江戸時代のマグロ  ~  ゲルマン・ドイツと「第三の国」

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    日本人古くからマグロを食用とし縄文時代の貝塚からマグロの骨が出土している。古事記万葉集にもシビの名で記述されており、「大魚(おふを)よし」は、「鮪」の枕詞

    江戸の世相を記した随筆「慶長見聞集」ではこれを「しびと呼ぶ声の響、死日と聞えて不吉なり」とするなど、その扱いはいいものとはいえなかった。これは鮮度を保つ方法が無く腐敗しやすいことが原因である。かつては魚介類の鮮度を保つには水槽で生かしたまま流通させる方法があったが、マグロの大きさではそれが不可能であった。また干魚として乾燥させる方法もあるが、マグロの場合は食べるに困るほど身が固くなる(カツオの場合は、乾燥させた上で熟成させ、鰹節として利用したが、マグロはその大きさから、そういった目的では使われなかった)。唯一の方法塩漬にする事だが、マグロの場合は食味がかなり落ちたため下魚とされ最下層の庶民の食べ物だった

    江戸時代中期から調味料として醤油が普及した。これにより、マグロの身を醤油づけにするという新たな保存方法が生まれ、「ヅケ」と呼ばれ、握り寿司のネタとして使われ出した。

    近代以降は冷蔵技術が進歩した事から、赤身の部分の生食が普及したが、戦前までは大衆魚であった。北大路魯山人(きたおおじろさんじん)は「マグロそのものが下手物であって、一流の食通を満足させるものではない」と評していた。脂身の部分である「トロ」は特に腐敗しやすいことから猫もまたいで通る「猫またぎ」とも揶揄されるほどの不人気で、もっぱら缶詰などの加工用だった。冷凍保存技術の進歩と生活の洋風化に伴う味覚の濃厚化で、1960年代以降は生食用に珍重される部位となった。なお、マグロの品質が低下しない冷凍温度帯は-30℃以下であり、実際の流通上では-50℃の超低温冷蔵庫に保管する。なお、一旦解凍したマグロを再凍結すると組織が破壊され、非常に質が劣化する。再解凍後にはドリップ(旨味成分等を多量に含んだ汁)が流れ出すなどして風味も落ちてしまう。

    北大路 魯山人
    北大路 魯山人





    戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。

    そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

    私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、

    客観的に情勢を判断する必要があります。

    それでは、この書物を見ていきましょう!




    『 『古今料理集』(1670~74年頃)は

    「まぐろ 下魚也 賞翫に用いず」

    【鮪は下品な魚で貴人のご馳走には使えない】としている。

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    時代が下がってもその傾向は続き、『彙軌本紀(いきほんぎ)』(天明4年)には日本橋魚市の

    「鯛は諸侯に奉じ、まぐろは下賤(げす)の食(くい)もの」

    になるとある。高貴な人の食べる魚の代表に鯛下々の食べる魚の代表にまぐろが挙げられている

    驚き顔

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    同じ魚でも鯛とまぐろは月とすっぽんほどに価値の違いがあった。現在のまぐろの高値を考えると隔世の感がある。

    「うれしやな しゆびよく売つたまぐろ売」(和歌みどり、享保8年)

     享保年間(1716~36)にはまぐろ売りが町中を売り歩いていた。まぐろの値段は安く、小川顕道の『塵塚談(ちりづかだん)』(文化11年)によると、享保19年におけるまぐろの値段は

    「二百廿四文 大まぐろ片身 骨付頭とも」

    とある。

    江戸名所図会 日本橋魚市
    江戸名所図会 日本橋魚市
    まぐろ
    右下拡大図

    これは、顕道の祖父の遺した「小遣帳」に記載されていた値段で、そこには、享保19年の一分は「銭一貫二百六十文」替えで、享保16年の米価は一分で「白米三斗九升」であったことも記載されている。現在の米価に換算して計算してみると大まぐろの片身が5000円位で買えたことになる

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     『江府風俗志(こうふふうぞくし)』(寛政4年)に

    「延享の初め頃(1744年頃)は、さつまいもかぼちゃまぐろ甚(はなはだ)下品にて、町人も表店住の者は食することを恥じる躰(てい)也」

    とあるように、まぐろ裏店住いの人々の食べ物で、まぐろ売りが長屋の路地を売り歩いていた。』

    日の丸

    いかがでしょうか?

    マグロが安く食べれたなんて、羨ましいですね♥

    こんな記事を書いていると、ついついお腹が減ってきてしまいます♥

    せっかくなので、我が家お勧めのお寿司屋さんを、ちょこっとだけ、ご紹介しま~す♥

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    定番が、札幌にある「すし善」。雰囲気がとっても良い本店がお勧め♥ 東京の銀座にも店舗があって、こちらもお勧めです。

    すし善

    こだわりならば、同じく札幌にある、こちらの「豊寿司」

    豊寿司

    江戸前が食べたくなったら、浜松町にある、こちらの「宮葉」

    宮葉

    絶景の富士山を見ながら食すのならば、静岡県にある、こちらの「和楽房 尚奄」

    和楽房 尚奄

    。。。と、他にも色々ありますが、今回はこの辺りまでにしておきます♥

    ちなみに、この築地で取引される限定ウニ

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    すし善(銀座店)宮葉で、食べることができました♥ びっくりするほどの大きさなんですよ♥ ぜひ、ご賞味ください♥

    さて、それでは、一昨日の続きに入ります♥

    ゲルマン・ドイツが、如何に禍を撒き散らかしてきたか現代でも陰でコソコソしているドイツに焦点を当てて、歴史を確認していこうと思います♥

    国家社会主義ドイツ労働者党
    国家社会主義ドイツ労働者

    20世紀のみならず21世紀になった「現代」でも、ゲルマン・ドイツによる禍がもたらされている事実は、実際にはあまり認識されていません。その分、余計に危険なんですけれど♥

    まずは、ドイツ人に染み付いている思想を理解して頂くためにも、

    ドイツの言葉に、「Drittes Reich」というものがあります♥

    「drittes」は、英語で「thirds」、つまり「3rd」です♥ 日本語で「三番目の~」という意味です。

    そして、もう一つの単語「Reich」それが表す意味は、次のとおりになります。

    以下は、Wikipediaの抜粋です。

    「 ライヒReich、複数形:Reiche)は、ドイツ語で大きな領域を持つ「国」を現す語英語の reign(支配)や region(地域)と同じ語源である。ドイツ語では「国家」を現す言葉として「シュタート」(Staat、複数形:Staaten)も存在するが、微妙に用法は異なる。

    元来、ドイツ語において「Reich」は英語の「Empire」とほぼ同義であり、ラテン語の「imperium」に相当すると考えられていた。つまり「帝国」である。

    ドイツの領域を統治した国家のうちフランク王国ドイツ語: Fränkisches Reichと呼ばれ、神聖ローマ帝国ドイツ語: Heiliges Römisches Reichと呼ばれる。またエースターライヒ(オーストリア)(ドイツ語: Österreich)は「東のライヒ」と言う意味である。フランスドイツ語でフランクライヒ(ドイツ語: Frankreich、フランクのライヒ)と呼ばれるが共和政となった現在のフランスを呼ぶ際にも「Frankreich」の語が使用されているドイツ帝国が成立するとドイツ語: Deutsches Reichが正式な国号となった。この帝政ドイツ時代になって、「Reich」の語は広く使用されるようになった。

    フランク王国の時代別の領土
    フランク王国の時代別の領土

    神聖ローマ帝国 領土の変遷
    神聖ローマ帝国 領土の変遷

    ドイツ革命によって共和政が成立したが、その後制定されたヴァイマル憲法の第一条は「「Deutsches Reich」は共和国とする」というものであった。これは「Deutsches Reich」の名に親しんでいたドイツ人の感情に配慮したものであったがライヒを「Empire」と同義であると考えていた外国でも奇異にみられた。当時の法学者オットマール・ビューラーは「ライヒはドイツの『全国』を意味する」と解説しており、英語の「commonwealth(コモンウェルス)」や「nation」に近いという再解釈が行われた。これ以降ライヒの主な語義は「大きな国」となり、かつての君主国という語義より優先されるようになった。これ以降ドイツ語の文脈では特に帝政であることを示す場合には皇帝を示すカイザー (Kaiser) を加えて、カイザーライヒ (Kaiserreich) とする場合もある。この場合ドイツ帝国は「Deutsches Kaiserreich」と表記される。

    ナチス・ドイツ「Deutsches Reich」の国号を受け継いだだけでなく「Drittes Reich」(第三帝国)の語をプロパガンダとして用いたナチス・ドイツ崩壊後に成立した東ドイツはドイツ民主共和国(ドイツ語: Deutsche Demokratische Republik)、現在のドイツの直接の前身である西ドイツ、すなわちドイツ連邦共和国(ドイツ語: Bundesrepublik Deutschland)はいずれもライヒの語を用いていない。ヴァイマル共和政、ナチス時代において設置された「ライヒ」を冠する役職や機関もすべて改称されている。」


    ローマ帝国滅ぼしたのがゲルマン人の侵略(⇒「ゲルマンの民族大移動」という風に教えられますが、実態は侵略です)でした。

    正確には、東西に分裂(このときキリスト教も分裂します)したローマ帝国のうち、西ローマ帝国が滅び、そこに勢力を伸ばしたのがゲルマンのフランク王国です。

    この異民族によって成立したフランク王国が、のちにキリスト教(カトリック・西方教会)と結びつき、再び西ローマ帝国として認められます。こうして、キリスト教(カトリック・西方教会)は、それまでの正統性を受け継ぐ、もう一つのキリスト教(東方正教会・ギリシャ正教)そしてイスラム勢力と対抗する体制を整えます。

    やがて、フランク王国が分裂する(西フランクがのちのフランスへ、東フランクがのちのドイツへ)のですが、キリスト教(カトリック・西方教会)東フランク王国にローマ皇帝の帝冠を与え結びつきを強めていきます。ここに神聖ローマ帝国が誕生します♥

    力を強めたキリスト教(カトリック・西方教会)は、十字軍を派遣し、イスラム勢力征伐を名目に、なんと東ローマ帝国(東方正教会・ギリシャ正教)に攻め込み崩壊させてしまいます

    詳しくはこちらをご参照♥

    戦争に引き込まれるということ



    お分かりでしょうか?

    偽物のキリスト教(カトリック・西方教会)と、異民族ゲルマンが結びつき、ヨーロッパに戦争をもたらしてきた歴史をご理解いただけましたでしょうか♥ これが、ドイツ人の根っこにあります♥

    で、「Drittes Reich」」なる言葉、これが表しているのは、次のとおりとなります。

    以下は、Wikipediaの抜粋です。

    「 第三帝国(だいさんていこく、ドイツ語: Drittes Reich)は、古くからキリスト教神学で「来るべき理想の国家」を意味する概念として用いられた第三の国とも。ナチスによる呼称が有名

     中世イタリアの思想家フィオーレのヨアキムは世界史三つの時代に区分した。「三時代教説」と呼ばれるこの考え方では、まず「律法の元に俗人が生きる『父の国』時代」、そして「イエス・キリストのもとに聖職者が生きる『子の国』の時代」、そして最後の審判の後に訪れる「自由な精神の下に修道士が生きる『聖霊の国』の時代」の三つに分けられると定義した。ここでは「第三の国」が来るべき理想の国であるというニュアンスを持つこととなった。


    フィオーレのヨアキム
    フィオーレのヨアキム

     国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)統治下のドイツ(ナチス・ドイツ)では盛んに用いられ、当時のドイツを指す言葉として知られる。ただし、公式のドイツ国名として用いられたわけではなく、公式に用いられたのは「Deutsches Reich(ドイツ国)」、もしくは「Großdeutsches Reich(大ドイツ国)」であった。

    クラウス=エッケハルト・ベルシュは、国家社会主義ドイツ労働者党の前身ドイツ労働者党の創設者の一人であったディートリヒ・エッカートがイプセンやメラー・ファン・デン・ブルックの著書に触れる機会があったとしながらも、『第三帝国論』以前の1919年にエッカートが「第三帝国」の用語を使用していたと指摘している。ナチ党自体はメラー・ファン・デン・ブルックの「第三帝国」と、ナチ党の「第三帝国」は無関係であるとしている。

    正確な時期は不明であるが、ナチ党の数ある用語の一つとして「第三帝国」は用いられた。例としては全権委任法成立翌日に発行された『フェルキッシャー・ベオバハター』は「ドイツはめざめた。偉大な仕事が始まった。『第三ライヒ(第三帝国)』の日が到来したのだ。」と書いており、ナチ党の側がいわゆるナチス・ドイツ時代を指す用語としても用いられた。

    1939年6月13日、総統アドルフ・ヒトラーは「第三帝国」の用語を使用しないよう告げた。同年7月10日に国民啓蒙・宣伝省が出した通達によると、この言葉が反ナチ運動の風刺に用いられたからということになっている 。しかし、この措置は徹底されず、ヨーゼフ・ゲッベルスの演説などで「第三帝国」の用語は使われ続けている。ヒトラー自身も1941年12月17日から18日にかけての談話で、「今や、ドイツという時、それは『第三帝国』以外の何ものでもない。」と語っているなど、「第三帝国」の語を日常で使用していた。」


    ヒトラー

    キリスト教における「来るべき理想の国家」、それが「第三の国」です♥ その「第三の国」、つまり最後の審判の後に訪れるはずだった「自由な精神の下に修道士が生きる『聖霊の国』の時代」、それこそが20世紀のナチス・ドイツだったわけですが、このナチス・ドイツは滅びてしまいました

    ただし、ナチス・ドイツの精神はきちんと受け継がれたままなんです♥

    「 ドイツでは、1960年代終わりから20年以上にわたって、ドイツ赤軍のテロが続いた。特に、1970年から71年に掛けて、あちこちで爆弾が炸裂し、銀行が襲撃され、警官が殺され、政治家や資本家が誘拐され、暗殺され、大資本の企業で働いているという理由だけで、ごく普通の従業員までが無残にも巻き添えになった。戦後25年も経ったこの時期、ドイツにこのような闇の時間があったことは、日本ではあまり知られていない。ちなみに、ドイツ赤軍という名前は、日本赤軍を真似たのだという。

     当時、ドイツ赤軍の敵は多岐にわたっていた。まず「アメリカ帝国主義」とそれに与(くみ)する資本主義者たち、ナチの残党とドイツの国家権力の具現者(政治家や警察や裁判所)。それらがすべて「ファシスト」として一まとめにされた。一方、このころドイツでは、家庭でも大学でも若者の反抗がクライマックスに達していた。ドイツ赤軍の隠れ家の特定などに思いのほか時間が掛かったのは、実は、若者の間に隠れたシンパが結構いたからではないかとも言われている。

     この時期は、日本の全共闘世代が戦っていた時期ともちょうど重なっている。もちろん、アメリカのヒッピー・ムーブメントの影響も大いに受けていただろう。ドイツでもアメリカでも日本でも、当時、若者は世界中であらゆる既成の権威を破壊しようと暴れていたのだ。そして、ドイツではそのタガが外れ、過激な犯罪に発展するという不幸が起こった。日本はというと、やはりタガが外れかけたが、過激派は最終的には仲間内の粛正に没頭し、自滅の道を辿った。

     ドイツの若者の抵抗運動の根底で一番重要なポイントとなったのは、他の国にはなかったものだ。つまり、ナチの犯罪に対する総括

     戦後のドイツでは、ナチ時代の権力者の多くがそのまま権力に就いていた。」


    詳しくはこちらをご参照♥

    熊本地震・・・で蠢くパヨク ~ 内田樹と、ドイツ赤軍と、辻元清美。。。



    で、今でも「第三の国」を目指している、それがドイツ人です♥

    この辺りは、また別の機会にご説明させて頂きます。

    問題は、なぜ、そこまで「第三の国」に固執するのでしょうか?

    悩む女の子2

    思考、つまり考える過程を重視するゲルマン・ドイツ人らしいところなのですが、キリスト教はどんなに信仰しても、決して救われることがない宗教だという矛盾がポイントなのだと思われます♥

    「最後の審判」は、世界が滅びたあとに行われるものだと「空想」されています♥ キリスト教でも、イスラム教でも、ユダヤ教でも、同様に「空想」されている、とっても馬鹿げた考え方です♥

    最後の審判 ミケランジェロ
    最後の審判 ミケランジェロ

    「 私のお墓の前で 泣かないでください
     そこに私はいません 眠ってなんかいません
     千の風に 千の風になって
     あの大きな空を 吹きわたっています

     秋には光になって 畑にふりそそぐ
     冬はダイヤのように きらめく雪になる
     朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
     夜は星になって あなたを見守る…

     日本では新井満氏の訳、秋川雅史さんの歌で大ヒットしたのでご記憶の方も多いでしょう。これは『千の風になって』という名前で広く知られるようになった詩の前半部です。もともとの詩は、アメリカ人女性詩人メアリー・フライの作品とされています。…

     この本で、のっけからこうしたポピュラーソングのことをいうのは、別に、その人気にあやかって書いたからではありません。それに、これは洒落たアメリカの歌のようだし、歌い方もオペラのように声量豊かにうたっており、日本の歌のようには聞こえません。この歌は、秋や冬のことが書かれていても、春や夏のことには触れていないので、日本人のように四季を平等に愛する詩人ではなく、寒い秋冬だけをことさらうたう欧米の詩人が作者なのだろうなと考えたりします。日本の歌人であれば、春夏秋冬、昼も夕も読み込み、もっと長い歌詞になっていたでしょう。

     しかしそれでもこの歌は決して欧米的ではないと思うのです。少なくともキリスト教的ではありませんキリスト教では、死んだら「最後の審判」を待ってお墓の中に死体となってずっといるのです(教義上はそうです)。簡単にお墓から抜け出すような自由さはありません。」


    つまり、キリスト教を信仰する限り、死んだあとは、お墓の中でじっと待っていなくてはならないんです。決して、「自由」にはなれないんです♥世界が滅びたあとの「最後の審判」が行われるまでは。。。

    詳しくはこちらをご参照♥

    『神曲』 ダンテとベアトリーチェの物語 ~ キリスト教を信じても、救われることはありません



    「 ルネサンス時代の、ミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロといった画家たちの名を挙げましたが、彼らが、【キリスト教をどのように理解していたのかを具体的に示す例】として、有名な【システィナ礼拝堂の『最後の審判』】を取り上げたいと思います。 この『最後の審判』を見ることによって、キリスト教文明とは何かを理解することができるのです。」

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    最後の審判 ミケランジェロ

    「 『最後の審判』は1535年から1541年頃、ミケランジェロの晩年に描かれた作品です。長い時間がかけられ、描かれた大作ですが、大きな壁面に向かって彼は老年期の力を振り絞って描いた集大成であったわけです。…」

    「  ミケランジェロももちろん、天上の人を描いていますが、そこにいるすべての人を全裸で描いたのです。天国にいる人も裸体で描いていたのです。そして右下の端のほうに、地獄に落ちる人たちを描いています。これもすべて裸です。これはどういうことなのでしょうか。
     彫刻家でもあったミケランジェロは人間の裸体が好きだったということをいう人もいます。しかし、天の人々も裸だというのは、彼らはまだ、最後の審判を受けていないということ】なのです。ですから、彼の作品には最後の審判を待っている人たちが描かれているのです。つまりミケランジェロは、キリスト教の信仰の核心を神の審判を待っている状態においたのだと思われます。

     裸体であるということは、人間の原罪を負った姿が描かれていることになります。原罪とは、アダムとエバが禁断の木の実を食べて楽園を追放されたときに、人間が負うことになった罪です。そのとき彼らは裸なのです。その裸のままの姿で『最後の審判』に描かれているということは、たとえ天上に描かれているとしても、彼らはまだ最後の審判を受けていないということなのです。

      描かれた人々を見ると、みな不安そうな顔をしていて、決して喜んだりしていません。皆一斉に不安な顔付きでキリストを見ているのです。聖アントニウスなどの聖人が周りにいますけれども、聖マタイ、聖ペテロのような彼らも同じように一斉にキリストを見ています。すべての人がまだ審判を下されていない状態で描かれているのです。

     これはヨーロッパの人たちの考え方、文化を象徴しているもので、キリスト教実は問題を何も解決てはくれないしということなのです。しかし、同時に解決してくれるだろうということを待ち望んでいるという態度、その生き方がキリスト教の信仰のあり方だととらえているのです。…」


    詳しくはこちらをご参照♥

    キリスト教は、実は問題を何も解決してはくれません ~ 「待つわ」 あみん



    いかがでしょうか?

    では、本日の最後に、もう一つだけ。

    世界中に禍をもたらしているゲルマン・ドイツは、現在も、中東地域に送り込む「イスラムのウルトラ過激派」の一大供給地なんですよ♥ ぜひ、ゲルマン・ドイツ人の歴史を知って見てください♥ トンデモな歴史だと、ご理解いただけるはずです♥

    詳しくはこちらをご参照♥

    映画史上、永遠に語り継がれる「氷上の戦い」 ~ 「アレクサンドル・ネフスキー」 1938年





    続きは次回に♥




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    Category: 日本
    Published on: Thu,  05 2016 00:00
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