかの形で自由主義との関連を持っていた。このことが成人後ルドルフが自由主義を信奉し、自らの出自にもかかわらず貴族に対して批判的な態度を取ったことの原因である。また、ラトゥールはルドルフがその生涯を通して連絡を取り続けた、いわば精神的な「代父」であったと言える。成人後のルドルフが、今日もオーストリアで発行されているリベラル系新聞『プレッセ』紙の前身である『新ウィーン日報』編集長だったモーリッツ・ツェプスを通して、後にフランスの首相となったジョルジュ・クレマンソーの知遇を得るようになるのも、ラトゥールら自由主義者の手引きによるものである。」

    このように、母親エリーザベトからリベラリズムを教育されたんです♥

    ちなみに、このエリーザベトは、宝塚歌劇『エリザベート』でも有名ですが、1898年9月、旅行中のジュネーヴ・レマン湖のほとりで、イタリアのアナキスト(=「自由社会主義者」「自由共産主義者)のルイジ・ルケーニによって刺殺されてしまいます。

    ルイジ・ルケーニ
    ルイジ・ルケーニ


    エリザベート-愛と死の輪舞(ロンド)-

    さて、お話を元に戻しまして、「マイヤーリンク事件」の続きを見てみましょう。

    以下はWikipediaからの抜粋です。

    「 翌28日、ルドルフマリー・ヴェッツェラとともにマイヤーリンクの狩猟館に馬車で向かった。1月30日水曜日午前6時10分、彼の部屋から2発の銃声を聞いた執事が駆けつけた。しかし部屋は内側から施錠されており、執事は斧でドアを破って入った踏み込んだ先にはルドルフとマリーがベッドの上で血まみれになって死んでおり、傍らに拳銃が落ちていた。はじめ、事件は「心臓発作」として報道されたが、じきに「情死」としてヨーロッパ中に伝わり、様々な憶測を呼んだ。」

    ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ
    ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ

    「 事件から94年後の1983年3月11日、63年の亡命生活に終止符を打ってウィーンに戻った最後の皇后ツィタは、ルドルフの死が情死ではなく暗殺によるものだという告白を、ウィーンの大衆向けタブロイド紙『クローネン・ツァイトゥング』に行った。ツィタの夫である最後の皇帝カール1世は、フランツ・ヨーゼフ1世に暗殺の証拠を挙げられ真相を解明するよう命じられたが第一次世界大戦の勃発によりうやむやになったというのである。ツィタは次のように語ったが、真相はなおも明らかにはされていない。

    ①事件の直後、緘口令が敷かれたのは、暗殺と知りながらも事件に政府の要人が関係しているため、政治的波及を懸念したからである。

    ②皇太子の葬儀許可を教皇に打電したところ、教皇は拒否の返電を送った。しかし、皇帝が2回目に2千語もの暗号による電報を打電して説明すると、たちどころに許可が下りた。これは、当時のカトリックの教会法で自殺の場合葬儀を行うことは許可されていなかったため、自殺と伝えられた最初の時点では断られたが、2回目の時に自殺ではない旨を説明したためと思われる。

    ③マイヤーリンク近く在住の家具職人が、事件の2日後に室内の片付けを命じられたときに目撃したところでは、家具がひっくり返されており激しい争いの跡が見られ、壁にも弾痕・血痕の跡が著しくあり、銃声は言われるように2発ではなかった

    ルドルフの遺骸を見た皇室関係者の一人は「皇太子は黒い手袋をしていました。軍服なら白い手袋のはずです。しかも、黒い手袋のなかには綿がつまっていました。ルドルフの手が利かなくなっていたようです。」と証言した。また、別の皇室関係者が「現場に駆けつけた当局者の話」として「皇太子の右手は手首からサーベルで切断されていた」と語った。」


    ルドルフ皇太子の遺体 1889
    ルドルフ皇太子の遺体 1889年

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    それでは本日の最後に、「マイヤーリンク事件」を題材にしたクロード・アネ(Claude Anet)の小説『うたかたの恋』(原題:Mayerling)宝塚歌劇の動画をどうぞ♥



    続きは次回に♥




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    Category: 日本
    Published on: Wed,  21 2016 00:01
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