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    神神の微笑 ~ 「モナ・リザ」と並んで、世界で最もよく知られている絵

    『モナ・リザ』レオナルド・ダ・ヴィンチ

    『モナ・リザ』(伊: La Gioconda、仏: La Joconde)は、イタリアの美術家レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた油彩画。
    『モナ・リザ』のモデルは、フィレンツェの富裕な商人で、行政官も務めたフランチェスコ・デル・ジョコンドの妻リザ・デル・ジョコンドだとされている。ポプラ板に油彩で描かれた板絵で、1503年から1506年に制作されたと考えられている。もともとはフランス王フランソワ1世が購入した作品だが、現在はフランスの国有財産であり、パリのルーヴル美術館が常設展示をしている。しばしば「謎」と表現される画題の不確かさ、スケールの大きな画面構成、立体描写の繊細さ、だまし絵めいた雰囲気など、さまざまな点において斬新であったこの作品は、現在に至るまで人々を魅了し続け、研究の対象となってきた。




    戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。

    そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

    私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、

    客観的に情勢を判断する必要があります。

    それでは、この書物を見ていきましょう!




    『 日本の文化を象徴する作品として必ず紹介される絵の一つに葛飾北斎『富嶽三十六景』の「神奈川沖浪裏」があります。【レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」と並んで、世界で最もよく知られている絵】と言ってもいいでしょう。

    富嶽三十六景 神奈川沖浪裏
    富嶽三十六景 神奈川沖浪裏

     この有名な絵は、美術の傑作という視点だけでこれまで論じられてきましたが、私は、【日本の道徳のかたち】を考える上でも、重要なヒントを与えてくれている作品としてとらえています。私が提唱するフォルモロジー(形象学)というのは、目に見えるかたちに込められた意味を読み取る学問ですが、それを応用すると、この絵には、【日本の思想や道徳が集約されている】ように見えるのです。

    悩む女の子2

     ご覧のようにこの絵には、大きな波に揉まれる三隻の舟が小さく描かれ、その舟にしがみつく人間がまた小さく描かれていますが、実は、この三隻の舟が何の舟かはわかっていません。

    驚き顔

    鮮魚をすぐに江戸に送るための押送船(おしおくりぶね)には帆があるのに、この絵の舟にはそれがありません。沖に流されてきた渡し舟のようにも見えます。

    不二三十六景 上総木更津海上
    不二三十六景 上総木更津海上(押送船が描かれている)

     また、神奈川沖というのは東京湾の外側ですが、台風か大嵐でもこなければこのような大波が立つことはないわけで、それほどの悪天候にもかかわらず、空は晴れてくっきりと富士山が見えています。舟が浸水している様子もない。

     このようにつぶさに観察してみると、この絵フィクションであることがよくわかります。

    驚き顔

    つまり北斎【実際の風景ではなく、思想を描いた】と考えるべきです。

    ポイント

    荒海そのものではなく、【自然にひれ伏す人間を、やはり自然の象徴である富士山が見守るという人間と自然との関係を描こうとした】のではないでしょうか。

    天保13年(1842年)、82歳(数え年83歳)頃の自画像(一部)
    天保13年(1842年)、82歳(数え年83歳)頃の自画像(一部)

     こうした自然と人間との関係性そのものに、【日本人が古来培ってきた独自の思想、道徳、秩序の基本形】を見ることができると私は確信しています。

     では、それはいったい、どういうものなのでしょうか?

    悩む女の子2

     日本では、道徳というのは非常にシンプル「頭を下げる」ということなのです。頭を下げるというのは、相手を尊敬する、畏敬するということで、その相手というのは、年上であり、山川木石などより長い命を生きるものすべてです。

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    画像はこちらからお借り致しました♥ ⇒ 國學院大學HP

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     これが今も日本人の行動を律する世界観となっていることを私は本書で強調したいのです。道徳というと何やら堅苦しく古臭い響きがあるために、現代人には関係ないもののように看過されがちですが、実は私たちの日常生活に大きな影響を及ぼしていることを本書ではしっかりと論証したいと思います。

    ポイント

     日本人は、変わったように見えて変わっていないというのが私の持論です。それは、戦前の生活を知らないような若い世代も相変わらず日本人独特の道徳を受け継いでいることからもわかります。

    悩む女の子2

     今も、【日本人にとって礼儀といえば、敬語と頭を下げる挨拶が基本】になっていることは誰も否定しないでしょう。明治時代以降、日本人は国をあげて西洋の文化を真似し、戦後は生活習慣から家のなかまでアメリカナイズされて畳の間もなくなりました。それにもかかわらずなぜ【挨拶の方法は欧米式の握手に変えない】のでしょう?

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    抱き合ったりキスを交わすような挨拶しないのでしょう?

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     外国人が相手なら挨拶として握手を交わす場合があっても、なんとなく気持ちが落ち着かない相手に直接触れるのはかえって失礼という感覚がDNAに刻み込まれているからですが、それ以上に相手との「間」の取り方に満足できないのではないでしょうか。ですから、握手をしていながら同時に頭を下げたりもします。

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     ダーウィン『人間の進化と性淘汰』で、最も生き残るグループの特質相手への「思いやりの強さ」と述べましたが、【日本人ほど人間関係の円満を重んじ、「世間様」「お陰様」と目に見えない関係性にまで頭(こうべ)を垂れる民族は珍しい】でしょう。しかも私たち日本人はその最重要課題を道徳とも宗教行為とも思わずほとんど無意識に行っているのです。

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     これほど強く日本人の生活を支配し世界が驚愕する道徳が、いつ頃、どのようにして生まれたのか、どのような意味を持つのか、その不思議を、歴史をさかのぼり、宗教観や西洋思想と比較しながら考察したいと思っています。』

    日の丸

    いかがでしょうか?

    「日本人にとって礼儀といえば、敬語と頭を下げる挨拶が基本」で、いかに西洋風の生活になっていても、「挨拶の方法は欧米式の握手に変えない」「抱き合ったり、キスを交わすような挨拶にしない」。。。

    皆さんも、そうではありませんでしょうか?

    これが、私たち日本人なんです♥ 無意識のうちに、そうしているんです♥

    同じような例は、他にもたくさんあります。

    「 現代の日本は都市化が進み、国民の多くは農業や農村とは縁遠い生活を送っています。その反動でしょうか、自然回帰思考が強まり、庭やベランダで草花を育てたり、家庭菜園で野菜を栽培したりする人も多いようです。しかしいうまでもなく、それらは江戸時代の農業とは大きく異なっています。同様に、農村に旅して里山や棚田の景観にふれても、私たちは旅行者としてその美しさに感嘆することはできるものの、それを維持するための苦労にまでは、なかなか思いいたりません。

    ヒノキ人工林のある里山P7306340 棚田

    「 農村部も含めた今日の社会が、江戸時代の村社会と大きく変わったとしたら、今に生きる私たちが江戸時代の村を調べる意義は、どこにあるのでしょうか。…
     一つは、私たちは江戸時代の社会の特質を深いところで受け継いでいる、という認識です。現代社会のある部分は、やはり江戸時代の社会の延長線上に生まれています。
     たとえば現代の日本人の代表的な行動特性に、狭い人間関係のなかでの評価には非常に敏感であり、過剰なほどまわりに気を遣うという点があげられます。会社や学校などの小さな社会のなかで、自分の本心を隠してでも周囲から浮かないことを心がけ、場の空気を読んで行動し、集団の和を重視するのです。ところがその世間を一歩出ると、とたんに周囲には無頓着となってしまいます。タバコのポイ捨てや電車内での携帯電話、人前での化粧など、何とも思わなくなってしまうのです。


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    こうした日本人の行動パターンは、狭い村が世間そのものであり、そこから排除されることが即生活基盤の崩壊につながった、江戸時代の村人たちの暮らしから生まれてきたという側面があるのではないでしょうか。…」

    詳しくはこちらをご参照♥

    電車で化粧・・・ができちゃう理由 ~ 日本の素晴らしい「村社会」



    一方で、まったく何も変わらないかというと、そうでもなくって、例えば、私たち日本人の座り方には変化がありました♥

    正座 和服

    「 正座の習慣が普及したのは、早くとも江戸末期から明治以降ということだが、そもそも江戸時代まで、正座という習慣はなかった。正座は御白洲に引き出された罪人のみで、実は胡座(あぐら)か立て膝が、正式の座り方だった。

    白州

    胡座といっても、現代風の胡座ではなく、両膝を大きく左右に開き、足の裏を密着させる座り方である。

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    明治維新以前の武士やその奥方の肖像画に、正座したものが存在しない。徳川歴代将軍の肖像画はインターネットで簡単に見ることができるので、確認するとよい。…正座が定着したのは早くとも、明治の中盤以降だし、今で言う「正座」は実は、江戸時代だと気軽で崩した座り方になる。徳川慶喜の写真で見ると、衣冠束帯の正式な姿では胡座を掻いており、普段着のラフな格好の時に正座している。

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     どうして、こういう流れになるかというと、当初は板の間が大半だったのが、徐々に畳敷きの部屋での生活の割合が増えていき、さらには座布団の普及も大きく影響していると見てよいだろう。

     そもそも、江戸時代の中期まで、健康人には座布団を使用する習慣がなかった。老人や病人のみが使用するもので、うっかり、来客に座布団を出したりすると「儂を年寄り扱いするのか!」と怒らせる、無礼な行為にもなったのである。…」


    詳しくはこちらから♥

    正座は、「罪人」の座り方でした



    このように、私たち日本人は、安易に変化するのでもなく、決して変化しないわけでもなく、受け入れられるものは受け入れそれを日本人に合うように変えてしまい、また日本人に合わない受け入れられないものは頑として受け付けません

    およそ1500年ほど前に、日本へと伝わった「仏教」は、私たち日本人に受け入れられ、発祥地の北インドの仏教とは違った日本独自の発展を遂げていきます。

    ところが、他の宗教、例えば「キリスト教」は、私たち日本人には決して受け入れられませんでした♥

    いったい何故なんでしょうか?

    悩む女の子2

    それは、日本人の思想や道徳とは、「キリスト教」相容れるものではないからです♥

    もし、私たち日本人が「キリスト教」を受け入れるとすれば、それは本来の「キリスト教」ではなくなる日本人がつくり変えた「キリスト教」になる、そしてイエス・キリストでさえ日本人に変えられてしまうだろう。。。こんな風に言っていたのが、芥川龍之介です♥

    芥川 龍之介
    芥川 龍之介

    「 (日本の強みである)「造り変える力」とは、どのような力でしょうか。この言葉は芥川龍之介の短編小説「神神の微笑」の中に出てきます。「神神の微笑」は、安土桃山時代の日本へキリスト教の布教にやって来たイタリア人神父オルガンティノ(実在の人物です)と日本を古来守ってきた老人の霊との対話の物語です。
     キリスト教が、1549年にイエズス会のフランシスコ・ザビエルによって日本に伝えられたことは、私たちが歴史の授業で学んだとおりです。ザビエルの後も多くの宣教師が来日して、キリスト教の布教に努めましたが、困難を極めました。
     この「神神の微笑」では、日本におけるキリスト教の布教が困難なことに悩む日々を過ごしていたオルガンティノの前に一人の老人が現れ、キリストも結局日本では勝つことができないだろうと告げます。
     オルガンティノは、今日も侍が23人キリスト教に帰依したとして、キリストは必ず勝つはずだと反論します。
     これに対しその老人は、ただ帰依するだけならば何人でもキリスト教徒になるだろう、現に日本人は大部分仏陀の教えに帰依している、と言ってこう付け加えます。
     「我我の力と云うのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです」
    と。
     だから、いずれキリストも日本人に変わってしまうだろうと言い残して、老人はオルガンティノの前から消えていきます。

     つまり、キリスト教の神と日本の神神との戦いは、「破壊する力」対「造り変える力」だというのです。」


    詳しくはこちらをご参照♥

    芥川龍之介の見た「日本の強さ」



    それでは最後に、芥川龍之介の『神神の微笑』を、青空文庫(青空文庫HP)さんから転載しておきますので、どうぞ原文に触れてみてください♥


    神神の微笑

    芥川龍之介

     ある春の夕(ゆうべ)、Padre Organtino はたった一人、長いアビト[法衣(ほうえ)]の裾(すそ)を引きながら、南蛮寺(なんばんじ)の庭を歩いていた。
     庭には松や檜(ひのき)の間に、薔薇(ばら)だの、橄欖(かんらん)だの、月桂(げっけい)だの、西洋の植物が植えてあった。殊に咲き始めた薔薇の花は、木々を幽(かすか)にする夕明(ゆうあか)りの中に、薄甘い匂(におい)を漂わせていた。それはこの庭の静寂に、何か日本とは思われない、不可思議な魅力を添えるようだった。
     オルガンティノは寂しそうに、砂の赤い小径(こみち)を歩きながら、ぼんやり追憶に耽っていた。羅馬(ロオマ)の大本山、リスポアの港、羅面琴(ラベイカ)の音(ね)、巴旦杏(はたんきょう)の味、「御主(おんあるじ)、わがアニマ(霊魂)の鏡」の歌――そう云う思い出はいつのまにか、この紅毛(こうもう)の沙門(しゃもん)の心へ、懐郷(かいきょう)の悲しみを運んで来た。彼はその悲しみを払うために、そっと泥烏須(デウス)(神)の御名(みな)を唱えた。が、悲しみは消えないばかりか、前よりは一層彼の胸へ、重苦しい空気を拡げ出した。
    「この国の風景は美しい――。」
     オルガンティノは反省した。
    「この国の風景は美しい。気候もまず温和である。土人は、――あの黄面(こうめん)の小人(こびと)よりも、まだしも黒ん坊がましかも知れない。しかしこれも大体の気質は、親しみ易いところがある。のみならず信徒も近頃では、何万かを数えるほどになった。現にこの首府のまん中にも、こう云う寺院が聳(そび)えている。して見ればここに住んでいるのは、たとい愉快ではないにしても、不快にはならない筈ではないか? が、自分はどうかすると、憂鬱の底に沈む事がある。リスポアの市(まち)へ帰りたい、この国を去りたいと思う事がある。これは懐郷の悲しみだけであろうか? いや、自分はリスポアでなくとも、この国を去る事が出来さえすれば、どんな土地へでも行きたいと思う。支那(しな)でも、沙室(シャム)でも、印度(インド)でも、――つまり懐郷の悲しみは、自分の憂鬱の全部ではない。自分はただこの国から、一日も早く逃れたい気がする。しかし――しかしこの国の風景は美しい。気候もまず温和である。……」
     オルガンティノは吐息(といき)をした。この時偶然彼の眼は、点々と木かげの苔(こけ)に落ちた、仄白(ほのじろ)い桜の花を捉(とら)えた。桜! オルガンティノは驚いたように、薄暗い木立(こだち)の間を見つめた。そこには四五本の棕櫚(しゅろ)の中に、枝を垂らした糸桜(いとざくら)が一本、夢のように花を煙らせていた。
    「御主(おんあるじ)守らせ給え!」
     オルガンティノは一瞬間、降魔(ごうま)の十字を切ろうとした。実際その瞬間彼の眼には、この夕闇に咲いた枝垂桜(しだれざくら)が、それほど無気味(ぶきみ)に見えたのだった。無気味に、――と云うよりもむしろこの桜が、何故か彼を不安にする、日本そのもののように見えたのだった。が、彼は刹那(せつな)の後(のち)、それが不思議でも何でもない、ただの桜だった事を発見すると、恥しそうに苦笑しながら、静かにまたもと来た小径へ、力のない歩みを返して行った。

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     三十分の後のち、彼は南蛮寺(なんばんじ)の内陣(ないじん)に、泥烏須(デウス)へ祈祷を捧げていた。そこにはただ円天井(まるてんじょう)から吊るされたランプがあるだけだった。そのランプの光の中に、内陣を囲んだフレスコの壁には、サン・ミグエルが地獄の悪魔と、モオゼの屍骸(しがい)を争っていた。が、勇ましい大天使は勿論、吼(たけ)り立った悪魔さえも、今夜は朧(おぼろ)げな光の加減か、妙にふだんよりは優美に見えた。それはまた事によると、祭壇の前に捧げられた、水々(みずみず)しい薔薇(ばら)や金雀花(えにしだ)が、匂っているせいかも知れなかった。彼はその祭壇の後(うしろ)に、じっと頭を垂れたまま、熱心にこう云う祈祷を凝らした。
    「南無(なむ)大慈大悲の泥烏須如来(デウスにょらい)! 私はリスポアを船出した時から、一命はあなたに奉って居ります。ですから、どんな難儀に遇あっても、十字架の御威光を輝かせるためには、一歩も怯(ひる)まずに進んで参りました。これは勿論私一人の、能(よ)くする所ではございません。皆天地の御主(おんあるじ)、あなたの御恵(おんめぐみ)でございます。が、この日本に住んでいる内に、私はおいおい私の使命が、どのくらい難(かた)いかを知り始めました。この国には山にも森にも、あるいは家々の並んだ町にも、何か不思議な力が潜(ひそ)んで居ります。そうしてそれが冥々(めいめい)の中(うち)に、私の使命を妨(さまた)げて居ります。さもなければ私はこの頃のように、何の理由もない憂鬱の底へ、沈んでしまう筈はございますまい。ではその力とは何であるか、それは私にはわかりません。が、とにかくその力は、ちょうど地下の泉のように、この国全体へ行き渡って居ります。まずこの力を破らなければ、おお、南無大慈大悲の泥烏須如来(デウスにょらい)! 邪宗(じゃしゅう)に惑溺(わくでき)した日本人は波羅葦増(はらいそ[天界])の荘厳(しょうごん)を拝する事も、永久にないかも存じません。私はそのためにこの何日か、煩悶(はんもん)に煩悶を重ねて参りました。どうかあなたの下部(しもべ)、オルガンティノに、勇気と忍耐とを御授け下さい。――」
     その時ふとオルガンティノは、鶏の鳴き声を聞いたように思った。が、それには注意もせず、さらにこう祈祷の言葉を続けた。
    「私は使命を果すためには、この国の山川(やまかわ)に潜んでいる力と、――多分は人間に見えない霊と、戦わなければなりません。あなたは昔紅海(こうかい)の底に、埃及(エジプト)の軍勢を御沈めになりました。この国の霊の力強い事は、埃及(エジプト)の軍勢に劣りますまい。どうか古(いにしえ)の予言者のように、私もこの霊との戦に、………」
     祈祷の言葉はいつのまにか、彼の唇から消えてしまった。今度は突然祭壇のあたりに、けたたましい鶏鳴(けいめい)が聞えたのだった。オルガンティノは不審そうに、彼の周囲を眺めまわした。すると彼の真後(まうしろ)には、白々(しろじろ)と尾を垂れた鶏が一羽、祭壇の上に胸を張ったまま、もう一度、夜でも明けたように鬨(とき)をつくっているではないか?
     オルガンティノは飛び上るが早いか、アビトの両腕を拡げながら、倉皇(そうこう)とこの鳥を逐い出そうとした。が、二足三足(ふたあしみあし)踏み出したと思うと、「御主(おんあるじ)」と、切れ切れに叫んだなり、茫然とそこへ立ちすくんでしまった。この薄暗い内陣(ないじん)の中には、いつどこからはいって来たか、無数の鶏が充満している、――それがあるいは空を飛んだり、あるいはそこここを駈けまわったり、ほとんど彼の眼に見える限りは、鶏冠(とさか)の海にしているのだった。
    「御主、守らせ給え!」
     彼はまた十字を切ろうとした。が、彼の手は不思議にも、万力(まんりき)か何かに挟はさまれたように、一寸(いっすん)とは自由に動かなかった。その内にだんだん内陣(ないじん)の中には、榾火(ほたび)の明(あか)りに似た赤光(しゃっこう)が、どこからとも知れず流れ出した。オルガンティノは喘(あえ)ぎ喘ぎ、この光がさし始めると同時に、朦朧(もうろう)とあたりへ浮んで来た、人影があるのを発見した。
     人影は見る間まに鮮(あざや)かになった。それはいずれも見慣れない、素朴(そぼく)な男女の一群(ひとむれ)だった。彼等は皆頸(くび)のまわりに、緒(お)にぬいた玉を飾りながら、愉快そうに笑い興じていた。内陣に群がった無数の鶏は、彼等の姿がはっきりすると、今までよりは一層高らかに、何羽も鬨(とき)をつくり合った。同時に内陣の壁は、――サン・ミグエルの画えを描かいた壁は、霧のように夜へ呑まれてしまった。その跡には、――
     日本の Bacchanalia は、呆気(あっけ)にとられたオルガンティノの前へ、蜃気楼(しんきろう)のように漂って来た。彼は赤い篝(かがり)の火影(ほかげ)に、古代の服装をした日本人たちが、互いに酒を酌み交かわしながら、車座(くるまざ)をつくっているのを見た。そのまん中には女が一人、――日本ではまだ見た事のない、堂々とした体格の女が一人、大きな桶おけを伏せた上に、踊り狂っているのを見た。桶の後ろには小山のように、これもまた逞たくましい男が一人、根こぎにしたらしい榊(さかき)の枝に、玉だの鏡だのが下さがったのを、悠然と押し立てているのを見た。彼等のまわりには数百の鶏が、尾羽根(おばね)や鶏冠(とさか)をすり合せながら、絶えず嬉しそうに鳴いているのを見た。そのまた向うには、――オルガンティノは、今更のように、彼の眼を疑わずにはいられなかった。――そのまた向うには夜霧の中に、岩屋(いわや)の戸らしい一枚岩が、どっしりと聳えているのだった。

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     桶の上にのった女は、いつまでも踊をやめなかった。彼女の髪を巻いた蔓(つる)は、ひらひらと空に翻ひるがえった。彼女の頸に垂れた玉は、何度も霰あられのように響き合った。彼女の手にとった小笹の枝は、縦横に風を打ちまわった。しかもその露あらわにした胸! 赤い篝火(かがりび)の光の中に、艶々(つやつや)と浮(うか)び出た二つの乳房(ちぶさ)は、ほとんどオルガンティノの眼には、情欲そのものとしか思われなかった。彼は泥烏須(デウス)を念じながら、一心に顔をそむけようとした。が、やはり彼の体は、どう云う神秘な呪(のろい)の力か、身動きさえ楽には出来なかった。
     その内に突然沈黙が、幻の男女たちの上へ降った。桶の上に乗った女も、もう一度正気(しょうき)に返ったように、やっと狂わしい踊をやめた。いや、鳴き競っていた鶏さえ、この瞬間は頸を伸ばしたまま、一度にひっそりとなってしまった。するとその沈黙の中に、永久に美しい女の声が、どこからか厳かに伝わって来た。
    「私がここに隠こもっていれば、世界は暗闇になった筈ではないか? それを神々は楽しそうに、笑い興じていると見える。」
     その声が夜空に消えた時、桶の上にのった女は、ちらりと一同を見渡しながら、意外なほどしとやかに返事をした。
    「それはあなたにも立ち勝(まさ)った、新しい神がおられますから、喜び合っておるのでございます。」
     その新しい神と云うのは、泥烏須(デウス)を指しているのかも知れない。――オルガンティノはちょいとの間あいだ、そう云う気もちに励まされながら、この怪しい幻の変化に、やや興味のある目を注いだ。
     沈黙はしばらく破れなかった。が、たちまち鶏の群むれが、一斉(いっせい)に鬨(とき)をつくったと思うと、向うに夜霧を堰(せ)き止めていた、岩屋の戸らしい一枚岩が、徐(おもむ)ろに左右へ開(ひら)き出した。そうしてその裂さけ目からは、言句(ごんく)に絶した万道(ばんどう)の霞光(かこう)が、洪水のように漲(みなぎ)り出した。

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     オルガンティノは叫ぼうとした。が、舌は動かなかった。オルガンティノは逃げようとした。が、足も動かなかった。彼はただ大光明のために、烈しく眩暈(めまい)が起るのを感じた。そうしてその光の中に、大勢(おおぜい)の男女の歓喜する声が、澎湃(ほうはい)と天に昇(のぼ)るのを聞いた。
    「おおひるめむち! おおひるめむち! おおひるめむち!」
    「新しい神なぞはおりません。新しい神なぞはおりません。」
    「あなたに逆さからうものは亡びます。」
    「御覧なさい。闇が消え失せるのを。」
    「見渡す限り、あなたの山、あなたの森、あなたの川、あなたの町、あなたの海です。」
    「新しい神なぞはおりません。誰も皆あなたの召使です。」
    「おおひるめむち! おおひるめむち! おおひるめむち!」
     そう云う声の湧き上る中に、冷汗になったオルガンティノは、何か苦しそうに叫んだきりとうとうそこへ倒れてしまった。………
     その夜も三更(さんこう)に近づいた頃、オルガンティノは失心の底から、やっと意識を恢復した。彼の耳には神々の声が、未だに鳴り響いているようだった。が、あたりを見廻すと、人音(ひとおと)も聞えない内陣(ないじん)には、円天井(まるてんじょう)のランプの光が、さっきの通り朦朧(もうろう)と壁画(へきが)を照らしているばかりだった。オルガンティノは呻(うめ)き呻き、そろそろ祭壇の後(うしろ)を離れた。あの幻にどんな意味があるか、それは彼にはのみこめなかった。しかしあの幻を見せたものが、泥烏須(デウス)でない事だけは確かだった。
    「この国の霊と戦うのは、……」
     オルガンティノは歩きながら、思わずそっと独り語(ごと)を洩らした。
    「この国の霊と戦うのは、思ったよりもっと困難らしい。勝つか、それともまた負けるか、――」
     するとその時彼の耳に、こう云う囁ささやきを送るものがあった。
    「負けですよ!」
     オルガンティノは気味悪そうに、声のした方を透(す)かして見た。が、そこには不相変(あいかわらず)、仄暗(ほのぐら)い薔薇や金雀花(えにしだ)のほかに、人影らしいものも見えなかった。

    偶像

     オルガンティノは翌日の夕(ゆうべ)も、南蛮寺(なんばんじ)の庭を歩いていた。しかし彼の碧眼(へきがん)には、どこか嬉しそうな色があった。それは今日一日(いちにち)の内に、日本の侍が三四人、奉教人(ほうきょうにん)の列にはいったからだった。
     庭の橄欖(かんらん)や月桂(げっけい)は、ひっそりと夕闇に聳えていた。ただその沈黙が擾(みだ)されるのは、寺の鳩(はと)が軒へ帰るらしい、中空(なかぞら)の羽音(はおと)よりほかはなかった。薔薇の匂(におい)、砂の湿り、―― 一切は翼のある天使たちが、「人の女子(おみなご)の美しきを見て、」妻を求めに降くだって来た、古代の日の暮のように平和だった。
    「やはり十字架の御威光の前には、穢(けが)らわしい日本の霊の力も、勝利を占(し)める事はむずかしいと見える。しかし昨夜(ゆうべ)見た幻は?――いや、あれは幻に過ぎない。悪魔はアントニオ上人(しょうにん)にも、ああ云う幻を見せたではないか? その証拠には今日になると、一度に何人かの信徒さえ出来た。やがてはこの国も至る所に、天主(てんしゅ)の御寺(みてら)が建てられるであろう。」
     オルガンティノはそう思いながら、砂の赤い小径(こみち)を歩いて行った。すると誰か後から、そっと肩を打つものがあった。彼はすぐに振り返った。しかし後には夕明りが、径(みち)を挟んだ篠懸(すずかけ)の若葉に、うっすりと漂(ただよ)っているだけだった。
    「御主(おんあるじ)。守らせ給え!」
     彼はこう呟(つぶや)いてから、徐(おもむ)ろに頭(かしら)をもとへ返した。と、彼の傍(かたわら)には、いつのまにそこへ忍び寄ったか、昨夜の幻に見えた通り、頸(くび)に玉を巻いた老人が一人、ぼんやり姿を煙らせたまま、徐(おもむ)ろに歩みを運んでいた。
    「誰だ、お前は?」
     不意を打たれたオルガンティノは、思わずそこへ立ち止まった。
    「私は、――誰でもかまいません。この国の霊の一人です。」
     老人は微笑(びしょう)を浮べながら、親切そうに返事をした。
    「まあ、御一緒に歩きましょう。私はあなたとしばらくの間、御話しするために出て来たのです。」
     オルガンティノは十字を切った。が、老人はその印(しるし)に、少しも恐怖を示さなかった。
    「私は悪魔ではないのです。御覧なさい、この玉やこの剣を。地獄の炎に焼かれた物なら、こんなに清浄ではいない筈です。さあ、もう呪文なぞを唱えるのはおやめなさい。」
     オルガンティノはやむを得ず、不愉快そうに腕組をしたまま、老人と一しょに歩き出した。
    「あなたは天主教(てんしゅきょう)を弘(ひろ)めに来ていますね、――」
     老人は静かに話し出した。
    「それも悪い事ではないかも知れません。しかし泥烏須(デウス)もこの国へ来ては、きっと最後には負けてしまいますよ。」
    「泥烏須(デウス)は全能の御主(おんあるじ)だから、泥烏須に、――」
     オルガンティノはこう云いかけてから、ふと思いついたように、いつもこの国の信徒に対する、叮嚀(ていねい)な口調を使い出した。
    「泥烏須(デウス)に勝つものはない筈です。」
    「ところが実際はあるのです。まあ、御聞きなさい。はるばるこの国へ渡って来たのは、泥烏須(デウス)ばかりではありません。孔子(こうし)、孟子(もうし)、荘子(そうし)、――そのほか支那からは哲人たちが、何人もこの国へ渡って来ました。しかも当時はこの国が、まだ生まれたばかりだったのです。支那の哲人たちは道のほかにも、呉(ご)の国の絹だの秦(しん)の国の玉だの、いろいろな物を持って来ました。いや、そう云う宝よりも尊い、霊妙(れいみょう)な文字さえ持って来たのです。が、支那はそのために、我々を征服出来たでしょうか? たとえば文字(もじ)を御覧なさい。文字は我々を征服する代りに、我々のために征服されました。私が昔知っていた土人に、柿(かき)の本(もと)の人麻呂(ひとまろ)と云う詩人があります。その男の作った七夕(たなばた)の歌は、今でもこの国に残っていますが、あれを読んで御覧なさい。牽牛織女(けんぎゅうしょくじょ)はあの中に見出す事は出来ません。あそこに歌われた恋人同士は飽(あ)くまでも彦星(ひこぼし)と棚機津女(たなばたつめと)です。彼等の枕に響いたのは、ちょうどこの国の川のように、清い天(あま)の川(がわ)の瀬音(せおと)でした。支那の黄河(こうが)や揚子江(ようすこう)に似た、銀河(ぎんが)の浪音ではなかったのです。しかし私は歌の事より、文字の事を話さなければなりません。人麻呂はあの歌を記すために、支那の文字を使いました。が、それは意味のためより、発音のための文字だったのです。舟(しゅう)と云う文字がはいった後のちも、「ふね」は常に「ふね」だったのです。さもなければ我々の言葉は、支那語になっていたかも知れません。これは勿論人麻呂よりも、人麻呂の心を守っていた、我々この国の神の力です。のみならず支那の哲人たちは、書道をもこの国に伝えました。空海(くうかい)、道風(どうふう)、佐理(さり)、行成(こうぜい)――私は彼等のいる所に、いつも人知れず行っていました。彼等が手本にしていたのは、皆支那人の墨蹟(ぼくせき)です。しかし彼等の筆先(ふでさき)からは、次第に新しい美が生れました。彼等の文字はいつのまにか、王羲之(おうぎし)でもなければちょすいりょうでもない、日本人の文字になり出したのです。しかし我々が勝ったのは、文字ばかりではありません。我々の息吹(いぶき)は潮風(しおかぜ)のように、老儒(ろうじゅ)の道さえも和(やわら)げました。この国の土人に尋ねて御覧なさい。彼等は皆孟子(もうし)の著書は、我々の怒に触(ふ)れ易いために、それを積んだ船があれば、必ず覆(くつがえ)ると信じています。科戸(しなと)の神はまだ一度も、そんな悪戯(いたずら)はしていません。が、そう云う信仰の中(うち)にも、この国に住んでいる我々の力は、朧(おぼろ)げながら感じられる筈です。あなたはそう思いませんか?」
     オルガンティノは茫然と、老人の顔を眺め返した。この国の歴史に疎(うと)い彼には、折角(せっかく)の相手の雄弁も、半分はわからずにしまったのだった。
    「支那の哲人たちの後(のち)に来たのは、印度(インド)の王子悉達多(したあるた)です。――」
     老人は言葉を続けながら、径(みち)ばたの薔薇(ばら)の花をむしると、嬉しそうにその匂を嗅かいだ。が、薔薇はむしられた跡にも、ちゃんとその花が残っていた。ただ老人の手にある花は色や形は同じに見えても、どこか霧のように煙っていた。
    「仏陀(ぶっだ)の運命も同様です。が、こんな事を一々御話しするのは、御退屈を増すだけかも知れません。ただ気をつけて頂きたいのは、本地垂跡(ほんじすいじゃく)の教の事です。あの教はこの国の土人に、おおひるめむちは大日如来(だいにちにょらい)と同じものだと思わせました。これはおおひるめむちの勝でしょうか? それとも大日如来の勝でしょうか? 仮りに現在この国の土人に、おおひるめむちは知らないにしても、大日如来は知っているものが、大勢あるとして御覧なさい。それでも彼等の夢に見える、大日如来の姿の中うちには、印度仏(ぶつ)の面影(おもかげ)よりも、おおひるめむちが窺(うかが)われはしないでしょうか? 私は親鸞(しんらん)や日蓮(にちれん)と一しょに、沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の陰も歩いています。彼等が随喜渇仰(ずいきかつごう)した仏(ほとけ)は、円光のある黒人(こくじん)ではありません。優しい威厳(いげん)に充ち満ちた上宮太子(じょうぐうたいし)などの兄弟です。――が、そんな事を長々と御話しするのは、御約束の通りやめにしましょう。つまり私が申上げたいのは、泥烏須(デウス)のようにこの国に来ても、勝つものはないと云う事なのです。」
    「まあ、御待ちなさい。御前(おまえ)さんはそう云われるが、――」
     オルガンティノは口を挟はさんだ。
    「今日などは侍が二三人、一度に御教(おんおしえ)に帰依(きえ)しましたよ。」
    「それは何人(なんにん)でも帰依するでしょう。ただ帰依したと云う事だけならば、この国の土人は大部分悉達多(したあるた)の教えに帰依しています。しかし我々の力と云うのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです。」
     老人は薔薇の花を投げた。花は手を離れたと思うと、たちまち夕明りに消えてしまった。
    「なるほど造り変える力ですか? しかしそれはお前さんたちに、限った事ではないでしょう。どこの国でも、――たとえば希臘(ギリシャ)の神々と云われた、あの国にいる悪魔でも、――」
    「大いなるパンは死にました。いや、パンもいつかはまたよみ返るかも知れません。しかし我々はこの通り、未だに生きているのです。」
     オルガンティノは珍しそうに、老人の顔へ横眼を使った。
    「お前さんはパンを知っているのですか?」
    「何、西国(さいこく)の大名の子たちが、西洋から持って帰ったと云う、横文字(よこもじ)の本にあったのです。――それも今の話ですが、たといこの造り変える力が、我々だけに限らないでも、やはり油断はなりませんよ。いや、むしろ、それだけに、御気をつけなさいと云いたいのです。我々は古い神ですからね。あの希臘(ギリシャ)の神々のように、世界の夜明けを見た神ですからね。」
    「しかし泥烏須(デウス)は勝つ筈です。」
     オルガンティノは剛情に、もう一度同じ事を云い放った。が、老人はそれが聞えないように、こうゆっくり話し続けた。
    「私はつい四五日前まえ、西国(さいこく)の海辺(うみべ)に上陸した、希臘(ギリシャ)の船乗りに遇(あ)いました。その男は神ではありません。ただの人間に過ぎないのです。私はその船乗と、月夜の岩の上に坐りながら、いろいろの話を聞いて来ました。目一つの神につかまった話だの、人を豕(いのこ)にする女神(めがみ)の話だの、声の美しい人魚(にんぎょ)の話だの、――あなたはその男の名を知っていますか? その男は私に遇(あ)った時から、この国の土人に変りました。今では百合若(ゆりわか)と名乗っているそうです。ですからあなたも御気をつけなさい。泥烏須(デウス)も必ず勝つとは云われません。天主教(てんしゅきょう)はいくら弘(ひろ)まっても、必ず勝つとは云われません。」
     老人はだんだん小声になった。
    「事によると泥烏須(デウス)自身も、この国の土人に変るでしょう。支那や印度も変ったのです。西洋も変らなければなりません。我々は木々の中にもいます。浅い水の流れにもいます。薔薇(ばら)の花を渡る風にもいます。寺の壁に残る夕明(ゆうあか)りにもいます。どこにでも、またいつでもいます。御気をつけなさい。御気をつけなさい。………」
     その声がとうとう絶えたと思うと、老人の姿も夕闇の中へ、影が消えるように消えてしまった。と同時に寺の塔からは、眉をひそめたオルガンティノの上へ、アヴェ・マリアの鐘が響き始めた。

    Nanbansen2.jpg

     南蛮寺(なんばんじ)のパアドレ・オルガンティノは、――いや、オルガンティノに限った事ではない。悠々とアビトの裾(すそ)を引いた、鼻の高い紅毛人(こうもうじん)は、黄昏(たそがれ)の光の漂(ただよ)った、架空(かくう)の月桂(げっけい)や薔薇の中から、一双の屏風(びょうぶ)へ帰って行った。南蛮船(なんばんせん)入津(にゅうしん)の図を描かいた、三世紀以前の古屏風へ。
     さようなら。パアドレ・オルガンティノ! 君は今君の仲間と、日本の海辺(うみべ)を歩きながら、金泥(きんでい)の霞に旗を挙げた、大きい南蛮船を眺めている。泥烏須(デウス)が勝つか、おおひるめむちが勝つか――それはまだ現在でも、容易(ようい)に断定(だんてい)は出来ないかも知れない。が、やがては我々の事業が、断定を与うべき問題である。君はその過去の海辺から、静かに我々を見てい給え。たとい君は同じ屏風の、犬を曳(ひ)いた甲比丹(カピタン)や、日傘をさしかけた黒ん坊の子供と、忘却の眠に沈んでいても、新たに水平へ現れた、我々の黒船(くろふね)の石火矢(いしびや)の音は、必ず古めかしい君等の夢を破る時があるに違いない。それまでは、――さようなら。パアドレ・オルガンティノ! さようなら。南蛮寺のウルガン伴天連(バテレン)!

    (大正十年十二月)


    天岩戸神話の天照大神(春斎年昌画、明治20年(1887年))
    天岩戸神話の天照大神(春斎年昌画、明治20年(1887年))


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