欧米医学界が何世紀も追ってきた「黒死病の正体」を、日本人はたったの2日で発見したんです

    Chevalier_Roze_à_la_Tourette_-_1720 ペストによって死屍累々となった街を描いたヨーロッパの絵画
    Chevalier Roze à la Tourette、1720 ( ペストによって死屍累々となった街を描いたヨーロッパの絵画 )

    ペストドイツ語: Pest, 英語: plague)とは、ヒトの体にペスト菌(Yersinia pestis 腸内細菌科 通性嫌気性/グラム陰性/無芽胞桿菌)が感染することにより発症する伝染病である。

    日本では感染症法により一類感染症に指定されている。ペストは元々齧歯類(特にクマネズミ)に流行する病気で、人間に先立ってネズミなどの間に流行が見られることが多い。

    ノミ(特にケオプスネズミノミ)がそうしたネズミの血を吸い、次いで人が血を吸われた結果、その刺し口から菌が侵入したり、感染者の血痰などに含まれる菌を吸い込んだりすることで感染する。人間、齧歯類以外に、猿、兎、猫などにも感染する。

    かつては高い致死性を持っていたことや罹患すると皮膚が黒くなることから黒死病と呼ばれ恐れられた。世界史に数次の全地球規模の流行が記録されており、特に14世紀の大流行は、世界人口を4億5000万人から3億5000万人にまで減少させた

    WHOの報告によれば、1991年以降ヒトペストは増加し 1996年の患者3,017人(うち死亡205人)、1997年には患者5,419人(うち死亡274人)であった。

    汚染地域とされるのは、
    1.アフリカの山岳地帯および密林地帯
    2.東南アジアのヒマラヤ山脈周辺ならびに熱帯森林地帯
    3.中国、モンゴルの亜熱帯草原地域
    4.アラビアからカスピ海西北部
    5.北米南西部ロッキー山脈周辺
    6.南米北西部のアンデス山脈周辺ならびに密林地帯

    などである。

    ただし、現代英語で"pest"と言えば、ハエ、ダニ、あるいはイエネズミなどのような人間に害を与える小動物一般を指すので注意が必要

    CDCによる汚染地域を示す地図(1998)





    戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。

    そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

    私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、

    客観的に情勢を判断する必要があります。

    それでは、この書物を見ていきましょう!




    『 アメリカには何度か行った。…みんな親しみを込めた笑顔とよくわからないジョークで出迎えてくれた。親米派日本人を育成するフルブライトで行った人たちに聞いたら、みな同じ印象を語ってくれた。

    「そう、彼らは快活でとてもいい人たちだった」

     何度か客人で行った後、今度は特派員で行った。向こうに棲んで彼らの隣人になって生活を始めた途端、過去の旅では経験したことのない【人種の壁】にぶつかった。…

    悩む女の子2

     【彼らの意識は「白人・キリスト教徒・文明」の三位一体でてきている】。「文明」のところには「寛容」でも「慈悲」でも何でも代入できる。対して【日本人などは「有色・異教・野蛮」の三位一体になる】

    驚き5

     彼ら白人にとって何が腹立たしいかというと、【日本人を観測していると「野蛮」のところに、ごく自然に「礼儀」とか「寛容」とかが入ってきてしまう】

    ポイント

    白人キリスト教徒かなり苦労して演じてきたポーズを、【日本人はなんのてらいもなく振る舞ってみせる】。それがなんとも小面(こづら)憎く見える。

    ガッキー

     彼らがそれを最初に意識したのは【1894年、香港でペスト(黒死病)が流行したとき】だと言われる。このとき日本から医療支援の一員として【北里柴三郎】が赴いた。

    北里柴三郎
    北里柴三郎

    そして、【着いて二日後に世界で初めてペスト菌を見つけた】

    驚き 2

    死んだ鼠からも同じ菌を見つけて【香港政庁に鼠の駆除を提唱】した。【その助言で香港ペスト禍は3カ月で終息】した。

    驚き 2

     【欧米の医学界が何世紀も追ってきた黒死病の正体を日本人があっさり解明した】ことは、驚きと嫉妬で迎えられた。

     しかし文明は白人のものだ。彼らは仏人医学者が同じころ発見したことにして、【北里の栄誉をとった】

    驚き顔

    1960年代、【菌の学名に残っていた北里の名も消した】

    驚き顔

    日本はそれを荒立てもせず寛容で受け入れた。

     その【ペスト騒ぎがあった年、日本は清と戦争を始め、清の独製大型戦艦を小さな海防艦で沈めた】

    日清軍艦海戦之図
    日清軍艦海戦之図

    帝国日本大勝利
    帝国日本大勝利

    その数年後の義和団の乱では柴五郎らが知謀と強さを披露し、鎮圧後には【独露の軍隊が略奪に走る中、北京市民を庇護(ひご)する騎士道ぶり】を見せた。

    柴五郎
    柴五郎

     彼らは自分たちの三位一体の空疎さを知らされ、日本を脅威と感じた黄禍論が語られ始める中、【日本は日露戦争に勝利】し、彼らの危惧が間違いなかったことを示した。

    5月27日早朝、バルチック艦隊との決戦に出撃する連合艦隊(「朝日」艦上より)
    バルチック艦隊との決戦に出撃する連合艦隊(「朝日」艦上より)

     それからの歴史白人国家がいかに異質・日本を排除し白人支配を回復したかの作業日程で綴られていく

    ポイント

     ただ、負けた日本第三世界の民と違っていまだに心から白人をご主人様と思わないその苛立ちが米国で感じた今一つしっくりこない彼らの態度の根源のように思える。』

    日の丸

    いかがでしょうか?

    欧米の医学界何世紀も追ってきた黒死病の正体を、私たち日本人の先人は、あっさりと解明したって凄いですね♥

    そして、それは現代にも脈々と受け継がれていますね♥

    産経ロゴ

    【ノーベル賞W受賞】
    キーワードは「人類のための貢献」 科学3分野の日本人受賞者ラッシュはまだまだ続くぞ

    2015.10.10 15:15更新

     2015年のノーベル賞に医学・生理学賞の大村智・北里大特別栄誉教授、物理学賞の梶田隆章・東大教授の2人の日本人が受賞した。科学3分野で2000年以降続いている日本人のラッシュは健在だ。1987年の利根川進氏からしばらく途絶えていたが2000年に白川英樹氏が受賞すると翌01年には野依良治氏、02年には、田中耕一、小柴昌俊両氏のダブル受賞と日本人受賞が3年続いた。白川氏からの16年間で南部陽一郎氏(受賞時に米国籍)を含む16人が受賞し、毎年1人のペースでわが国は世界最高賞の受賞者を輩出している。

    背景には、戦後の復興を経て、日本の基礎科学への偏見が払拭されたことが挙げられるだろう。過去には分野を切り開くような世界的な研究成果を上げていながら他の研究者に横取りされた可能性のある科学者も少なくない大村氏の所属した北里大学の創立者北里柴三郎氏もその一人。共同研究者だったドイツのベーリングが「ジフテリアに対する血清療法の研究」で医学・生理学賞を単独受賞した。

     欧米諸国と平等に扱われるようになると、次の課題は、ノーベルの遺言にある「人類のための貢献」に、日本人の得意とする「役に立つ」研究がどの程度評価されるかの問題が立ちふさがる。一般に、学会の専門家が中心として選考する賞では、一般社会からは気付かれにくいが大切な基礎研究に重きを置く傾向が強くなりがちだからだ。

     医学・生理学賞は約10億人以上に投薬された感染症特効薬の開発が受賞した。大村氏の功績は、ノーベル賞の予備審査とも言われるガードナー国際賞の姉妹賞「国際保健賞」も贈られていて、学術的な評価も高い。マスコミなどが、半世紀前からある分野の成果よりも、もっと新しい学問分野を切り開くような「派手な」成果を期待して、ダークホース扱いをしたが、微生物が作り出す「抗生物質」は世界初の抗生物質ペニシリン(1945年)、結核治療薬ストレプトマイシン(52年)でも医学・生理学賞を受賞している。後付けになるが、同時受賞した植物由来のマラリア特効薬も含め、熱帯開発途上国に蔓延する2つの大病から人々を救った薬は、「ノーベル賞」に十分にふさわしいものだ。


    詳しくはこちらから♥

    キーワードは「人類のための貢献」 科学3分野の日本人受賞者ラッシュはまだまだ続くぞ

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    自宅から北里大学へ向かう前に報道陣の質問に応じ、お守りにしている家族の写真を見せる大村智・北里大特別栄誉教授=6日、東京都世田谷区(三尾郁恵撮影)

    以下は、Wikipediaからの抜粋です。

    大村 智
    大村 智(おおむら さとし、1935年7月12日 - )は、日本の化学者(天然物化学)。学位は薬学博士(東京大学・1968年)、理学博士(東京理科大学・1970年)。2015年ノーベル生理学・医学賞受賞。
     微生物の生産する有用な天然有機化合物の探索研究を45年以上行い、これまでに類のない480種を超える新規化合物を発見、それらにより感染症などの予防・撲滅、創薬、生命現象の解明に貢献している。
     また、化合物の発見や創製、構造解析について新しい方法を提唱、実現し、基礎から応用までの幅広く新しい研究領域を世界に先駆けて開拓している。
     研究以外では、北里研究所の経営再建、女子美術大学への支援や私費による韮崎大村美術館の建設、学校法人開智学園の運営などの貢献業績がある。
     勲等は瑞宝重光章、紫綬褒章、文化勲章などを受勲。

     山梨大学卒業後、理科の教諭を志したが、地元山梨での採用がなかったため、東京都立墨田工業高等学校定時制に5年間勤務し、物理や化学の授業で教鞭を執った。学業に熱心に励む高校生に心打たれ、もう一度勉強し直したいと考え、1960年、東京教育大学の研究生となり、中西香爾に師事した。中西香爾の紹介で1961年、東京理科大学大学院理学研究科都築洋次郎の研究室に所属し、高校教諭として働きながら1963年、東京理科大学大学院理学研究科修士課程を修了した。
     なお出身大学については、もし東京大学だったら自分のような研究者は弾き出されてノーベル賞を貰えなかったと考えているといい、東京大学でなくてよかったと後年、語っている。


    ポイント

    そんな大村智さんは、それまで得てきた特許料などの収入から、そのほとんど、220億円もの資金を北里研究所に寄付されています♥ 私財を投じて北里研究所の経営再建にあたっていたんですね♥

    詳しくはこちらから♥

    【ノーベル賞】アフリカ大陸を救った「大村智」特別栄誉教授の250億円人生

    その北里研究所の経緯を、北里柴三郎とともに見ていきましょう♥

    以下は、Wikipediaからの抜粋です。

    北里柴三郎
    北里 柴三郎(きたさと しばさぶろう、1853年1月29日(嘉永5年12月20日) - 1931年(昭和6年)6月13日)は、日本の医学者・細菌学者である。従二位・勲一等旭日大綬章・男爵・医学博士。

     私立伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)創立者兼初代所長、土筆ヶ岡養生園(現在の北里大学北里研究所病院)創立者兼運営者、第1回ノーベル生理学・医学賞最終候補者(15名の内の1人)、私立北里研究所(現在の学校法人北里研究所)創立者兼初代所長並びに北里大学学祖、慶応義塾大学医学科(現在の慶應義塾大学医学部)創立者兼初代医学科長、慶應義塾大学病院初代病院長、日本医師会創立者兼初代会長

    「日本の細菌学の父」として知られ、門下生からはドンネル先生との愛称で畏れられ、かつ親しまれていた。

    1875年(明治8年)に東京医学校(現・東京大学医学部)へ進学したが在学中よく教授の論文に口を出していたため大学側と仲が悪く、何度も留年した。

    ポイント

    1883年(明治16年)に医学士となる。在学中「医者の使命は病気を予防することにある」と確信するに至り、予防医学を生涯の仕事とする決意をし、「医道論」を書いた。

     ドイツ滞在中、脚気の原因を細菌とする東大教授・緒方正規の説に対し脚気菌ではないと批判を呈した為、緒方との絶縁こそなかったものの「恩知らず」として母校東大医学部と対立する形となってしまい、帰国後も日本での活躍が限られてしまった。この事態を聞き及んだ福澤諭吉の援助により私立伝染病研究所が設立されることとなり、柴三郎は初代所長となった。その後国に寄付され内務省管轄の国立伝染病研究所(現在の東大医科学研究所)となり伝染病予防と細菌学に取り組む。1894年(明治27年)にはペストの蔓延していた香港に政府より派遣され、病原菌であるペスト菌を発見するという業績をあげた。

     かねがね伝染病研究は衛生行政と表裏一体であるべきとの信念のもと、内務省所管ということで研究にあたっていたが、1914年(大正3年)に政府は所長の柴三郎に一切の相談もなく伝染病研究所の所管を突如文部省に移管し、東大の下部組織にするという方針を発表した。

    ポイント

    長年の東大との対立が背景であるといわれている。医科大学学長であった青山胤通が所長を兼任することになった。柴三郎はこれに反発し所長を辞し新たに私費を投じて私立北里研究所(現・社団法人北里研究所。北里大学の母体)を設立。狂犬病、インフルエンザ、赤痢、発疹チフスなどの血清開発に取り組んだ。

     諭吉の没後の1917年(大正6年)、諭吉による長年の多大なる恩義に報いるため慶應義塾大学医学部を創設し、初代医学部長、付属病院長となる。新設の医学部の教授陣にはハブの血清療法で有名な北島多一(第2代慶應医学部長、第2代日本医師会会長)や、赤痢菌を発見した志賀潔など北里研究所の名だたる教授陣を惜しげもなく送り込み、柴三郎は終生無給慶應義塾医学部の発展に尽力した。

     また明治以降多くの医師会が設立され、一部は反目しあうなどばらばらであったが、1917年(大正6年)に柴三郎が初代会長となり、全国規模の医師会として大日本医師会が誕生した。その後1923年(大正12年)に医師法に基づく日本医師会となり、柴三郎は初代会長としてその運営にあたった。


    いかがでしょうか?

    北里柴三郎の意志を受け継いでいる大村智さんの一貫した姿勢が、ご理解いただけると思います♥

    そして、浮かび上がってくるのが「東京大学」という、私たち日本にとって最大の病巣です♥

    左巻きの阿呆を大量に世に出し官僚として、あるいは学者・識者・専門家と称して自身の保身だけを考え私たち日本の国益を害し続けているのが、この「東京大学」です♥

    このあたりのお話は、また別の機会にさせていただきますね♥

    続きは次回に♥




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    Category: 日本
    Published on: Sat,  26 2015 00:01
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