デン・ハーグ 平和と司法の国際都市 ~ どうなる?支那の判決

    国際司法裁判所が設置されているオランダ・ハーグの「平和宮」
    国際司法裁判所が設置されているオランダ・ハーグの「平和宮」

    デン・ハーグ(オランダ語: Den Haag )は、北海沿岸に位置するオランダ南ホラント州の基礎自治体(ヘメーンテ)であり、同州の州都。事実上のオランダの首都で、アムステルダムとロッテルダムに次ぐオランダ第3の都市でもある。

    ハーグには150もの国際機関が存在するが、平和・司法の国際都市となった基礎は1899年と1907年に開かれた万国平和会議である。この結果世界初の国際紛争処理機関として常設仲裁裁判所 (PCA) が出来た。それから間もなく米富豪アンドリュー・カーネギーが資金を提供して平和宮が建設されPCAの建物となった。国際連盟が出来るとハーグに常設国際司法裁判所が置かれ、第2次大戦後は国際司法裁判所となった。1981年のイラン・米国紛争法廷、1993年の旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷、2002年の国際刑事裁判所などの設置によりハーグは国際法律問題調停の地位を確立していった。現在、ニューヨークに次ぐ国連都市であり、国際会議の中心地として重要性が高まっており、ハーグ市では「法律の世界首都」そして「平和と司法の国際都市」としてのブランド化を目指している


    記事lll
    南シナ海仲裁裁判、7月12日判決 初の国際司法判断






    戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。

    そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

    私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、

    客観的に情勢を判断する必要があります。

    それでは、この書物を見ていきましょう!




    『 GHQの占領政策日本去勢化の改造のため直ちに取り組んだのが、魂の改造である教育改革である。

    ポイント 21

    それは【憲法より先に取り組んだ】のである。

    ポイント 女性

    米本国から教育使節団を招き、GHQの民間情報教育局(CIE)の下に、上級舵取り委員会(Higher Steering Committee)を設け、その監視下に文部省内に同じ名の舵取り委員会を設けさせ、戦後の教育改革はすべて日本側が決めたように仕組まれた

    ポイント 23

    一国を亡ぼすのに刃物はいらない。その民族の記憶(歴史、伝統文化)を消し、その上に新しい歴史を捏造発明して押し付ければ足りる

    という箴(しん)言がある。

    驚き 6

    アメリカは巧みにこの手を使って占領政策を全うしたのだ。

    八紘一宇 2

    【日本側歴史観の大東亜戦争史観(八紘一宇、大東亜共栄圏の実現)が全否定】され、米が新たにデッチ上げ押し付けた太平洋史観(侵略、植民地支配、残虐性を日本の三悪と規定)を正当化してきた。これが長く戦後の日本を縛り上げてきた東京裁判史観、自虐史観の基本になってしまった。

    ポイント 22

     そこで【米進駐軍が直ちに強制した指令】は、それまで国民学校で教えていた【修身、歴史、地理を抹殺】させ、これを以下にのべる【アメリカ式社会科に置換させた】のである。

    修身 教科書

    この日本人がなれ親しんだ【三教科こそ、日本人としてのアイデンティティを学ぶ根本教科】であった。だからGHQはこの三教科こそ日本人の狂信的な国家意識や軍国主義を生む元凶として抹消したのである。

    黒塗り 教科書

     そこで文部省は、【米国教育使節団が持ち込んだ社会科を導入】することになった。これは当時、【米国で実施されていたSocial Studyの翻訳】である。米の各州の中で最も先鋭的なバージニア・プランとカリフォルニア・プランを導入することになった。

    赤旗 社会主義
    [赤旗(あかはた、せっき、英: red flag)とは、赤色の旗で、フランス革命以降は政治的には革命あるいは革命思想である社会主義や共産主義を象徴する旗である。]

     この【社会科は当時、進歩的な思想であるとされたマルクス主義的な反国家、社会主義革命思想を含んでいた】。GHQにとっては、日本の既存の国家や権力に反する心を養うのに最適な教科と考えられた。その後日本の学校での社会科の三教科は、右の精神に基づいて教科書が編纂されることになった。

    index-01.jpg

     この教科は、戦後新しく生まれ変わった【社会党、共産党、日教組や広くマスコミ、中でも朝日、毎日、NHKや岩波書店や東大などのリベラル派の教授たちに大歓迎される】ことになった。』

    日の丸

    いかがでしょうか?

    よく誤解されている方々もいらっしゃいますが、GHQが占領政策で最初に手をつけたことが、「憲法」より先に取り組んだ「教育改革」でした♥

    もちろん、この「憲法」「教育」とともに、劣化した左翼を生み出す根源となっていますが。。。

    左翼 9条 憲法
    劣化した左翼の実例

    予定では、本日、南シナ海を巡る「中国の侵略行為」に対しての国際司法の判決が出ます♥ 楽しみですね♥

    もちろん、不利な判決結果が出されたとしても、国家崩壊へと一直線に走る「中華人民共和国」が、ルールを守ったりするはずがありませんけれども♥ 盧溝橋事件(1937年7月7日)以降の、支那のとってきた行動を知っていれば、約束なんて守るわけがないことは明白ですね♥

    こちらもご参照♥

    ドイツのなんとなくリベラル 「反米という病」 ~ 約束なんて守らない支那



    さて、その裁判所があるオランダのハーグが、平和・司法の国際都市となった基礎は、冒頭にも書かせて頂いておりますとおり、1899年1907年に開かれた万国平和会議が元になっています。

    1899年の第1回万国平和会議がハーグで開かれた際に、国際法である「ハーグ陸戦条約」が結ばれました。

    以下は、Wikipediaの抜粋です。

    「 ハーグ陸戦条約(ハーグりくせんじょうやく)は、1899年にオランダ・ハーグで開かれた第1回万国平和会議において採択された「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約(英: Convention respecting the Laws and Customs of War on Land, 仏: Convention concernant les lois et coutumes de la guerre sur terre)」並びに同附属書「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」のこと。1907年第2回万国平和会議で改定され今日に至る。ハーグ陸戦協定、ハーグ陸戦法規などとも言われる。

    交戦者の定義や、宣戦布告、戦闘員・非戦闘員の定義、捕虜・傷病者の扱い、使用してはならない戦術、降服・休戦などが規定されているが、現在では各分野においてより細かな別の条約にその役割を譲っているものも多い。

    日本においては、1911年(明治44年)11月6日批准、1912年(明治45年)1月13日に陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約として公布された。」


    続いて、こちらもご一読ください。「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則  第三款 敵国の領土における軍の権力」に謳われている内容です。

    「 第42条 : 一地方が事実上敵軍の権力内に帰したときは占領されたものとする。
    占領はその権力を樹立し、かつこれを行使できる地域をもって限度とする。

     第43条 : 国の権力事実上占領者の手に移った上は、占領者は絶対的な支障がない限り、占領地の現行法律を尊重して、なるべく公共の秩序及び生活を回復確保する為、施せる一切の手段を尽くさなければならない

     第44条 : 交戦者は、占領地の人民を強制して相手の軍またはその防御手段についての情報を供与させることはできない。

     第45条 : 占領地の人民は、敵国に強制的に忠誠の誓いを為さしめられることはない。

     第46条 : 家の名誉及び権利、個人の生命、私有財産ならびに宗教の信仰及びその遵行を尊重しなければならない私有財産は没収できない

     第47条 : 略奪はこれを厳禁とする。

     第48条 : 占領者が占領地において国の為に定められた租税、賦課金及び通過税を徴収するときは、なるべく現行の賦課規則によって徴収しなければならない。この場合において占領者は国の政府が支弁した程度において、占領地の行政費を支弁する義務があるものとする。

     第49条 : 占領者が占領地において前条に掲げた税金以外の取立金を命じることは、軍または占領地行政上の需要に応じる場合に限るものとする。

     第50条 : 人民に対しては、連帯の責任があると認めることができない個人の行為のために、金銭上その他の連座罰を科すことはできない。

     第51条 : 取立金はすべて総指揮官の命令書により、かつその責任をもっておこなうものでなければこれを徴収することができない。取立金はなるべく現行の租税賦課規則によりこれを徴収しなければならない。一切の取立金に対しては納付者に領収書を交付しなければならない。

     第52条 : 現品徴発及び課役は、占領軍の需要の為でなければ市区町村または住民に対してこれを要求できない。徴発及び課役は地方の資力に相応し、かつ人民がその本国に対する作戦行動に加わるような義務を負わない性質のものであること。
    前掲の徴発及び課役は占領地方に於ける指揮官の許可を得なければこれを要求できない。現品の供給に対してはなるべく即金にて支払い、それができない場合には領収書をもってこれを証明し、かつなるべく速やかにこれに対する支払いを履行しなければならないものとする。

     第53条 : 一地方を占領した軍は、国の所有に属する現金、基金及び有価証券、貯蔵兵器、輸送材料、在庫品及び糧秣その他すべて作戦行動に役立つ国有動産のほかは、これを押収することができない。海上法によって支配される場合を除き、陸上、海上及び空中において報道の伝送または人もしくは物の輸送の用途に提供される一切の機関、貯蔵兵器、その他各種の軍需品は、私人に属するものといえどもこれを押収することができる。但し平和克復後にこれを還付し、かつこの賠償を決定しなければならないものとする。

     第54条 : 占領地と中立地とを連結する海底電線は、絶対的に必要ある場合でなければこれを押収し、または破壊することはできない。海底電線は平和克復に至ってこれを還付し、かつこの賠償を決定しなければならないものとする。

     第55条 : 占領地は敵国に属し、かつ占領地に在る公共建物、不動産、森林及び農場に付いては、その管理者及び用益権者であるに過ぎないものであると考慮し、これら財産の基本を保護し、かつ用益権者の法則によってこれを管理しなければならない。

     第56条 : 市区町村の財産ならびに国に属するものといえども宗教、慈善、教育、技芸及び学術の用途に提供される建設物は私有財産と同様にこれを取扱うこと。
    前述の様な建設物、歴史上の記念建造物、技芸及び学術上の製作品を故意に押収、破壊または毀損することはすべて禁止され、かつ訴追されるべきものとする。」


    悩む女の子2

    で、今度はこちら♥

    「 ほんとうは戦争に負けたからといって憲法を外国の指示によって変えたりしてはいけません

     人間はほかの動物と違って、殺しの技術を競って大規模にお互いを殺し合ってきました。いまもまったく終わっていません。ほかの動物を見くだすかわりに、いちばん無残なことをしているのですが、それだからこそ最低限のルールだけは作る努力はしてきました。

     その血で贖った貴重なルールが国際法です

     日本が1911年に批准した、ひとつの国際法が「ハーグ陸戦条約」です。ハーグはオランダの街で、いま国際司法裁判所が立地する場所です。この条約には「戦争に勝った国は、勝ったからといって負けた国の法律をいじってはならない」という趣旨が明記されています

     日本は戦争に負ける、実に34年も前にこの条約を批准していましたが、その意味するところを、ほんとうは知らなかった。愚かだからではなくて、外国に負けて占領された経験のない、例外中の例外の国だったからです…

     このハーグ陸戦条約を盾に闘って日本の憲法を勝者主導で変えることに抵抗すべきでした

     仮の憲法のもとで、敗戦後ずっと、まるで占領が終わっていないかのように生きてきたし今もそのように生きているのが、わたしたちではないでしょうか…」


    詳しくはこちらをご参照♥

    これがGHQが書いた現憲法の原案です



    憲法改正 1
    美しい日本の憲法をつくる国民の会

    もうお判りだと思いますが、占領軍が行った政策は、明確な国際法違反行為ですね♥ ですから、現在の憲法なんて、違法に作られたモノだということです。

    では、なぜ、こういったお馬鹿さんが、ウジ虫の如く湧いてくるのでしょう?

    劣化左翼
    ウジ虫の如く湧くお馬鹿さんの実例

    その元凶が、「教育」にあるんです♥ 特に「社会科」と呼ばれる、ヘンテコな授業が原因です♥

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    「 聖徳太子を、実在しなかったのではないかと疑う学者がいます。聖徳太子の存在『日本書紀』にしっかりと書かれています。ですが、現在残されている遺物を調べると、その記述は疑わしいというのです。

     法隆寺聖徳太子が建てましたそうはっきりと記されています。天智天皇九(670)年に焼けたという記録もあります。しかしいま、私たちは法隆寺を目の前に見ることができます。すると、いまある法隆寺は白鳳時代に再建されたという説が出され、これが固まって定説になりました教科書にもそう書かれています。いまある法隆寺が再建されたものなら、焼ける前にあったという法隆寺も、聖徳太子が建立したものかどうかわからない、『日本書紀』の記述は疑わしいということになって、聖徳太子という人物もいたかどうかもわからないとなっていったわけです。

    教育出版

     しかし最近、精密な調査が行われました。年輪年代法というのがあります。樹木の年輪から年代を測定する方法で、現在ではもっとも正確な測定方法です。法隆寺五重塔の中心に立てられている柱、心柱をこの年輪年代法で鑑定しました。すると、推古天皇二(594)年、飛鳥時代に伐採されたものであることがわかったのです。

     では、一度法隆寺が焼けたという記録はどうなるのでしょう。これも間違いではありませんでした。焼けた土が出てきたのです。もっともこれは法隆寺とは別の、そばに建っていた若草伽藍(わかくさがらん)という建物だったのです。焼けたのはそれだったのです。

     いま私たちが見ることができる法隆寺は、再建されたものではなく聖徳太子が建てた法隆寺であることはもはやまぎれもありません。もちろん、聖徳太子の存在も疑いようがありません
     
     それに、法隆寺の建て方は明らかに飛鳥時代のもので次の白鳳時代の建て方とは違っています。…

     しかし法隆寺再建説に固まっている学者はなかなか信じようとしません法隆寺は再建するときにわざと飛鳥様式にしたのだなどと無理なことをいっています

     歴史は素直に見なくてはなりません。法隆寺は聖徳太子が生きていた時代の建物です。仏教を具体的に受け入れた中心人物が聖徳太子なのです。…

     法隆寺はいまに残る世界最古の木造建築です。調和のとれた五重塔や金堂の形。その独特の配置。息をのむほどの建築美です。ギリシャのパルテノン神殿、イタリアのサン・ピエトロ教会堂に並ぶ、いや、それらに勝るとも劣らない、人類の貴重な財産です。日本人のみならず世界的にももっと知られるべきものです。…」


    詳しくはこちらをご参照♥

    法隆寺再建説という捏造 ~ 教育出版の事例



    「 奈良東大寺大仏殿南西にある正倉院は、高床式校倉(あぜくら)造りの壮大な倉庫で、聖武天皇と光明皇后の御物を納める、文化財の宝庫です。

     その御物には唐や西城、さらに遠くペルシャから渡ってきた品々が数多く含まれています。そこから正倉院を「シルクロードの東の終点」といったりします。

     この呼び名には間違いはありません。確かに多くの文物が大陸から直接に、あるいは朝鮮半島を経て日本に流れ込みました。しかし、それだけなのでしょうか。日本から向こうに渡っていったものはないのでしょうか

    正倉院

     日本のこの時代に対する歴史観には、日本は文化が遅れていて、中国や朝鮮に学び、向こうの文化を取り入れて発展してきたという観念が抜きがたくあります特に戦後この見方が浸透しました。

     その代表例は遣隋使、遣唐使です。

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     推古天皇十五(607)年に小野妹子が遣隋使として派遣されました。遣唐使の最初の派遣は舒明(じょめい)天皇二(630)年です。以後、途中で船が難破したりしているので数え方にもよるのですが、いずれにしろ、日本からたびたび唐に出かけて向こうの進んだ文化を学びそれによって日本は発展したという文脈で語られています

     しかし事実はまったく違うのです

     たとえば小野妹子の遣隋使のときです。こちらから行っただけでなく随からも裴世清(はいせいせい)をはじめ位の高い役人などが32艘もの船を連ねてやってきています。いわば「遣日使」です

     唐の時代になると、さらに頻繁に日本にやってきていますその人数がまたすごいのです

     たとえば、天智天皇八(669)年には2千余人が来ています。天智天皇十(671)年にも2千人来日、という具合です。

     ほかにも、当時新羅日本に高い関心を抱いていたようで、三十数回も来ています

     いまの中国の満州から朝鮮北部、そしてロシアの沿海州まで版図を広げた渤海という国がありましたが、ここからも33回来ているのです遣隋使、遣唐使よりも遣日使のほうがはるかに多かったのです

    では彼らは何のために日本にやってきたのでしょうか

     ほかでもありません。日本の文化を摂取するために来たのです。経済的には日本の産出する銀、絹などの高い需要がありました。八世紀後半になると日本は金も産出するようになり、日本への関心はさらに高くなりました。文化的には日本の仏教、それに聖徳太子の思想を学ぶということもありました。

     鑑真(がんじん)が日本への渡航に5回も失敗し、6度目にようやくたどり着いた話は有名てすが、鑑真がなぜこれほど日本に執着したのか

     聖徳太子の思想をはじめ日本に定着している仏教を高く評価していたということが根底にあるのです鑑真だけではありませんインド人、ヴェトナム人、ソグド人の僧も日本の仏教を学びに来ています。」


    詳しくはこちらをご参照♥

    遣隋使や遣唐使よりも、はるかに多かった「遣日使」



    詳しくは、また別の機会にでも書かせて頂きますが、聖徳太子の時代でさえヘンテコな授業をやっているんです。

    学校だけではありません。メディアを通じても大量に「捏造」が繰り返されています

    「 では日本はどのようにして建国されたのか

     その頃の日本とシナの関係を書いた『後漢書』倭伝には次のようにあるのみです。

    「倭は韓の東南海にあり、山島に依りて居をなす。およそ百余国あり。武帝、朝鮮を滅ぼしてより、使訳、漢に通ずる者、三十許(ばか)りの国なり」

     漢が「衛氏朝鮮」を滅ぼす前108年以前、新羅、高句麗、百済が建国される百年以上前から、シナ人は日本に百余国あったことを知っていました。…

     しかし

    「天皇は何処から来たか、日本がどのようにして建国されたか」

    については何も書かれていません。『旧唐書』日本 に「日本国は倭国の別種也」とあるだけです。弥生時代に彼らが日本にやって来たなら、そこに何かが書いてあるはずです。」


    ここは重要ですので、覚えておいてください♥

    すなわち、「 日本国 ≠ 倭国 」です♥

    ポイント 女性

    「 これは

    「外部から言語の交替を強いるような支配者集団が渡来したことがなかった」

    とした言語学者の見解やY染色体分析と一致しています。…

     様々な事実が明らかになった今でも系統言語学の成果を知らずY染色体も知らず日本では縄文前期からイネが作られていたことも知らず考古学も知らず文献根拠も示さず

    「大陸から稲作の技術とともに中国人や韓国人と同じモンゴロイドという弥生人が渡来し…私は弥生人が主流だと考えていますし…」 (八幡和朗 『最終解答 日本古代史』PHP文庫)

    なる根拠なき珍論をいう方がいる…

     そして日本の建国について、戦後になると多くの歴史学者が「神武東征はウソだ、日本書紀はウソだ」と言い出し、日本建国のいわれを排除し、科学的根拠もないままに

    「日本人は渡来人と縄文人の混血民族だ」、

    「韓国は日本人の祖先の国だ」、

    「日本人の祖先は江南から来たシナ人だ」、

    「渡来人が日本に稲作を教えた」、


    そのような「ウソ」公教育司馬遼太郎などの作家、マスコミ、大学教授などを通して流され続けたのです。…」


    詳しくはこちらをご参照♥

    日本はどのようにして建国されたのか ~ 根拠なき珍論を繰り広げる八幡和朗



    ご参考までに、司馬遼太郎と菅直人の関係は、以前に書かせて頂いておりますので、そちらも御覧ください♥

    アメリカがつくった「日本共産党」 ~ 今でも利用されている左翼・リベラルな人々



    それでは、本日の最後に、こちらの動画をどうぞ♥





    続きは次回に♥




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    Category: 日本
    Published on: Tue,  12 2016 00:01
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