コクゾウムシが打ち破る「常識」 ~ 縄文時代の「農耕」の証明

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    画像はこちらからお借り致しました♥ ⇒ コクゾウムシと縄文土器 

    コクゾウムシ(穀象虫、学名 Sitophilus zeamais)は、コウチュウ目(鞘翅目)・オサゾウムシ科のゾウムシの一種。世界各地に生息するイネ科穀物の有名な害虫で、和名もそれを表したものである。また、日本では縄文時代後期の土器圧痕からの検出例があるなど穀物栽培の開始と同時に見られるとして、稲作とともに渡来したとするのが定説であったがこれを覆すとされる発見がなされている

    主食である稲(米)を食い荒らす事から「米食い虫」の異名が付けられている。

    体長は2.1–3.5mmとゾウムシ上科の中では小さい部類に入る。体は赤褐色や暗褐色で、やや細長い。背面には細かく密な点刻がある。発達した強固な後翅をもち、飛行能力も優れている。体も小さく、穀物の貯蔵庫などに容易に侵入する。

    口吻で穀物に穴をあけて産卵し、孵化した幼虫は穀物を食い荒らす。気温が18°C以下であると活動が休止、23°C以上になると活発に活動する。1匹のメスが一生に産む卵は200個以上とされる。

    米びつに紛れ込んだ場合、成虫は黒色なので気がつきやすいが、幼虫は白色なので気づきにくい。ただしどちらも水に浮くので慎重に米研ぎをすれば気づくことがある。もし万が一気づかずに炊いてしまったり食べてしまっても害はない

    赤褐色のコクゾウムシは、農家の間では越冬コクゾウムシ(冬を越している)、暗褐色はその年に孵化したものと言われている。(確証は低いが大体の農家はそのように判別していることが多い) また、光に反応するため、米に虫が湧いたという状態になった場合は、ムシロに米を広げてコクゾウムシを排除する方法をとっている。





    戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。

    そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

    私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、

    客観的に情勢を判断する必要があります。

    それでは、この書物を見ていきましょう!




    『 本書に頻繁に登場する「コクゾウムシ」、何言おう、本書の重要な主人公である。こいつを主人公に抜擢したその理由についてまず述べてみたい。

    コクゾウムシ
    コクゾウムシ

    そもそも今では「コクゾウムシ(穀象虫)」なるものをご存じない方がほとんどであろう。大学の授業や高校への出前授業で、「コクゾウムシを知っている人?」とたずねても、手を挙げる学生や生徒の数はわずかであり、またその数も年ごとに減っている。少々やりづらい。

    「コクゾウムシ」とは、米櫃(こめびつ)の中に湧く黒くて体長3~4ミリほどの象の鼻のような長い口をもつゾウムシの一種であり、学名をSitophilus zeamais MOTSCHULSKYという、いわゆる米喰いムシである。米粒に卵を産みつけ成虫になって米粒から出てくる。米を食べ、その繁殖力は並大抵ではない。一年間で雌雄一対が2000匹に達するという記録もある。筆者も、学生時代に学食で今日はヒジキご飯かとぬか喜びし、こいつが入っていて面食らった経験がある。

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    昔は結構いろいろなところで見かけたが、最近ではすっかりお目にかからなくなってしまった。

     でも、【米喰いムシなら、縄文時代じゃなく、弥生時代じゃないかという、賢明な読者の方】もいらっしゃるであろう。

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    しかし【最近こいつが縄文時代の遺跡からたくさん見つかり始めたのである】

    ポイント

    まさに【米櫃に湧くように、たくさん…】

    驚き顔

    その理由は本文を読んでいただきたいが、【このような不思議な発見がまだまだ考古学の世界にはある】こと、そしてそれらを見つけ出したのは【「圧痕(あっこん)法」と呼ばれるきわめて特異な手法】であること、それらをすべて象徴するのがこの「コクゾウムシ」なのである。本書で展開する他の話も、この「コクゾウムシ」と同じ意味をもつ。【従来の固定観念では理解できないようなことが、新しい見方や手法によって明らかになってきた】、というのが本書の大意である。

    ポイント

     もちろん、縄文人という言葉も、研究者によっては抵抗があろう。【縄文人なる集団はどこにも存在しない】からである。ここでいう「縄文人」とは縄文文化をもつ地域に暮らした人々という意味以上のものはない。ある意味、「日本人」という概念に似ているかもしれない。ただし、「縄文時代の人々」と呼ぶのは長いので、学術的厳密性よりイメージを優先して「縄文人」と呼ぶことにした。

     実をいうと、筆者は縄文時代を専門に研究しているわけではない縄文土器や土偶の専門的な知識はほとんど持ち合わせていない。…その程度のものが縄文時代について語れるのか、と不安になった読者の方もいらっしゃるであろうが、【研究の中心にあっては見えないもの、気づかないものが、周辺から見えることがある】。また、【専門家ではないため、「当たり前」が当たり前に思えず、素朴な疑問を抱き、それが結果的にいくつかの新しい発見につながった】

    ポイント

     実際、筆者のこれまでの経験は、筆者自身が驚く、【いわば「想定外の発見」】に支えられている。まさに、【科学の世界でよくいわれる、「常識の中にいては新たな発見はない」の体験版】である。

    ポイント

     本書に通底するもう一つの隠れたテーマは、【狩猟採集社会や牧畜社会の「農耕」の証明】である。

    驚き顔

    「農耕」の定義は非常に複雑であり、厳密に使用するとイメージを損ねるため、そのまま使用している。【教科書で習った、縄文時代は狩猟採集社会であり、弥生時代以降に農耕社会へ突入するという「常識」は、本書では「非常識」】と考えている。

    ポイント

    【その象徴の一つが「ダイズ」である】【ダイズは弥生時代に稲作とともに中国大陸から渡ってきた作物と、つい最近まで農学や考古学で信じられてきたもの】である。

    大豆

    しかし、これを【縄文人たちがおよそ6000~7000年前に栽培し始め、しかもそれは中部高地や西関東という、東日本で始まっていた】のである。

    驚き顔

    さらに【縄文人たちの植物栽培はより古い時代にさかのぼる可能性もでてきた】

    驚き 2

     また、この視点に立って、現在、【遊牧民の舞台であるモンゴル高原での「農耕」の歴史を研究】している。縄文時代とはまったく関係がないが、【「ない」と常識的に考えられているものに、「新たな手法や視点」をもってチャレンジする】という意味では、縄文時代の農耕の場合とまったく同じ研究姿勢である。

    驚き 2

     このような視点に気づかせてくれたのが「コクゾウムシ」である。ただし【ここで述べたことはそのほとんどが、学界では「非常識」で、まだ「常識」へと昇華していない】。つまり、研究途上のものばかりであり、結論めいたことを出せていない。疑問ばかりが残って、はなはだ心もとない。よくそのような中途半端な状態で登場できたなと、お叱りも受けよう。しかし、この筆者の興奮と感動をぜひ伝えたくて執筆をお引き受けした

     ただし、この筆者の興奮と何か変わるぞという予感は、【おそらく5年後、10年後に学説として定着し、新たな縄文時代観となる】のではと、おぼろげな自信を持っている。学生諸子や若い研究者の方にぜひこの感動と興奮を伝え、筆者の「常識」を打ち破るさらなる「非常識」を見つけていただきたいと願うばかりである。』

    日の丸

    いかがでしょうか?

    昨日、一昨日と、同じような話題が続いていますけれども、従来の左巻き単純左翼が多い文系の考古学者や歴史学者の作り上げた「常識」を、実証や科学的データに基づく理系の自然科学者たちが蹴散らし始めている、それが現在起きている現象です♥

    私たちの日本では、縄文時代は遅れていて稲作という農耕が始まる弥生時代は進歩・発展した時代だって、そういう風に戦後教育では一貫して教え込んでいます♥ 実際、このように「思い込んでいる」日本人の方々が、まだまだ多数いらっしゃいます♥

    ですが、その作られた「常識」が覆りはじめているんです♥

    私たち日本の正真正銘の悠久の歴史を表にしてみると、御覧のとおりになります♥(詳しくは昨日の記事を御覧下さい♥)

    歴史区分 4

    足元で、どんどん研究が進められていますが、左巻き単純左翼が多い文系の考古学者や歴史学者は、自分たちの主張を間違いだと認めたくないために大陸由来の外来種である「稲」の伝来時期、そして「稲作」の行われた時期を盾にして、縄文時代の「農耕」を認めないんです♥

    極左の朝日新聞でも、このとおり♥

    朝日新聞 コクゾウムシ 種子島
    (甲乙閑話)縄文農耕論を揺るがすムシ 朝日新聞

    「稲作」や「稲」は、まだまだ今後の課題ですが、ここで大切なのは「コクゾウムシ」が日本の至る所で発見され縄文土器を調べれば調べるほど無数にその痕跡が発見され続けているという事実です♥

    これは、縄文時代日本の至る所で、明らかに「農耕」が行われていた証拠なんです♥

    耕地を整備し、計画的にタネをまいて栽培し、収穫するといった高度な文明、それが縄文時代に存在していたということなんです♥

    まさに、『真の考古学者・相沢忠洋』による発見にも等しい成果です♥

    相沢忠洋



    「 明治以来、考古学の常識は「日本の歴史は縄文時代から始まった」でした。ですから1万数千年前の関東ローム層が出てくると発掘は終了、その下には遺跡はないとされていたのです。
     この常識を覆したのが相澤忠洋氏であり、昭和21年、彼は群馬県笠懸村の丘陵部切り通し道路に露出した関東ローム層から石器を発見しました。その後、わが国では旧石器時代の発見が相次ぎ、その数1万カ所を超え増え続けています。

     例えば、1998年、青森県の旧石器遺跡・大平山元Ⅰ遺跡から土器が発見されました。その内部に付着した炭素から得られた年代は1万6000年前、世界最古の土器が日本で作られていたのです。(注:2012年6月、中国江西省洞窟遺跡で2万年前の土器発見、なるニュースが共同通信から流されました。しかし、この年代は土器の炭素から確定されたものではなく、“洞窟年代の推定値”でした。共同通信は科学に弱い要注意な通信会社です。)…

     世界最古の土器文明は約8~9千年前のことでしたから、日本では遙かに早くから土器文化が広まっていたのです。

     このように日本では無数ともいえる旧石器遺跡や縄文遺跡があり、旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代へと歴史は途切れることなく続き、今日に至っています。」


    詳しくはこちらをご参照♥

    スッキリ分かる!日本と朝鮮半島の古代の歴史 ~ 科学に弱い共同通信



    しかし、この『真の考古学者・相沢忠洋』による功績は、その発見当初は横取りされてしまったんです♥

    以下は、Wikipediaの抜粋です。

    「 相沢 忠洋(あいざわ ただひろ、1926年6月21日 - 1989年5月22日)は、日本の考古学者。納豆などの行商をしながら独学で考古研究を行っていたが、1949年(昭和24年)に群馬県新田郡笠懸村(現・みどり市)(岩宿遺跡)の関東ローム層から打製石器を発見し、それまで否定されてきた日本の旧石器時代の存在を証明した。

    1949年(昭和24年)以前、日本における人類の歴史は縄文時代からとされており、旧石器時代の存在は否定されていた。特に火山灰が堆積した関東ローム層の年代は激しい噴火のため人間が生活できる自然環境ではなかったと考えられており直良信夫などによる旧石器の発見が報告されることはあったが、激しい批判にさらされていた。

    そうした時代背景の中で、1946年(昭和21年)、相沢は、岩宿の切り通し関東ローム層露頭断面から、石器(細石器)に酷似した石片を発見した。ただし旧石器と断定するまでには至らず、確実な旧石器を採取するため、相沢は岩宿での発掘を独自に続けていった

    1949年(昭和24年)夏、相沢は岩宿の関東ローム層中から明らかに人工品と認められる槍先形石器(黒曜石製の尖頭器)を発見した。

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    相沢は岩宿の切り通しの崖面から採取した石器や石片を携行して考古学者を訪ねては赤土からた石器が出土する事実を説明して回ったがまともに取り合う学者はいなかった。この説明のために相沢桐生から東京までの長距離を自転車で行き来した。 同年初秋、この石器を相沢から見せられた明治大学院生芹沢長介(当時)は、同大学助教授杉原荘介(当時)に連絡し、黒曜石製の両面調整尖頭器や小形石刃などの石器を見せた。赤土の中から出土するという重大性に気づいて、同年9月11日~13日、岩宿の現地で、杉原、芹沢、岡本勇、相沢ら6人で小発掘(本調査に先立つ予備調査)が行われた。そして、11日、降りしきる雨の中をも厭わず掘り続け、杉原の手により、卵形の旧石器が発掘された。後に刃部磨製石斧と名付けられる。

    その後、同年10月2日から10日あまりにわたって、杉原を隊長とする明治大学を中心とした発掘調査隊岩宿遺跡の本格的な発掘を実施し、その結果、旧石器の存在が確認され、縄文時代に先行し土器や石鏃を伴わない石器文化の存在が確実な事実となり、旧石器時代の存在が証明されることとなった。また、日本列島の人類史の始まりを一挙に万をもって数えられる更新世に遡らせた

    しかし、当時この重大な発見について、学界や報道では相沢の存在はほとんど無視された。明治大学編纂の発掘報告書でも、相沢の功績はいっさい無視され、単なる調査の斡旋者として扱い、代わりに旧石器時代の発見はすべて発掘調査を主導した杉原荘介の功績として発表した。

    さらには相沢に対して学界の一部や地元住民から売名・詐欺師など事実に反する誹謗・中傷が加えられた。この頃の郷土史界は地元の富裕層(大地主、大商人などいわゆる旦那衆)や知識層(教員、医師、役人など)などで構成されており、岩宿遺跡の存在する北関東も例外ではなかった。このため、これといった財産も学歴も有しない相沢の功績をねたみ「行商人風情が」などと蔑視し、彼の功績を否定する向きもあったという。

    だが、相沢の考古学への情熱は冷めることはなく、地道な研究活動を続け数多くの旧石器遺跡を発見した。次第に相沢への不当な批判は消えていき、日本の旧石器時代の存在を発見した考古学者として正当な評価がようやくなされ、1967年(昭和42年)には吉川英治賞を受賞した。岩宿の発見から18年後のことである。晩年は、最古の旧石器を求めて夏井戸遺跡の発掘に精魂を傾けた。

    1989年(平成元年)5月22日、桐生厚生病院にて脳内出血の再発により午前7時38分死去、桐生市薬王寺に眠る。同日、勲五等瑞宝章が国より贈られた。 11月5日、笠懸村より名誉村民第一号の称号が贈呈された。」


    本当に、酷い話ですね♥

    最後に、評価が真っ二つに分かれているこの本に関してのお話。

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    以前に読んだことがあるこの本(当ブログではご紹介していませんが、とても興味深い内容です♥)と、通底しているテーマがあるような気がします♥

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    ヒントといたしまして、こちらの動画をご参照ください♥(14:40あたりから)



    続きは次回に♥




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    Category: 日本
    Published on: Sat,  06 2016 00:01
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    1 Comments

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    2017/10/26 (Thu) 20:09 | REPLY |   

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