明治維新って何? ~ 明治政府が一生懸命に守った権利

    エカテリーナ宮殿
    エカテリーナ宮殿(エカテリーナきゅうでん、ロシア語: Екатерининский дворец)は、サンクトペテルブルク中心部から南東25kmの郊外の避暑地ツァールスコエ・セローに存在する、ロシア帝国時代のロココ建築の宮殿。

    宮殿の名前は、ピョートル大帝の后でもあった、第2代ロシア皇帝エカテリーナ1世(在位:1725年 - 1727年)に由来する。エカテリーナがドイツの建築家Johann-Friedrich Braunsteinを雇って夏の避暑用の離宮として1717年に作らせたのが最初のもので、その後、第4代ロシア皇帝アンナ(在位:1730年 - 1740年)がロシア人建築家に命じ増築させた。

    とりわけ「琥珀の間」(en:Amber Room)が有名である。琥珀は、第二次世界大戦のレニングラード包囲戦中にドイツ軍に持ち去られたが、1979年から始まった復元作業により、2003年に完全に復元された。

    1791年、日本人の漂流民大黒屋光太夫が帰国を願うため、エカテリーナ2世(在位:1762年 - 1796年)に謁見した場所としても知られる。

    The original Amber Room, 1931
    The original Amber Room, 1931

    2003年に再建された琥珀の間
    2003年に再建された琥珀の間

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    戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。

    そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

    私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、

    客観的に情勢を判断する必要があります。

    それでは、この書物を見ていきましょう!




    『 榎本武揚(えのもとたけあき)をあまり語りたくないもうひとつの理由は、彼の実際に行った外交が【第二のタブー「国民国家」に関わるもの】だからです。

    榎本 武揚
    榎本 武揚

    【明治維新をひと言で言えば、日本国民による日本国家を創ったということ】に尽きます。

    ポイント

    これは一面、アイヌ人や琉球人を日本というひとつのネーションステート(国民国家)に取り込んでいく過程でした。同時に【アイヌ人や琉球人を含めてたった一人でも国民が外国に傷つけられたら、日本は国家を挙げてその人の権利を守るために戦う】ということでもありました。だから【明治政府は琉球人の権利を守るために清国と張り合い、アイヌ人の権利を守るためにロシアと交渉した】んです。

    ポイント

     榎本の外交交渉は…強姦殺人されたアイヌ人女性の権利を守るために大国ロシアと渡り合い、サンクトペテルブルグまで乗り込んでいって責任を問い詰め続けています。…

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    サンクトペテルブルグ

     アイヌ人も琉球人も日本国民だから当然政府はその権利を守るために戦うんだということです。よく、アイヌや琉球の人たちは日本人と明らかに違うと言われますよね。でも実際には、言語学的にみると、アイヌ語は確かに日本語とは異なる言語ですが、ロシア語とはもっとかけ離れている。琉球の言葉は日本語の方言のひとつと考えられていて、そんなに違いはありません。それでも、自分たちが違うというのであれば、違うでいいのです。しかし、【それはエスニック(民族)としての違いなのであって、ネーション(国民)としての違いではない】

     【エスニックとは、主権国家を持つ意思と能力がない集団、ネーションはその意思と能力がある集団】のことです。

    ポイント

     主権国家を持つ意思と能力の有無は、結局武力を使って戦うことで決着をつけるしかありません。よく、民族主義(ナショナリズム)良いことのように思われがちですが、それは誤解です。民族主義というのは、人殺しの正当化ですから、民族主義を正しく理解すれば殺し合いになってしまいます。…

    驚き顔

     民族主義が難しいのは、たとえば、チベットエスニックなのかネーションなのかということを問うようなときです。

    悩む女の子2

    中国必死になって

    「チベットやウイグルはエスニックである。ネーションはチャイニーズ、すなわち、漢民族だけである」

    と言っていますが【明らかに違う】エスニックとネーションの違いは極めて政治的なものです。

    ポイント

    【学界は明治維新が国民国家を創った意義を絶対に言わない】。実際、私も体験したことですけど、学界では国民国家をどう批判するのかの議論は許されても、国民国家を評価する議論は許されないんですよ。

    驚き 2

     しかも中国のことになるとすさまじいダブルスタンダードです。

    驚き顔

    日本国が「日本ネーション」としてまとまっているステートであるとは言わないくせに、中国は「漢ネーション」でまとまったステートであると言いたがる

    驚き顔

    中国人の歴史学者がそれを言うならわかりますよ。ところが日本人が言うんです

    驚き顔

    中国人は当然言いますよね。だけど、チベット人やウイグル人は立場が全然違うわけじゃないですか。なぜ日本人が中国人に合わせなければいけないのか。また、中国人はチベット問題を指摘されるたびに「日本にだってアイヌ問題があるじゃないか」と言います。そのために日本国内で沖縄やアイヌの問題をやらせている面もあるんです。…

    驚き顔

    そういう運動の音頭を取っている日本人の学者もいます…はっきり書いておきますが、【日本で日中関係史や中国史研究をしている人は中国からお金をもらっています】

    驚き顔

    食べていけないオーバードクターやポストドクターが「中国に来て日本語教師をやりませんか」と誘われるのです。立派な博士号を持ちながらコンビニのバイトをやっているような人が、「中国に行って普通に中国語を学びながら日本語を教えるだけで、自分の好きな研究をしていいですよ」と言われたら、一生逆らえません。いざ、そういう人が准教授や教授になって、中国の都合の悪いことを言わないだけで研究費が下りてくるとなれば、中国の悪口を言うわけがありません

    ポイント

     さらに言えば、東洋史の人たちは本当のことをわかっていて黙っています。一方で、日本史研究者は本当に信じています【学界にはこのような根本的な歪みがあります】。』

    日の丸

    いかがでしょうか?

    「榎本武揚は負け役としてしか語られてきませんでした」と著者は言っています。そして、そこに「日本の歴史問題をめぐる多くのタブーが含まれている」とも♥ で、そのタブーの一つが【天皇の権威】であり、もう一つのタブーが【国民国家の成立】ということなんです♥

    「強姦殺人されたアイヌ人女性の権利を守るために大国ロシアと渡り合い、サンクトペテルブルグまで乗り込ん」だ榎本武揚が、交渉の末にまとめたのが、樺太・千島交換条約(サンクトペテルブルク条約)です♥ 私たち日本の北方における領土、つまり私たち日本とロシア帝国の国境が確定した条約です♥

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    では、日本の北方における領土の経緯を、外務省のHPからの抜粋で確認してみましょう♥

    「 日魯通好条約(1855年)
     
     日本は、ロシアに先んじて北方領土を発見・調査し、遅くとも19世紀初めには四島の実効的支配を確立しました。19世紀前半には、ロシア側も自国領土の南限をウルップ島(択捉島のすぐ北にある島)と認識していました。日露両国は、1855年、日魯通好条約において、当時自然に成立していた択捉島とウルップ島の間の両国国境をそのまま確認しました。」


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    「 樺太千島交換条約(1875年)

     日本は、樺太千島交換条約により、千島列島(=この条約で列挙されたシュムシュ島(千島列島最北の島)からウルップ島までの18島)をロシアから譲り受けるかわりにロシアに対して樺太全島を放棄しました。」


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    そして、日露戦争の勝利によって、さらにロシアから領土の割譲を受けます。

    「 ポーツマス条約(1905年)

     日露戦争後のポーツマス条約において、日本はロシアから樺太(サハリン)の北緯50度以南の部分を譲り受けました。」


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    やがて、大東亜戦争へと突入しますが、この頃の国際ルールが以下になります。

    「 大西洋憲章(1941年8月)及びカイロ宣言(1943年11月)における領土不拡大の原則

     1941年8月、米英両首脳は、第二次世界大戦における連合国側の指導原則ともいうべき大西洋憲章に署名し、戦争によって領土の拡張は求めない方針を明らかにしました(ソ連は同年9月にこの憲章へ参加を表明)。  また、1943年のカイロ宣言は、この憲章の方針を確認しつつ、「暴力及び貪欲により日本国が略取した」地域等から日本は追い出されなければならないと宣言しました。ただし、北方四島がここで言う「日本国が略取した」地域に当たらないことは、歴史的経緯にかんがみても明白です。 」


    そして、敗戦に至ります。

    「 ポツダム宣言(1945年8月受諾)

     ポツダム宣言は、「暴力及び貪欲により日本国が略取した地域」から日本は追い出されなければならないとした1943年のカイロ宣言の条項は履行されなければならない旨、また、日本の主権が本州、北海道、九州及び四国並びに連合国の決定する諸島に限定される旨規定しています。しかし、当時まだ有効であった日ソ中立条約(注)を無視して1945年8月9日に対日参戦したソ連は日本のポツダム宣言受諾後も攻撃を続け同8月28日から9月5日までの間に北方四島を不法占領しました(なお、これら四島の占領の際、日本軍は抵抗せず、占領は完全に無血で行われました)。

    (注)日ソ中立条約(1941年4月)
     同条約の有効期限は5年間(1946年4月まで有効)。なお、期間満了の1年前に破棄を通告しなければ5年間自動的に延長されることを規定しており、ソ連は、1945年4月に同条約を延長しない旨通告。 」


    敗戦後の占領期を経て、本当の意味での戦争が終わり、私たち日本は主権を回復します。(※国際法上はこの条約の発効により日本と、多くの連合国との間の「戦争状態」が終結しました。)

    「 サンフランシスコ平和条約(1951年9月)

     日本は、サンフランシスコ平和条約により、ポーツマス条約で獲得した樺太の一部と千島列島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄しました。しかし、そもそも北方四島は千島列島の中に含まれませんまたソ連はサンフランシスコ平和条約には署名しておらず同条約上の権利を主張することはできません。」


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    詳しくはこちらから♥

    外務省HP 北方領土問題の経緯(領土問題の発生まで)

    さて、大東亜戦争末期にあった沖縄での戦闘は盛んに語られていますが、ユダヤ人が作った社会主義国家のソ連が行ってきた侵略行為については、ほとんど語られることがありませんね♥ 史上初の社会主義国家ソ連を作って支配したのがユダヤ人だったことは、昨日触れている通りです♥ 

    ロシア皇帝がいた時代のロシア帝国は、まともな国家です♥ ところが、ロシア革命後にできたユダヤ人・社会主義国家のソ連は、極めて残虐で、卑劣です。ユダヤ人が主体であるが故に、そうなるのは当然ですけど♥

    それでは、そんなユダヤ人による社会主義国家・ソ連がやったことを見てみましょう♥

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    「 1945年(昭和20年)8月時点で、千島列島の最北端にあった占守島(しゅむしゅとう)は正式な日本の領土だったのである。1945年(昭和20年)8月15日、日本がポツダム宣言を受け入れたことで…戦争は終結する…幸いにもドイツのように国家が分断されることはなかった。
     だが、連合国の当初の計画には…分割占領計画が存在していたし、スターリンは8月16日に、アメリカ大統領ルーズベルトに対し、北海道の釧路と留萌(るもい)以北をソ連が占領することを認めるように要求している。ルーズベルトは千島列島の占領は認めたものの、北海道の占領は拒否したと言われているが、実際にソ連は南樺太や千島列島の最北端にある占守島などに侵攻している。…


    北海道分断

     終戦の5日前に、日ソ中立条約を一方的に破って日本に対して宣戦布告したソ連は、中国大陸の満州や内蒙古にも攻め込んできた。中でも、さほど抵抗せずに武装解除した満州では、日本人の多くがソ連兵に財産を没収され、女性は凌辱されるなどの被害に遭うが、当時、占守島にも日魯(ニチロ)漁業長崎工場で働いていた約400人の女子従業員がいた。…

     8月9日、ソ連は日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦布告する。大本営は直ちに、関東軍、支那方面軍、そして北海道、南樺太、千島列島を管轄する第五方面軍に「兵力をもって敵の侵攻を破砕しつつ速やかに全面的な対ソ連作戦の発動を準備すべし」と下命…このとき、第五方面軍司令官は樋口季一郎中将であった。

    樋口季一郎中将
    樋口季一郎中将

     8月12日、樋口中将はさっそく「宿敵ソ連を殲滅せよ」と命令している。そして8月15日玉音放送によって…日本軍が戦争に負けたことを知った。…16日には部隊長が集められ…今後の方針が伝えられた。そして第五方面軍司令官・樋口中将の「一切の戦闘行為の停止」「やむを得ない自衛行動は妨げない」「その完全徹底は18日16時とする」との命令を下達した。これを受け、各部隊は武装解除の準備を始めることになる。

     8月18日午前1時30分ごろ、カムチャツカ半島の南端にあるロパト砲台から、竹田浜に150発ほどの砲弾が撃ち込まれた。…この報告を聞いた独立歩兵第282大隊の村上大隊長は「こんな夜中にアメリカ軍の軍使が来るはずはない」と判断して、各部隊に直ちに戦闘配置命令を出した。
     村上隊長の勘は当たっていた。8月17日夕方にカムチャツカ半島から出撃したソ連軍は、18日の午前2時頃には、占守島の北にある竹田浜沖に大挙して押し寄せていた。…これを受け、堤師団長は…戦車第11連隊隊長・池田末男大佐に出撃命令を出す。すでに弾薬や燃料を抜いて武装解除準備を進めていた守備隊は大慌てで戦闘準備を始めることになったのである。


    池田末男大佐
    池田末男大佐

     このとき日本軍はまだ敵がソ連であることを確認できていなかったが、竹田浜に上陸してきたソ連軍は、男体山、女体山、二子山からなる四嶺(しれい)山の占拠を目指しており、ここが最大の激戦地となるのである。」

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    詳しくはこちらをご参照♥

    正式な日本の領土



    「 竹田浜に上陸してくるソ連兵と対峙したのは、独立歩兵第282大隊(村上大隊)の約800名であった。実は、ソ連兵の先遣隊は、上陸用舟艇に重い大砲などを載せすぎて、沖合で座礁し、将兵は泳いで上陸してきた。そこに日本軍の野砲や速射砲が次々と打ち込まれたのだ。それでも、ソ連軍は上陸してきたため、最前線は壮絶な白兵戦となる。

     村上大隊第2中隊の重機関銃第2分隊は、突然現れたソ連兵と銃撃戦になった。ソ連軍はマンドリン銃を撃ちながら向かってきた。第2分隊も重機関銃で撃ち返すが、ソ連兵は銃手を狙撃してきた。上原卓著『北海道を守った占守島の戦い』によれば

    『前方の壕から「ウラー、ウラー」(ソ連兵が突撃の際に発する言葉)という叫びと、「この野郎」「こん畜生」という日本兵たちの怒号が交じって聞こえた。殺るか殺られるかの白兵戦となっていた』

    という。この竹田浜から四嶺山での戦いでは、多くの日本兵がソ連兵との白兵戦で命を落としている。


     18日、午前2時30分ごろ、占守島の南西にあった戦車第11連隊に出撃命令が届いた。昭和15年に創設された戦車第11連隊は「十一」を「士」と読み“士魂(しこん)部隊”と呼ばれていたが、昭和19年2月に満州から占守島(しゅむしゅとう)に配備された戦車部隊の精鋭であった。連隊長は“戦車の神様”と呼ばれた池田末男大佐である。日本の敗戦を知って落胆していた池田大佐だったが、命をかけるときはこのときとばかり奮い立ち、竹田浜付近に押し寄せるソ連兵と対峙していた友軍を援助するために、ただちに出撃の準備を始めた。

    池田末男大佐 戦車の神様
    池田末男大佐

     だが、8月15日の終戦の知らせを聞いたあと戦車隊は全戦車を海に沈めるために戦車砲や機銃、無線機などを車体から取り外していた。さらに砲弾も信管を抜いて車体から外に出してある状態となっていたため、大慌てで戦車を整備し始めた。暖機運転などを含めれば、どんなに急いでも2時間はかかる作業である。そこで、池田大佐は、準備ができた車両から島の西側にある基地を出発し、占守島のちょうど中央にある天神山で集合することにした。…

     午前4時頃、集合地点の天神山には準備のできた戦車20輛ほどが集合していた。本来であれば、四方を見渡せる歩兵と共に進撃したいところだったが、ぐずぐずしていると四嶺山はソ連軍の手に落ちてしまう。援軍を待つ時間はなかった。すでに覚悟を決めていた池田大佐は将兵を前に以下のように訓示した。

    『 諸子はいま、赤穂浪士となり恥を忍んでも将来に仇を報ぜんとするか、あるいは白虎隊となり玉砕をもって民族の防波堤となり後世の歴史に問わんとするか。赤穂浪士たらんとする者は一歩前に出よ。白虎隊とならんとするものは手を上げよ 』
    (大野芳著『8月17日、ソ連軍上陸す』)




     これに対し全員が『おおっ!』と叫びながら手を上げ命をかけてソ連軍と戦う心意気を示した。これに対し池田大佐は目に涙を浮かべて「ありがとう」と答えたという。池田大佐は、上半身は白いシャツ姿で日の丸の鉢巻きを締めた。そして日章旗を手にして戦車の砲塔に跨がった状態で前進する。これは、戦車の中では周囲が確認できず、全軍の指揮が執れないからであった。

    戦車

     池田大佐は出撃に際して、堤師団長宛てに以下のように無線報告をした。

    『池田連隊は四嶺山の麓にあり、志気旺盛なり。〇六五〇、池田連隊はこれより敵中に突入せんとす祖国の弥栄(いやさか)を祈る
    (大野芳著『8月17日、ソ連軍上陸す』)。」


    詳しくはこちらをご参照♥

    戦車の神様



    「 「攻撃っ 前進!」
     池田大佐は日章旗を振り下ろして前進を命じる。すると、連隊長を中心に横一線に開いた戦車隊は、男体山方面へ向けて進撃した。ソ連兵はマンドリン銃や迫撃砲などで攻撃してくるが、霧の中から突然現れるソ連兵は、戦車で踏みつぶしたり砲塔から身を乗り出して拳銃などで撃った。すでに白兵戦で疲弊し、玉砕を覚悟していた村上大隊の将兵は、戦車隊の出現に歓喜の声を上げたという。
     ソ連軍を追い払った戦車隊は四嶺山の山頂付近に戻った。しかし、このとき池田大佐と共に戦った丹生勝丈(にうかつたけ)少佐が、撃たれて戦死していた。


    丹生勝丈少佐
    丹生勝丈少佐

     丹生少佐は蘭印作戦でも活躍した猛者で、池田大佐が目をかけていた部下だった。池田大佐は丹生少佐を大の字に寝かせて砲塔のうしろにくくり付けた。そして、「丹生、貴様も戦場に連れて行ってやるからなっ」と叫ぶと、約40輛に増えていた戦車隊は、午前7時50分ごろ再度出撃する。しかし、このころすでにソ連軍は対戦車銃や45ミリ対戦車砲などを準備して日本軍を待ち構えていたのだ。その後、池田大佐ほか数輛は女体山方面に向かう。これは、武器もなく取り残された第3特殊監視隊の将兵を救出するためだったそのとき池田大佐の戦車にソ連の対戦車砲が命中する。車内にあった弾薬の誘爆で戦車は炎に包まれ、ついに池田大佐は壮烈な戦死を遂げた。

     池田大佐亡きあと、戦車隊の指揮を執ったのは内田少尉だった。このときの戦いは大野芳著『8月17日、ソ連軍上陸す』に詳しい。「内田が砲塔から身を乗り出して拳銃で応戦していると、式町が足元に崩れおちた。胸部貫通、即死だった。内田は、式町の血を浴びた。代わって松島が砲座について撃ちつづけた。敵は、逃げ回りながら果敢に対戦車砲を発砲し、手榴弾を投げてきた」
    とあり、最前線では戦車隊もソ連兵と肉弾戦を繰り広げていたことが分かる。結局、この戦いで戦車11連隊は96人が戦死し、21輛の戦車が擱座(かくざ)した。


     やがて、独立歩兵第238大隊(竹田大隊)や店援軍などが加わって反撃したことで、午後12時ごろ、ソ連軍はじりじりと竹田浜方面に撤退しはじめた。もし、池田大佐が後続部隊を待って戦車隊の突入が遅れていたら、四嶺山はソ連軍に占拠されていただろう。…

     なお、日魯漁業長崎工場の女子従業員400人は、ソ連軍の侵攻後、いち早く守備隊が防空壕に避難させた。そして、18日午後には船で島を脱出し、5日後に無事、北海道の根室港に到着している。こうして占守島の女子従業員はソ連兵から逃れることができたのだ。

     ポツダム宣言を受け入れて武装解除すると思われていた日本軍の反撃は、ソ連軍にとって予想外のものであった。日本軍には18日16時に攻撃中止命令が出されていたが、自衛のための戦いは禁止されなかった。もちろん、日本軍も何度か停戦交渉を試みたが、白旗を揚げている軍使が銃撃されたり、軍使が人質となって射殺されるなど、交渉は簡単にはまとまらなかった。…


     日本側の推定では、占守島の戦いでの日本軍の戦死者は約600人ソ連軍は3000人の戦死者を出し日本軍が勝利したと見ている。その証拠にソ連政府機関紙は「占守島の戦いは満州・朝鮮における戦闘よりも損害がはるかに大きかった。8月19日はソ連人民の悲しみの日であり、喪の日である」(上原卓著『北海道を守った占守島の戦い』)と伝えている。」



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    現在の陸上自衛隊・第11旅団・第11戦車大隊にも、士魂の精神は受け継がれています♥
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    詳しくはこちらをご参照♥

    日本を守り抜いた「士魂」



    御理解いただけましたでしょうか?

    戦後の教育において、何故か大東亜戦争で教えられるのはアメリカとの戦闘ですね♥ 沖縄での戦いはアメリカとの戦いでした。では、北方でのソ連との戦いは何故語られない教えられないんでしょう

    ここが、重要なポイントです♥ 現在のロシアが抱える問題にも繋がっています。

    ヒントは、この動画(1:17:00あたりから)にもあります。


    最後に、今年はますます期待できそうな安倍総理♥ そんな安倍総理に対する海外からの評価(上の動画でも確認できます♥)を、この動画(1:35:00あたりから)でご確認ください♥


    頑張って頂きたいですね♥

    安倍総理 笑顔

    続きは次回に♥




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    Category: 日本
    Published on: Sat,  16 2016 00:01
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