坂東太郎(ばんどうたろう)って何? ~ 日本に「家」ができた江戸時代

    利根川
    利根川(とねがわ)は、大水上山を水源として関東地方を北から東へ流れ太平洋に注ぐ河川。河川法に基づく政令により1965年(昭和40年)に指定された一級河川・利根川水系の本流である。「坂東太郎(ばんどうたろう)」の異名を持つ。河川の規模としては日本最大級で、東京都を始めとした首都圏の水源として日本の経済活動上重要な役割を有する、日本を代表する河川の一つである。




    戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。

    そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

    私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、

    客観的に情勢を判断する必要があります。

    それでは、この書物を見ていきましょう!




    『 17世紀は、【人口と耕地面積が急増】した、日本史上でも特筆すべき時期でした。

    我が国人口の長期的な推移
    我が国人口の長期的な推移

     1600年頃の全国総人口は約1500万~1600万人、耕地面積は約163万5000町と推計されています。それが享保六(1721)年には約3128万人、耕地面積約297万町へと急増しました。人口は約2倍耕地面積は約1・8倍に増加したのです。

    驚き顔

     増加分の内のほとんどは、17世紀中のものだったと思われます。以後、江戸時代中・後期になると、人口・耕地面積とも増加率は大きく低下し、弘化三(1846)年の総人口は約3229万人と、微増にとどまっています。つまり、【人口爆発と大開発は17世紀を特徴づけるもの】と考えて、まず間違いないなです。

     ところで、これは単なる量的な変化ではありません【村社会の内部には、大きな質的変化】生じていました。それは【百姓の家の成立】です。

    ポイント

     みなさんは、たとえ百姓だろうと、なら古くからあっただろうに、と思うかもしれません。

    悩む女の子2

    しかしここでいうは、みなさんがイメージする現代の家、つまり「家族」とは異なっています。基本的に、【現代の家族は“生活”の単位であり、“生産”の単位ではありません】

    ポイント

     父親は毎日出勤して仕事は職場で行い、母親は家庭で主に家事・育児を担い、大きくなった子供は別の場所で働いているというような家族像を思い浮かべてください。あるいは、両親が共稼ぎで、朝それぞれの職場に出勤し、子供は学校に通っているという家族でも結構です。いずれにしても、家族構成員は、家を単位にまとまって働いているわけではありません。もちろん現代でも、農漁業や小売業、中小企業経営など、家族が経営の単位となっている場合は少なくありません。しかし一般的な考え方として、【職住分離が主流】になっているのではないでしょうか。

    isonoke1.png

     これに対して【江戸時代の家は、何よりもまず、共同で生業を営む生産の単位】でした。は、「家名」「家業」「家産」の一体性をもち、過去から未来へ永続するものと観念された、生産・生活の基礎単位だったのです。したがって、【家は現世に生きる者だけでなく、死んだ祖先やこれから生まれる子孫までが含まれていました】。これも現代とは異なる点です。

    ポイント

     「家名」とは、家に代々伝わる名乗りです。【江戸時代の百姓は、一般に苗字をもっていました】

    驚き顔

    ただ、それを公的な場で名乗ることを許された人は、ごく一部でした。そこで各家の家長代々同じ名前(勘左衛門とか吉兵衛とか)を名乗って家名とし、それによって家の連続性を象徴的に表示したのです。家を継ぐ男子は若いうちだけ別の名を名乗り、父親から家督を相続すると、父と同じ名前に改名します。名前全体ではなく、名前のうちの一字を代々継承する場合も多くありました。こうした襲名慣行は、現代でも歌舞伎や落語の世界などで見られる通りです。

    歌舞伎 落語

     次に「家業」といえば、江戸時代の百姓の多くは農業であり、漁業や林業などの場合もありました。また「家産」とは、土地や家屋、主要な生産用具などを中心に、家に代々伝わる財産のことを表します。

    村

     はそのときどきの家長によって統括されましたが、【家長は所持地を自由に分割したり、売却・譲渡したりすることはできません】でした。

    驚き 2

    家長先祖から伝わった家の土地を、少しも減らすことなく子孫に伝える責任がある、とされていたからです。百姓の所持地先祖からの預かりものたる家産であって、家長個人や家族が勝手に処分してはなりませんでした

    驚き 2

    【江戸時代の百姓の土地所持は、基本的に個人ではなく家を単位としていた】のです。

    ポイント

     このような性格をもつは、16~17世紀頃に、一般の百姓層の間で広範に成立していきました。原始・古来以来、農民は存在していましたが、15世紀頃まではその経営は不安定でした。安定した家産を継続的に維持することは難しく、したがって家も広範には成立しえなかったのです。江戸時代は、百姓が一般的に家を形成したという点で、【日本史上画期的な時代だった】といえるでしょう。』

    日の丸

    いかがでしょうか?

    「江戸時代は、百姓が一般的に家を形成したという点で、日本史上画期的な時代だった」と著者は書いています。また、「人口は約2倍、耕地面積は約1・8倍に増加」するといった「人口爆発と大開発は17世紀を特徴づけるもの」とも書いています。

    このように、私たちの日本が飛躍的に発展した時代それが、江戸時代なんです♥

    そして、それらの飛躍的発展をもたらしたのが、徳川家康に始まり代々受け継がれていく大規模河川工事、今でいうところの「インフラ整備事業」でした♥

    徳川家康像(狩野探幽画、大阪城天守閣蔵)
    徳川家康像(狩野探幽画、大阪城天守閣蔵)

    天下を統一した徳川家康は、京都や大阪といった当時の首都圏ではなく、湿地帯であった江戸に幕府を開きました。わざわざ江戸に舞い戻ったんです♥

    天下統一以前、豊臣秀吉に転封を命じられ(1590年)、不毛の湿地だった江戸に入った徳川家康は、次々とインフラ整備に着手しました。1592年には日比谷入江を埋め立てます。

    和田倉門交差点
    和田倉門交差点付近(かつての日比谷入江)

    さらに、1594年には「会(あい)の川締切り」に着手していますが、ここに徳川の一大事業である「利根川東遷事業」が始まったんです♥

    会の川締切りの跡地に立つ川俣締切阯の石碑
    会の川締切りの跡地に立つ川俣締切阯の石碑

    「坂東(関東)」にある日本で一番大きい川という意味で「坂東太郎(ばんどうたろう)」と呼ばれた「利根川」は、もともと、江戸へと流れ込む河川でした。

    江戸時代以前の利根川、荒川、渡良瀬川水系
    江戸時代以前の利根川、荒川、渡良瀬川水系

    その「坂東太郎(利根川)」の流れを、太平洋側へと流れるように河川の改修を行った、それが「利根川東遷事業」です♥

    現在の利根川、荒川、渡良瀬水系
    現在の利根川、荒川、渡良瀬水系

    ちなみに、まったくの余談になりますが(笑)、江戸時代に「入道雲(積乱雲)」のことを江戸の方言「坂東太郎」とも呼んでいたそうです♥

    入道雲(積乱雲)

    他の地方でも、同じように方言で読んでいたそうで、丹波太郎(京阪)、山城次郎(京阪)、比叡三郎(京阪)、信濃太郎(越前)、比古太郎(あるいは、英彦太郎)(九州)、阿波太郎(讃岐地方)、石見太郎(長門地方)・・・等々。

    なんか「坂東太郎」愛嬌を感じてしまいますね♥

    ガッキー

    私たちの日本に飛躍的な発展をもたらした江戸時代

    そんな江戸時代のインフラ整備を分かりやすく解説しているのが、こちらの書物です♥

    詳しくはこちらをご参照♥

    「勝海舟」と「ゲリラ豪雨」

    「堤防のケッカイ」は、どうして「欠壊」と書かないの



    ぜひ、私たち日本の素晴らしい「江戸時代」を学んでみてください♥

    続きは次回に♥




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    Category: 国史
    Published on: Sun,  06 2016 00:00
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