地球上最大のカモ ~ 室町時代の「勘合貿易」の実態

    カモ
    カモ(鴨、英: Duck)とは、カモ目カモ科の鳥類のうち、雁(カリ)に比べて体が小さく、首があまり長くなく、冬羽(繁殖羽)では雄と雌で色彩が異なるものをいう。カルガモのようにほとんど差がないものもある。分類学上のまとまった群ではない。
    鴨は日本では古代から好んで食べられており各地の貝塚から発見される鳥の骨の中で最も多いのがマガモの骨である。奈良時代の『播磨国風土記』には「鴨の羹」が登場する。しかし時代が下るに連れ貴族や支配階層の間では雉や鶴などが好まれるようになり鴨は庶民が食べる下等なものとされていった

    「鴨が葱を背負ってくる」

    鴨鍋にネギを入れると臭みがとれて美味しくなる事から、いいことが重なってやってくることまた「鴨」は利用しやすい人を指すことから、食い物にしやすい人がこちらの利益になる材料を持ってやって来ることもいう。転じて、詐欺や悪質商法のターゲットを「カモ」と揶揄することがある略して鴨葱とも言う。





    戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。

    そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

    私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、

    客観的に情勢を判断する必要があります。

    それでは、この書物を見ていきましょう!




    『 ところが、室町の日本人は、「金が無ければ支那人からカツアゲ」「とりあえず略奪暴行を働いてから貿易」という、どこのチャイニーズイギリス海賊かと言いたくなるような人たちです。

    驚き顔

    その【カツアゲが一番ひどかったのが、(足利)義政の時の勘合(かんごう)貿易】なのです。…

    ポイント 22

     室町時代と言えば「勘合貿易」。教科書的には、「室町時代に日本が中国の明朝と行った貿易。貿易の際に、倭寇と区別し正式な遣明使船である事が確認できるよう勘合(勘合符)を使用したことから勘合貿易とも呼ばれる。」(とりあえずてっとり早く、ウィキペディア「日明貿易」の項より)と説明されます。

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    では、その実態を見てみましょう。

     13世紀、ユーラシア大陸には広大かつ強大な【モンゴル帝国】があり、周辺諸民族を従えていました。

    モンゴル帝国
    モンゴル帝国

    【明はそれを真似】しようと思い、周辺諸国に

    「冊封されに来れば、【土産物を10倍にして返す】ぞ」

    と言ったものですから、【みんなが殺到】しました。

    驚き 2

    モンゴルや満州などがやってきては、土産わんさか貰って帰っていくというのは【いつもの話】です。

    ポイント 女性

    そこへ日本の室町幕府までが毎年来るようになりました

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    困った明全員に

    「こっちもカネがないから勘弁してくれ10年に一度にしてくれ

    と言い出す始末です。

    驚き顔

    こんなの、【大陸民族ならばいつもの事ですが、日本人がこんなことをするのは室町だけ】です。

    ポイント 23

     室町幕府三代将軍、足利義満は相当な支那かぶれだったので、本当にひざまずいて国書を受け取りました。これが、くじ引きで将軍になり、のちに「悪御所(あくごしょ)」などと渾名(あだな)される第六代足利義教(よしのり)になると、【立ったまま「よこせ」と言って、ガッと国書を取り上げ】ています。

    足利義教
    足利義教

     第八代足利義政(よしまさ)の時代には【もっとエスカレートしていきます】

    足利義政
    足利義政

    義政本人は政治にはほとんど興味がなく出家を願いながら趣味に生きた人です。

    細川護煕 

    政治に興味がないなら、さっさと政権を譲ればいいようなものですが、譲ることも決められない

    img_3_20160716081013b26.jpg 管直人 35

    将軍としてなんら問題を解決できない。いわゆる当事者能力に欠けた人でした。

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    将軍がそんなていたらくだからでしょうか。【日本からの遣明使節団】は行くたびに、

    話が違うじゃねえか。宇宙の皇帝だというから頭下げにきたのに、土産物もくれねえのかよ。ふざけんじゃねえ

    と【港に着いた瞬間から略奪を始めるというノリ】でした。

    ポイント 21

    ちゃんとした学術書から引用しますが、

    「15世紀後半に入明した、宝徳度から明応度にかけての【すべての遣明使節が暴行事件を出来(でか)した】ことになる」
    (伊川健二「遣明使節が起こした暴行事件」、村井章介他『日明関係史研究入門 アジアのなかの遣明船』勉誠出版、2015年、303項)そうです。

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    義政の時代です。ちなみに、「宝徳度から明応度」とは、1449年8月16日から1501年3月18日間での約52年間を指します。』

    日の丸

    いかがでしょうか?

    まずは、昨日に引き続きまして、著者ご自身が解説をされている、こちらの動画をどうぞ♥



    さて、昨日は、私たち日本の室町時代の頃から、なんと500年もの間支那属国だった「ふがいのない」朝鮮という「半国家」について見てまいりましたが、今回は、その親分である「支那」の「ふがいなさ」も見て参りましょう♥

    その前に、まず、13世紀モンゴルという巨大な帝国を、キチンと理解しておく必要があります♥ ユーラシア大陸の西側では、現代に繋がる出来事がありました。

    「 いまも続くロシアとウクライナの衝突にしても、ロシア正教とカトリックのぶつかり合いとみることもできます。

     「正教会」(ギリシア正教、東方正教会)はキリスト教の宗派のひとつで、ロシア正教もここに属します。一方のウクライナでは主にカトリックが信仰されているので、その時点ですでにうまくいかないわけです。

     9世紀後半から13世紀にかけて東ヨーロッパに存在した「キエフ大公国」「ルーシ」とも呼ばれます。

     このルーシロシアの語源で、現在のウクライナ、ベラルーシ、ロシアにまたがっていました。

     ルーシは国の名前であるだけでなく、民族を指す言葉にもなっています。…

     バイキング(ノルマン人)の子孫もともとルーシと呼ばれていた人々で、いわゆる東スラブ人(ウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人)は当初はルーシではありませんでした国としてのルーシは、1240年にモンゴル帝国によって滅ぼされています

     そしてモンゴルの支配を受け入れるようになってからは、その土地に住む人はみなルーシになりました。ウクライナ人は、ポーランド領にいたルーシでカトリックになり、ベラルーシ人はリトアニアにいたルーシ、ロシア人はモンゴルの遊牧民と結合したルーシというように考えてもいいでしょう。

     その後、ルーシが分裂した地方政権のうちモスクワ大公国が急速に発達していきました。もともとモスクワは、モンゴル軍がルーシを征服したときには小さな砦だったのに、モンゴル帝国に対して臣従の姿勢を示して、うまく取り入ったことから大きくなれたのです。

     そのためモスクワ大公国とモンゴルの結びつきは強くウクライナ人からすれば、「モスクワのルーシなんて、ひと皮むけばタタールだ」ということになります。

     タタールとはモンゴル人のことです。

    プーチン

     ウクライナで、タタールと結んだモスクワと戦った遊牧民コサックと呼ばれ、両者の関係は険悪でした。ソ連が崩壊したとき、ウクライナが独立した背景にはそういう歴史もあるわけです。」


    詳しくはこちらをご参照♥

    ボクとプーとシューの秘密の関係



    こちらもご参照♥

    ドイツ騎士団をタコ殴りにして、ロシアをパシリにした「あの国」



    jamala-ukraine-eurovision.jpg

    余談になりますが、当のウクライナも、何故か「ウクライナはタタールのものだ」って、とんでもないことを歌う歌手まで登場して来ちゃって、とても滑稽な事になっているんです♥ だったら、同じタタール同士で仲良くすれば?って思うんですけれども♥

    詳しくはこちらをご参照♥

    ユーロビジョン Jamalaの「1944」 ~  1989..6.4 って何があったの?



    さて、お話を「ふがいない」朝鮮の親分に戻しましょう♥

    朝鮮の親分である「支那」は、昔から「世界中からカモにされる」ことで喜んでいる国です♥

    「 「冊封」とは、本来は中国周王朝時代の封建制において、周の王が諸侯以下を冊をもって任命するという制度のことで、諸侯に爵位や封禄を与える見返りとして、彼らと君臣関係を結ぶことが最大のポイントである。

     そして漢王朝の時代になると、強大な漢帝国は力を背景にして周辺地域の国々を中華秩序のなかに取り込む大事業に着手したが、そのとき中華王朝は周時代の「冊封体制」をそのまま、「化外(けがい)」の民族のつくった周辺諸国に適用した。

     つまり、それらの周辺諸国実際には中国と無関係なところでつくられた自前の政権であっても、形式上、中華王朝からその地位を「冊封」によって「任命」されることになる。その際、彼らは「冊封」されることへの見返りとして、中華王朝に「外臣」の礼をとり、中華皇帝を「君主」として仰ぎ、形式的には中華王朝の属国となる。

     このように…頂点に立つ中華王朝とそれを仰ぐ属国たちからなるこの国際秩序を、すなわち「中華秩序」という。

     その際、「宗主国」となった中華王朝の諸国に対する「支配」とは実質的なものというより、ほとんどは形式的なものだ。つまり諸国は中華王朝とその皇帝に対して「臣下」としての礼儀さえきちんと守っていればよい。…その「臣下の礼」の最たるものとして諸国に求められるのは中華皇帝に対して定期的に貢物をもってご機嫌を伺いに参上することである。それが「朝貢」だ。

     しかもその際、もってくる貢物の経済的価値がいかほどてあるかは中華王朝にとって、さほどの関心事ではない貢物をもって朝貢してくること自体が中華王朝と皇帝にとって重要なのである。ここが重要だ。多くの場合諸国からの朝貢を促すため中華王朝はむしろ彼らのもってくる貢物の数倍も経済的価値がある「下賜物」を与える要するに高い代価を払ってでも諸国に朝貢に来てほしいというのが、中華皇帝の偽りのない気持ちなのだ。…

     つまり中華世界の皇帝は、自らが真の天命を背負った本物の天子であることを証明して自らの権威を不動のものにするため、どうしても周辺諸国に朝貢に来てもらわなければならないのだ。

     こうなると、場合によっては中華皇帝と周辺諸国の国王の立場が逆転することもある。中華皇帝周辺諸国の国王たちに朝貢しに来てもらわなければならない立場であり、「下賜物」をできるだけ多くして経済的利益を餌に彼らの朝貢を促すことになるが、そんなことをやっているうちに、どちらの立場が強いのかがわからなくなるときもある。

     そして多くの周辺諸国にしてみれば、中華王朝に「冊封」されて朝貢する立場になったとしても、実際に支配されることもなく、むしろ得られる経済的利益のほうが大きいだから彼らは往々にして、喜んで中華王朝の「属国」となって中華秩序のなかに入り、中華皇帝のご機嫌を伺うのである。」


    詳しくはこちらをご参照♥

    来てもらわなければならない立場



    さらに、こちらもどうぞ♥

    「 漢王朝は中国史上、長命王朝の一つに数えられる。漢王朝の歴史は前漢と後漢に分けられるが、前漢だけでも198年の寿命を保った。…

     前漢王朝が創建されて早々、初代の皇帝である高祖(劉邦)はさっそく、代表的な周辺諸国の南越国と衛氏朝鮮の君主を皇帝の命において冊封した。…「冊封体制」の始まりである。…

     漢王朝は南の南越国と東の衛氏朝鮮という二つの朝貢国を押さえることで、史上初の中華秩序の原型をいちおう整えることになったが、大問題となっていたのは中国大陸の北部に生息する遊牧民族の匈奴(きょうど)である。

    漢

     創建早々の漢帝国は、騎馬民族として強大な軍事力をもつ匈奴に刃を向けることができないから、最初は漢王朝が彼らを属国として「冊封」するどころか、むしろ平身低頭して匈奴に和睦を乞うた

     そのため漢王朝の皇帝は匈奴の首長である冒頓単于(ぼくとつぜんう)と兄弟の契りを交わしたうえで、皇女を単于の妃に差し出して絹や米などの貢物まで提供することになった。中華帝国にとってまさに屈辱の「逆朝貢」だが、それが実際の力関係であった以上、やむをえないとした。

     こうした屈辱的な状況を打破したのは、漢王朝が成立してから70年以上も経った第7代の武帝の時代である。」


    詳しくはこちらをご参照♥

    皇女を差し出し、絹や米の貢物をしていた大帝国



    で、現代においても、やっぱり世界中からカモにされちゃっているのが、「支那」なんです♥

    命だけは 習近平

    こちらをご参照♥

    世界中から「カモ」にされている「国家主席」



    それでは、本日の最後に、こちらの動画をどうぞ♥





    続きは次回に♥




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    Category: 国史
    Published on: Sun,  17 2016 00:01
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