御存知ですか?古代日本の民族大移動 ~ あさっては『紀元節』の日です 

    紀元節
    紀元節(きげんせつ)は、古事記や日本書紀で日本の初代天皇とされる神武天皇の即位日をもって定めた祭日。日付は2月11日。1873年(明治6年)に定められ、1948年(昭和23年)に占領軍 (GHQ)の意向で廃止されたかつての祝祭日の中の四大節の一つ

    この2月11日の日付は日本書紀で神武天皇が即位したとされる紀元前660年(神武天皇元年)1月1日 (旧暦)の月日を、明治に入り新暦に換算したものである。紀元節廃止の後は復活の動きが高まり、1967年(昭和42年)に2月11日は「建国記念の日」として国民の祝日となった。

    詳しくはこちらをご参照♥

    日本の11の祝日がすべて変更されました ~ SEALDsと北朝鮮を結ぶ線











    戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。

    そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

    私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、

    客観的に情勢を判断する必要があります。

    それでは、この書物を見ていきましょう!




    『 北陸地方・中部地方・西関東地方ダイズやアズキの圧痕(あっこん)のサイズから見て、縄文時代中期に大型化することから、【縄文時代の前期の終わり頃には栽培が開始されていた】ようである。

    驚き顔

    そして、縄文時代中期末にはこれらの地域で遺跡数が激減するため、ダイズやアズキの栽培が次第に【西日本の方へ拡散】していく様子をうかがうことができる。

    驚き顔

    我が国で最も古いダイズ属の資料は、宮崎県王子山遺跡(おうじやまいせき)から発見された約1万3000年前のツルマメの圧痕である。

    王子山遺跡

    その次に古いダイズ圧痕は、佐賀県東名遺跡(ひがしみょういせき)の例、およそ8000年前の圧痕である。これもサイズから見てまだ野生段階のものであったと考えられる。

    佐賀新聞
    国史跡の指定へ「東名遺跡」具申書を提出 佐賀新聞

    九州地方の縄文人たちが野生のツルマメを利用するのはきわめて早かったが、その後【縄文時代後期になるまで栽培サイズのマメ類の発見はなく、それらが栽培へ進展した形跡はない】

    ポイント

    これに対し【中部地方や西関東地域では縄文時代早期からツルマメ圧痕が発見され、それらが前期、中期を経て大型化していくことが立証されている】

    驚き顔

    この地域では、【大規模な定住集落遺跡が縄文時代中期を中心に展開】するが、中期末からは遺跡数が激減し、遺跡も小規模になる

    ポイント

    これに対し九州地方では、アズキやダイズの圧痕種子や炭化種子も【縄文時代後期初頭頃から宮崎県を中心とした東九州地方で出現し始め】後期後半から晩期にかけて九州中に広がるようになる。この拡散段階のマメ資料の大きさは、十分に【栽培ダイズやアズキのサイズ】を具えている。

    ポイント

     種子の大型化のメカニズムは、人間が大きな種子を選んで畑(畠)の【地中深くまく】ことで、小さな種子は発芽できなくなり、大きな種子の遺伝子だけが淘汰されて生き残っていくことで説明がつく。縄文人たちは、おそらく最初は野生のダイズやアズキを採集していたが、そのうち、その中の大きいものを選び出し土中にまいて育て始め、そのような行為を1000年以上繰り返すことによって種子を大きくしていったものと考えられる。

    驚き顔

    その根拠の一つに、【農具と考えられる打製石鍬(いしぐわ)】がある。

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    打製石鍬(いしぐわ)

    中部地方や西関東地方では、ダイズ・アズキ資料の増加に歩調を合わせるように、【縄文時代前期末頃からこの打製石鍬がたくさん出始め、中期にピークを迎える】

    ポイント

    これまでは、これらの道具はヤマイモなどの根茎類(こうけいるい)を掘った道具ではないかと考えられていたが、私はこれらを、マメを栽培する際に土を耕したり雑草を払ったりするために使用した農具ではないかと考えた。縄文時代における本石器の列島内での消長を見てみると、前期~中期にかけての分布の中心は中部地方や東日本であるが、後期~晩期になると西日本、そして九州への分布の中心が移ってくる。これもまったくマメ資料と同じ動きをしているのである。

    ポイント

     縄文時代の耕作法としてよく引き合いに出されるものに【焼畑】がある。ある焼畑民の事例を引き合いに出して、「焼畑はこん棒一本あればできる」と乱暴な言い方をする人もいるが、それは間違いである。現在【宮崎県椎葉村(しいばそん)で行われている焼畑では、まいた種子に土をかぶせたり草を取ったりするのには鍬を用いている】

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    宮崎県椎葉村 焼畑風景

    何を収穫したいのか、どの程度収量を多くしたいのか、そのような条件の違いによって使用する道具も異なってくる。マメ類の動きと同調する石鍬は、畑(畠)をしつらえる道具であり、仮に縄文時代のマメ類が焼畑で栽培されたとしても、石鍬が播種や除草用の農具として使われたのではないかと考えている。

     中部高地では、縄文時代中期に集落の大規模化のピークを迎え、後期には遺跡数が激減する。それ以降【西日本、とくに九州地方では、中部地方ほどの規模ではないが、後期前葉頃から遺跡規模が大きくなり、竪穴住居址の数も増加し、後期後半から晩期初頭にそのピークを迎える】この現象は、先の石鍬の動きと合わせてみると【あたかもマメ栽培技術をもった縄文人たちが九州へ移住してきた】かのようである。』

    日の丸

    いかがでしょうか?

    私たち日本の古代における民族の移動の動きに、お気づきになられましたでしょうか?

    これこそが、日本の神話が物語っている出来事なんです♥

    では、まとめて見ていきましょう♥

    先程出てきました、約1万3000年前(11000B.C.)の野生のツルマメの圧痕が発見された宮崎県王子山遺跡(おうじやまいせき)では、最近の調査で、動物質食料と植物質の食料が煮炊きされていた可能性が示されています。

    詳しくはこちらから♥⇒縄文時代草創期土器の煮炊きの内容物と植物利用 工藤雄一郎

    歴史区分 5

    これより遡る時代の加熱調理痕跡も、私たちの日本で発見されていますが、これは世界最古のものです♥

    詳しくはこちらから♥ ⇒ 世界最古の調理跡 メモ

    余談ですが、私たちの日本よりも古い調理痕跡が支那で発見という「大誤報」をやらかしてしまったメディアが多くありました♥

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    何が大誤報なのか、御存知でしょうか?

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    私たちの日本で発見された正真正銘の調理痕跡は、【土器そのものの年代を調査】していますが、支那のそれは、【なんと洞窟の年代を調査しただけ】なんです♥ 上の記事にも、ハッキリとそう書かれていますね♥

    その古い古い洞窟に年代を何故か調べていない土器が落ちていてその土器に焦げ跡があっただけ、なんです♥ 

    驚き顔

    「 2012年6月、中国江西省洞窟遺跡で2万年前の土器発見、なるニュースが共同通信から流されました。しかし、この年代は土器の炭素から確定されたものではなく、“洞窟年代の推定値”でした。共同通信は科学に弱い要注意な通信会社です。…」

    詳しくはこちらをご参照♥

    スッキリ分かる!日本と朝鮮半島の古代の歴史 ~ 科学に弱い共同通信



    で、支那のマガイモノと違って正真正銘の世界最古の調理痕跡が発見された遺跡の一つが、福井県若狭町の鳥浜貝塚です。

    若狭三方縄文博物館
    若狭三方縄文博物館

    この遺跡では、私たち日本の伝統的代表工芸「漆(うるし)工芸」の起源があるんですよ♥

    ご興味がある方は、こちらの秀逸なレポートをご紹介させて頂きます♥ 
    ぜひ、旅行気分で古代の日本に触れてみてください^^

    縄文の時代観を換えた「縄文のタイムカプセル」 鳥浜貝塚を訪ねる 福井県若狭町三方
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    またまた、余談ですけど、英語で「Japan」と「japan」の違いをご存知ですか♥

    全部小文字で書く「japan」は、「漆器」を意味しています♥ つまり、日本と言えば「漆」なんです♥

    実際、鳥浜貝塚で発見された漆塗りの木器は、同時代の支那の漆技術を遥かに凌駕する技術水準であったことも判明しています。

    同じように、「China」と「china」の違い、あるいは「Korea」と「korea」の違いを御存知でしょうか?ご興味があれば、下のリンク先の記事をご覧ください♥

    悩む女の子2

    詳しくはこちらをご参照♥

    「Japan」と「japan」の違い



    さて、本題に戻りまして、佐賀県東名遺跡(ひがしみょういせき)でも見られる、およそ8000年前(6000B.C)の圧痕もそうですが、この頃の九州の縄文時代の人々は、野生のツルマメやダイズを「採集」しています。縄文時代後期になるまで、栽培サイズのマメ類の発見もなく、野生種から栽培へ進展した形跡はありません。

    つまり、九州では、縄文時代の中期(3000B.C.~2000B.C.)までに、現在判明していることから推測しますと、「農耕」がなかったことになります♥

    一方、日本列島の東側で発見されるダイズやアズキの圧痕(あっこん)のサイズは、縄文時代中期に大型化しています。つまり、縄文時代の前期の終わり頃(3000B.C.)には「農耕」が開始されていたんです♥

    九州地方で、豆の粒が大きい栽培ダイズが拡がっていくのは、縄文時代の後期後半(1500B.C.~)から晩期にかけてです♥

    また、農具である打製石鍬は、縄文時代前期~中期(~2000B.C.)にかけて、中部地方や東日本を中心に分布していますが、縄文時代後期(2000B.C.~)~晩期では、西日本・九州に分布の中心が移ってくるんです♥ 

    マメの動きと同じように。。。

    古代の人口分布

    つまり、従来、東日本で「農耕」をしていた縄文時代の人々(縄文時代の前期・中期:上図の上から2番目と3番目の頃)その技術を持って西日本、特に九州へと拡がっていった(縄文時代の後期・晩期:上図の上から4番目と5番目の頃)ということを示しているんです♥

    『古事記』は、伊耶那岐(いざなき)と伊耶那美神(いざなみ)によって、私たち日本の国土がどのように生まれたのか(これを「国生み」といいます)を今に伝えています。

    「 別天神(ことあまつかみ)と神世七代(かみよのななよ)が成った物語の次に、伊耶那岐神(いざなきのかみ)と伊耶那美神(いざなみのかみ)による「国生み」と「神生み」の物語に移ります

     天つ神(あまつかみ)[高天原(たかまのはら)の神全体のこと]はその総意によって、神世七代のうち、最後に成った伊耶那岐神と伊耶那美神に、下界の海をお指し示しになり「この漂っている国を修め理(つく)り固め成せと命ぜられ、美しい玉で飾られた天の沼矛(あめのぬぼこ)を賜い、ご委任なさいました。

     伊耶那岐神と伊耶那美神は、・・・海に矛を下し、海水を「こおろ、こおろ」と掻き鳴らして矛を引き上げましたすると、その先から海水がしたたり落ち、塩が固まって島ができました・・・その後、二柱(ふたはしら)の神はこの島を拠点に、次々と島をお生みになります・・・」


    詳しくはこちらをご参照♥

    『古事記』 最大の難関♥



    天瓊を以て滄海を探るの図(小林永濯・画、明治時代) 伊耶那岐神(右)と伊耶那美神(左)
    天瓊を以て滄海を探るの図(小林永濯・画、明治時代) 伊耶那岐神(右)と伊耶那美神(左)

    そして、二柱の神がお生みになられた島々が、「淡路島」「四国」「隠岐」「九州」「壱岐島」「対馬」「佐渡島」「畿内」です。

    これら八つの島、「八島(やしま)」が先に生まれたので、私たち日本の国のことを「大八島国(おおやしまのくに)」という、と。そのように、『古事記』は伝えています

    見事に、佐渡島を除いてすべて西日本・九州にありますね♥ 

    もともと東日本に住んでいた縄文時代の人々が、西へと向かって拡がっていった、だからこそ、西日本や九州に「新しい国土」が拡がっていったんです♥

    その時代は、これまで見てきたことから、縄文時代後期(2000B.C.~)以降になります。

    で、重要な遺跡が、九州南部宮崎県にある本野原遺跡(もとのばるいせき)です。

    本野原遺跡 6

    本野原遺跡(もとのばるいせき)は、中央に祭祀空間の広場を持った環状の大規模集落で、西日本では最大級の遺跡です♥

    本野原遺跡(もとのばるいせき)は、「縄文中期」から「縄文後期」(2000B.C.)の遺跡です。

    本野原遺跡 2
    本野原遺跡(写真手前中央に遺跡、写真奥は北東方向)

    この遺跡の最大の特徴は、本野原遺跡は西日本にありながら東日本の影響が強く反映されている点です♥

    さて、高天原の神々、つまり天つ神(あまつかみ)は、その総意によって、伊耶那岐神と伊耶那美神に対して、「国を修め理り固め成せ」と命じていますが、この高天原は、いったいどこにあったのでしょうか?それは東日本にあるはずです。

    悩む女の子2

    その高天原は、もちろん関東にあります♥ 

    鹿島神宮
    鹿島神宮

    「 『神社の系譜』(宮元健次著)では、「『常陸(ひたち)』とは『常世(とこよ)の国』の意味で、不老不死の聖地を指し、伝承では天に最も近い場所であると考えられてきたものという」とあります。しかも常陸には、「高天原(たかまがはら)」という地名の場所があるのです。そこは鹿島神宮から約2キロメートル東に離れた、神宮の飛び地である境内。

    「敷地の東隅に“鬼塚”と呼ばれる全長80メートルほどの大古墳があり、その上に立つと太平洋が一望のもとにおさめられ、西北に筑波山を望む絶景の地」(『鹿島神宮』東実著)

    で、美しい松林が一面に生い茂る東側はすぐ鹿島灘の海岸という位置にあります。この飛び地の本社、茨城県鹿嶋市にある鹿島神宮と、すぐ近くの千葉県香取市にある香取神宮が実は非常に重要な存在なのは意外と知られていません。
     そもそも呼称に「神宮」が付くのは、最高に格の高い神社のみです。平安時代の『延喜式神名帳』で「神宮」の呼称で記されたのは、鹿島、香取、伊勢の三社だけだったのです。以後、明治までその扱いは変わりませんでした。「神宮」と付く貴重な三社のうち、二社までが関東にあり、そのうちの一社の境内として「高天原」が残されている…ここには、なにか深い意味があるのではないでしょうか。

     高天原とは高いところ、神々がおられるところを思わせ、富士山を思わせ、富士山の見えるところという意味もあるのでしょう。実は鹿島神宮、香取神宮は、富士山が見える範囲のほぼ東端に位置しています。つまり、鹿島神宮からは筑波山と富士山が見え、その飛び地てある「高天原」は富士山が見える東端であり、日が昇るところなのです。

     ちなみに伊勢神宮のある伊勢のあたりは、平地から富士山が見えるほぼ西の端と言われています。富士山を仰ぐことができる東の端と西の端に三社しかない「神宮」が置かれていることにも、なんらかの意味が隠されているように思います。」


    鹿島神宮 高天原
    鹿島神宮と高天原

    詳しくはこちらをご参照♥

    富士山を仰ぐことができる「東の端」と「西の端」



    もう、おわかりですね♥ 関東の高天原の神々の総意によって命ぜられた伊耶那岐神と伊耶那美神は、西日本・九州に国土を拡げました

    そして、伊耶那岐神と伊耶那美神は「国生み」の後に、「神生み」を行いますが、途中で伊耶那美神が亡くなられ「国作り」は頓挫してしまいます。

    亡くなった伊耶那美神を追って、伊耶那岐神が黄泉(よみ)の国に行かれたところ、その朽ち果てた伊耶那美神を見て、逃げ帰ってくる伊耶那岐神の様子を、『古事記』は伝えています。そして、伊耶那岐神は御自身の身を清められました

    では、その場所は、どこなのでしょうか?

    悩む女の子2

    『古事記』は、こう伝えています♥

    「笠紫(つくし)の日向(ひむか)の橘小門(たちばなのおど/河口の意味)の阿波岐原(あわぎはら)に御出ましになり、禊祓(みそぎはらい)をなさいました」

    笠紫(筑紫)、つまり九州の、日向、つまり宮崎県の、阿波岐原で禊祓(みそぎはらい)をなされたと。。。

    そこは、宮崎シーガイアの近くに、今も残っています

    7-16-08.jpg

    宮崎県宮崎市阿波岐原町産母127にある、「江田神社」です♥

    江田神社 宮崎

    江田神社

    江田神社 2
    江田神社

    この地で、伊邪那岐命が身を清められたんです♥

    「 伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が亡くなった愛妻伊邪那美命(いざなみのみこと)を追って黄泉(よみ)の国に行った際、伊邪那美命の朽ち果てた亡骸を見て、自分の身が穢れたと嘆き、本来の清い自分を取り戻すために禊祓(みそぎばら)いをしたのです。」

    詳しくはこちらをご参照♥

    なぜ、日本では死者をそのまま大地に葬ったか



    『古事記』は、今に伝えています。

    伊邪那岐命が、この禊祓(みそぎはらい)をなされたときに、たくさんの神々が成りました。そして、いよいよ最後に顔をおすすぎになられたところ、左目からは「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」が成り、右目からは「月読命(つくよみのみこと)」が成り、そして鼻からは「建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)」が成りました♥

    天照大御神(あまてらすおおみかみ)は高天原を知らせよ(知らす=治(し)らす、治めよの意)、建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)は海原を知らせよと命じられました。しかし、建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)は、その後追放されてしまいます。このあと、有名な「出雲の国譲り」へとお話は進んでいきます。

    この辺りは、また別の機会にさせて頂きます。

    大切なポイントは、「縄文中期」から「縄文後期」(2000B.C.)にかけて、日本列島の東から西へと民族の移動が認められる点です♥そして、そこから弥生時代を通して人口増大し、国土も拡大していきます。やがて、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の孫、邇邇芸命(ににぎのみこと)が、この国を治めるために高天原から降り立ちます。これが「天孫降臨」です♥

    天孫降臨
    天孫降臨

    その時、お住みになられた場所について、このように『古事記』は伝えています。

    「 邇邇芸命(ににぎのみこと)は「ここは韓国(からくに)に向かい、笠沙之岬(かささのみさき)に道が通じていて、朝日がまっすぐに射す国、夕日が照る国である。だから、この地はとても良い地だ」と仰せになって、地の底にある岩盤に届くほど深く穴を掘って、太い宮の柱を立て、高天原に届くほど高く千木(ちぎ)を立てて、そこにお住みになりました。 」

    笠沙之岬は鹿児島県南さつま市笠沙町の野間岬です。

    笠沙

    韓国(からくに)とは、もちろん九州南部に連なる霧島山の最高峰韓国岳(からくにだけ)のことです♥

    韓国岳
    韓国岳

    韓国岳 2

    その韓国岳(からくにだけ)に向かうところが、高千穂峰であり、その山頂に「天逆鉾(あまのさかほこ)」があります♥ 天孫降臨の地として伝えられている場所が、ここです♥

    高千穂峰

    現存する山頂の天逆鉾
    山頂の天逆鉾

    やがて、邇邇芸命(ににぎのみこと)の孫が、日向の地を出立し、畿内を目指します。そして、ついに初代神武天皇として即位され、私たちの祖国である日本を建国するんです♥ それが明後日の2月11日の『紀元節』です♥ 今から、2676年前のことになります♥

    詳しくはこちらをご参照♥

    「いくたまさん」が伝える真実 ~ 神武東征の証明





    続きは次回に♥




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    Category: 日本
    Published on: Tue,  09 2016 00:00
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    2 Comments

    カムバック  

    おはようございます

    なるほどと、うなりました。民族大移動は、その当時の気候も関係しているのでしょうか?寒くなったので南へ、かなぁ?
    やはり卑弥呼は九州なのかもと思います。奈良の人間にとって、ちと悲しい 笑
    日本はすごい洗練された民族なんだと嬉しく思います。一人一人誇りを持って生きていけたらいいのに、言葉にだすことを憚れる 只々残念です。いつまで70年前のことを反省させられるのでしょうか?私はそもそも反省する事、ひとつもないと思いますがね。
    共同通信は、反日が大好きなところみたいですね。報道と聞くと、頭の中で嘘つきと変換してしまいます。笑 続き楽しみにしてます。ありがとうございました。

    2016/02/09 (Tue) 07:54 | REPLY |   

    みっちゃん  

    Re: おはようございます

    カムバックさん、こんにちは^^
    「民族大移動は、その当時の気候も関係しているのでしょうか」⇒ 大正解です♥17000B.C.から始まった世界的な海面上昇(縄文海進)は4000B.C.の縄文前期にピークアウトしています。つまり、それまでの海は、今よりももっと内陸部にあって、当時の地形は山の中から発見される貝塚からも推定されています。で、海面が低下する海退と同時に、降雨が山間部の土砂を河口に運ぶことで、平野部が形成されていく沖積作用(要するに埋め立て)が全国各地に見られるようになり、現在ある平野部ができあがります。当然、それまで居住していた場所の環境が変わったことから、縄文時代の人々は時間をかけて移動したはずなんです。

    邪馬台国は、九州北部福岡県の女山史跡森林公園あたりです。邪馬台国は、ただの一地方豪族です。支那の歴史書に記載されている「倭」とは、これらを含めた主に九州北部・中国地方あたりの数々の縄文時代の豪族を十把一絡げに呼んだ蔑称ですね。重要なのは、「倭」=日本(大和)と解釈している人がいることです。

    「倭」とは、ごく一部の地域(西日本の一地域)を指す中華思想による蔑称です。

    そもそも、日本人の祖先の縄文時代の人々が住んでいた中心は、東日本です♥
    それが西日本に渡ってくる。そして統一へと向かう。その統一を成し遂げた地こそ、神武天皇が東征された奈良です♥
    これが大和であり、日本です♥ですから、奈良県が羨ましいです♥

    2016/02/10 (Wed) 15:12 | REPLY |   

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