北里柴三郎の生き方 ~ これが私たち日本人の生き方なんです

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    偉人(いじん)とは、歴史に遺るような並外れて優れた人間のこと。偉人の『偉』は、「並外れる」「特別で優れる」「めったにない程に優れる」を意味する字である。対義語は凡人または庸人。

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    戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。

    そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

    私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、

    客観的に情勢を判断する必要があります。

    それでは、この書物を見ていきましょう!




    『 さて、日本の未来を担い、海外に出ていった日本人の中に、【北里柴三郎】がいます。【日本が誇る世界的な医学者】です。

    北里柴三郎
    北里柴三郎

     彼は33歳のときに、内務省衛生局からドイツのベルリン大学へ留学パスツールとともに、“近代細菌学の開祖”と称えられるコッホのもとで、研究に明け暮れました。

    ルイ・パスツール
    ルイ・パスツール
    ロベルト・コッホ
    ロベルト・コッホ

     朝、目覚めたら、まっすぐ研究室へ。1日が終わったら、まっすぐ自分の部屋へ。柴三郎はベルリン到着から1年余りも、自分の部屋と研究室を結ぶ道しか知らなかった、と言われています。

    ベルリン・フンボルト大学
    ベルリン・フンボルト大学

     柴三郎が毎日てくてく歩くのは、研究室へと向かう一本道。4年後、その一本道に、大輪の花が咲きました。

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     明治22(1889)年柴三郎は、【破傷風菌の純粋培養に成功】

    破傷風菌の電子顕微鏡写真
    破傷風菌の電子顕微鏡写真

    当時の細菌学の権威たちが挑戦して、ことごとく失敗に終わっていた破傷風菌の純粋培養に、極東の小さな島国医学後進国の日本からやって来た青年が成功したのです。

    北里柴三郎
    北里柴三郎

    破傷風による筋肉の発作で苦しむ人の絵(1809年チャールズ・ベル作)。最悪の場合背骨が折れることもある。
    破傷風による筋肉の発作で苦しむ人の絵(1809年チャールズ・ベル作)。最悪の場合背骨が折れることもある。

     続いて翌明治23(1890)年には、【破傷風菌に対する免疫抗体を発見】して、それを応用した【血清療法を確立】しました。血清療法というのは、菌体を少量ずつ動物に注射しながら、血清中に抗体を生み出す画期的な手法です。

    テルモ 血清 北里
    医療の挑戦者たち 31 血清療法の確立

     この血清療法をジフテリアにも応用しようと、柴三郎は同僚のベーリングとともに研究を重ね、論文も発表します。その功績により、柴三郎は、第1回ノーベル生理学・医学賞の候補にノミネートされるという、栄誉を得ました。

    エミール・アドルフ・フォン・ベーリング
    エミール・アドルフ・フォン・ベーリング

     残念ながらノーベル賞を受賞したのは、共同研究者のベーリングで、柴三郎の受賞は叶いませんでした。けれども、200年以上鎖国が続いた日本から、【開国して40年足らずで第1回ノーベル賞候補が出る】なんて、誰が予想できたでしょう。ノーベル賞は逃したとはいえ、柴三郎の功績は、なんら色あせることはありません

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     留学先であるドイツの政府も、柴三郎プロフェッソル(大博士)の称号を贈呈。この栄誉ある称号を外国人が受賞したのは、柴三郎が初めてでした。

    あっぱれ

     “世界の北里”となった柴三郎。彼の功績はもちろん素晴らしいのですが、私は、それ以上に、彼の生き方にシビれています。

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     明治30(1897)年弟子の【志賀潔】が、弱冠26歳で【赤痢菌を発見し世界を驚かせた】ときのこと。志賀潔は、自著『ある細菌学者の回想』の中で、こう記しています。

    志賀潔
    志賀潔

     「大学を出たばかりの若僧だったから、(北里柴三郎)先生の共同研究者というよりもむしろ研究助手というのが本当であった。しかるに研究が予期以上の成果をあげて論文を発表するに当たり先生はただ前書きを書かれただけで、私一人の名前で書くように言われた普通ならば当然連名で発表されるところである。発見の手柄若僧の助手一人にゆずって恬然(てんぜん)としておられた先生を、私はまことに有り難きものと思うのである」

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     実は、赤痢菌発見の快挙北里柴三郎との共同研究であり、むしろ志賀潔は研究助手であったというのです。その【手柄を、柴三郎は、すべて弟子のものにした】のです。

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    赤痢菌
    赤痢菌

     しかも、「恬然」とは、「平然」という意味です。つまり、【そのことを恩に着せることなど一切なかった】、ということでしょう。なんとも粋ですよね。

    キュン

     さらに明治32(1899)年、米国のフレキシナー博士が赤痢の調査研究のため来日した際、柴三郎は、通訳として【野口英世】を抜擢。この縁で、野口英世は24歳で渡米。野口英世の世界への道を切り開いたのも、柴三郎だったのです。

    サイモン・フレクスナー
    サイモン・フレクスナー
    野口英世
    野口英世

     そして大正6(1917)年柴三郎は【慶応義塾大学に医学部を創設】初代医学部長として迎えられます。その後十年余りの間、慶応義塾で医学教育の発展に尽くしますが、その間、【慶応義塾から何度報酬を受け取るように言われても、彼は頑として受け取らなかった】といいます。

    慶応義塾大学 医学部 HP
    慶応義塾大学医学部HP

     柴三郎は、なぜこれほどまでに見事な生き方ができたのでしょうか

    北里柴三郎 11
    北里柴三郎

     ここで、明治24(1891)年に話はさかのぼります。まだ柴三郎がベルリンにいた頃です』

    日の丸

    いかがでしょうか?

    この書物には、数々の日本の偉人についてのお話が、子供たちに語りかけるように、平易な口語体で書かれていて、非常に読みやすいです♥ 実際に、著者は学校に招かれ、講演も行われているようで、子供たちがその話を聞いて、涙を流して感動しているそうです。

    で、今回ご紹介させて頂いている部分は、北里柴三郎のお話です。お話自体は、次回にも続きますが、本日は本書では記載されていない偉人・北里柴三郎のお話を、もう一つご紹介させて頂きます。

    実は、この北里柴三郎は、黒死病(ペスト)の正体を、たったの2日で発見したんです♥

    Chevalier_Roze_à_la_Tourette_-_1720 ペストによって死屍累々となった街を描いたヨーロッパの絵画
    Chevalier Roze à la Tourette - 1720 ペストによって死屍累々となった街を描いたヨーロッパの絵画

    「 アメリカには何度か行った。…みんな親しみを込めた笑顔とよくわからないジョークで出迎えてくれた。親米派日本人を育成するフルブライトで行った人たちに聞いたら、みな同じ印象を語ってくれた。

    「そう、彼らは快活でとてもいい人たちだった」

     何度か客人で行った後、今度は特派員で行った。向こうに棲んで彼らの隣人になって生活を始めた途端、過去の旅では経験したことのない人種の壁にぶつかった。…

     彼らの意識は「白人・キリスト教徒・文明」の三位一体でてきている。「文明」のところには「寛容」でも「慈悲」でも何でも代入できる。対して日本人などは「有色・異教・野蛮」の三位一体になる。

     彼ら白人にとって何が腹立たしいかというと、日本人を観測していると「野蛮」のところに、ごく自然に「礼儀」とか「寛容」とかが入ってきてしまう。白人キリスト教徒がかなり苦労して演じてきたポーズを、日本人はなんのてらいもなく振る舞ってみせる。それがなんとも小面(こづら)憎く見える。

     彼らがそれを最初に意識したのは1894年香港ペスト(黒死病)が流行したときだと言われる。このとき日本から医療支援の一員として北里柴三郎が赴いた。そして、着いて二日後世界で初めてペスト菌を見つけた。死んだ鼠からも同じ菌を見つけて香港政庁に鼠の駆除を提唱した。その助言で香港ペスト禍は3カ月で終息した。

     欧米の医学界何世紀も追ってきた黒死病の正体日本人があっさり解明したことは、驚きと嫉妬で迎えられた。

     しかし文明は白人のものだ。彼らは仏人医学者が同じころ発見したことにして北里の栄誉をとった1960年代菌の学名に残っていた北里の名も消した日本はそれを荒立てもせず寛容で受け入れた

     そのペスト騒ぎがあった年、日本は清と戦争を始め、清の独製大型戦艦を小さな海防艦で沈めた。その数年後の義和団の乱では柴五郎らが知謀と強さを披露し、鎮圧後には【独露の軍隊が略奪に走る中、北京市民を庇護(ひご)する騎士道ぶり】を見せた。

     彼らは自分たちの三位一体の空疎さを知らされ、日本を脅威と感じた。黄禍論が語られ始める中、日本は日露戦争に勝利し、彼らの危惧が間違いなかったことを示した。それからの歴史は白人国家がいかに異質・日本を排除し、白人支配を回復したかの作業日程で綴られていく。

     ただ、負けた日本が第三世界の民と違って、いまだに心から白人をご主人様と思わない。その苛立ちが米国で感じた今一つしっくりこない彼らの態度の根源のように思える。」


    詳しくはこちらをご参照♥

    欧米医学界が何世紀も追ってきた「黒死病の正体」を、日本人はたったの2日で発見したんです



    いかがでしょうか?

    北里柴三郎が、どれほどの偉人であったのかということと同時に、第1回ノーベル生理学・医学賞の候補にノミネートされるものの、実際に受賞したのは、共同研究者のベーリングで、柴三郎ではなかった理由が御理解いただけましたでしょうか?

    同じようなお話は、他にもあります♥

    『麦穂の山:秋』(ミレー)
    『麦穂の山:秋』(ミレー)

    「 「農林10号」っていう小麦があります。研究を重ねて昭和10年に日本でつくられた小麦で、ものすごく多収穫の小麦です。

     外国では麦の背はものすごく高かった。ミレーの絵を見ても、みんな麦は背が高いわけですよ。日本はあれの背をうんと低くした。背が低いので風雨で倒れなくなって多収穫になった。それまでの何倍もの収穫にしたのが日本の農林10号です。

     アメリカ戦後日本に進駐すると同時に、農林10号を持ち帰った

     それを「アメリカが多収穫小麦を作った」と言って世界中でその小麦を栽培したんです。

     世界の小麦収穫がものすごく増えて、世界から飢餓が減ったということでアメリカの学者がノーベル平和賞までとっているんですよ。…

      アメリカは泥棒みたいな国です。他の国から奪うか、ユダヤ人につくらせるかどちらかだ。

     豊かな土地があるから、第二次世界大戦以降しばらくは持っていた。だけど、いまは日本の技術がないともうダメでしょ。ステルス機にしたって、日本の技術がないとつくれない。VHSとベータの家庭用ビデオの規格争いのときも、アメリカの企業は日本のメーカーが決めるのを黙って見ているしかなかった。ブルーレイのときもそうだけど、「早く規格を決めてくれよ」って、日本が決めるのを待っていた。

      そういう現状があるから、日本は立場が強い。アメリカから何か言われたときに、「じゃあ、アメリカは中国をパートナーにするの?」と言ってやればいい。「日本から盗んだ新幹線の技術をありがたく中国から拝受するんですか?」と言えば、アメリカ人は「我々はまだそこまでは落ちぶれていません」と言うしかない。やはり優れた国と組みたいと思っているから、おのずから日本主導型でアメリカが付いてくることになる。

     安倍首相はそのあたりは見事ですよ。アメリカへ行って議会で演説しましたけど、そこでは原爆を含む彼らの過去の残忍さの追求などは一言も触れず、アメリカの存在をきちんと認めてあげた。それで、パートナーとしての日本の重要性を述べた。アメリカ人のプライドを傷つけない形で、日本とアメリカの関係を語ったんじゃないかと私は理解しています。

    米議会演説 2

     少なくとも、戦後のパーカーのボールペンをありがたがった時代とは違う。いま、アメリカに行って何かおみやげを買ってこようとすると、Tシャツくらいしかない。…どうしてアメリカがいいものをつくれなくなったかというと、よその国にまねされたからじゃなくて、自分たちが外注に出したからなんですよ。国防予算を浴びるほどもらっていながら、自分たちでつくらないで、よその国につくらせた。いまだって、何かをつくるときに、考えるのはインド人、つくるのは日本人なんだ。自動車のワールドカー(世界戦略車)で世界を制しようとしているけれど、それも自分たちではつくらない。」


    詳しくはこちらをご参照♥

    アメリカが奪っていった「農林10号」 ~ 日本人による「緑の革命」



    それでは、本日の最後に、こちらの動画をどうぞ♥





    続きは次回に♥




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    Category: 国史
    Published on: Sat,  20 2016 00:02
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