2015-10-08 (Thu)
コンクラーヴェ(ラテン語: Conclave)とは「教皇選挙」を意味する言葉で、カトリック教会においてローマの司教たるローマ教皇を選出する選挙システムのこと。Conclave とはラテン語で "cum clavi" (「鍵がかかった」)の意である。
このシステムは、カトリック教会の歴史の中で何世紀もかけて、他国の干渉を防止し秘密を保持するため練り上げられてきたものである。
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 ルネサンス時代の、ミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロといった画家たちの名を挙げましたが、彼らが、【キリスト教をどのように理解していたのかを具体的に示す例】として、有名な【システィナ礼拝堂の『最後の審判』】を取り上げたいと思います。
システィナ礼拝堂
この『最後の審判』を見ることによって、キリスト教文明とは何かを理解することができるのです。
システィナ礼拝堂は、【カトリックの中枢の礼拝堂】で、【法皇の選挙(コンクラーベ)】が行われることでもしばしば注目を集めます。その礼拝堂の正面に描かれた【ミケランジェロの『最後の審判』】こそ、【西洋人のキリスト教観】がどんなものかを一番よく示していると同時に、芸術そのものを世界に鳴り響かせた傑作でもあるからです。
最後の審判 ミケランジェロ
それがどういうふうに描かれたのか、そしてそれが【日本の神の観念とどう違うのか】対比させることで、【キリスト教世界のヨーロッパと日本との違い】が明らかになると思います。
『最後の審判』は1535年から1541年頃、ミケランジェロの晩年に描かれた作品です。長い時間がかけられ、描かれた大作ですが、大きな壁面に向かって彼は老年期の力を振り絞って描いた集大成であったわけです。…
『最後の審判』という作品は、人間は死んだ後、【キリストの最後の審判を受けて、地獄か天国に行く】という、キリスト教の黙示録を題材に、その審判の場面を描いたものです。
『最後の審判』は中央の高いところに審判をするキリストがいます。ジョットや16世紀頃にフラ・アンジェリコが描いた『最後の審判』とどこが違うのかというと、【周りの人々が一斉に中央のキリストの顔を見ている】ことです。これが重要で、他の作者の絵は、審判者であるキリストの顔を見ずに、全員が天上で着物を着て穏やかな顔をして座っています。そこでは、キリストによって選ばれ、天国に行くことができた人たちの美しい顔、満足した顔が描かれているのです。その一方で、右の下のほうには地獄に落ちる人たちが、悪魔に足を引っ張られている凄惨(せいさん)な姿が描かれています。
最後の審判 ジョット スクロヴェーニ礼拝堂
最後の審判 フラ・アンジェリコ
ミケランジェロももちろん、天上の人を描いていますが、そこにいる【すべての人を全裸で描いた】のです。天国にいる人も裸体で描いていたのです。そして右下の端のほうに、地獄に落ちる人たちを描いています。これもすべて裸です。
最後の審判 ミケランジェロ
これはどういうことなのでしょうか。
彫刻家でもあったミケランジェロは人間の裸体が好きだったということをいう人もいます。しかし、天の人々も裸だというのは、【彼らはまだ、最後の審判を受けていないということ】なのです。ですから、彼の作品には【最後の審判を待っている人たちが描かれている】のです。つまりミケランジェロは、【キリスト教の信仰の核心を神の審判を待っている状態においた】のだと思われます。
『バッカス像』(1497年)
『瀕死の奴隷』
裸体であるということは、【人間の原罪を負った姿】が描かれていることになります。原罪とは、アダムとエバが禁断の木の実を食べて楽園を追放されたときに、人間が負うことになった罪です。そのとき彼らは裸なのです。その裸のままの姿で『最後の審判』に描かれているということは、たとえ天上に描かれているとしても、彼らはまだ最後の審判を受けていないということなのです。
追放されるアダムとイブ
こちらもご参照♥
↓
西欧のように絶対に越えられない溝がない日本人
描かれた人々を見ると、みな不安そうな顔をしていて、決して喜んだりしていません。皆一斉に不安な顔付きでキリストを見ているのです。聖アントニウスなどの聖人が周りにいますけれども、聖マタイ、聖ペテロのような彼らも同じように一斉にキリストを見ています。すべての人がまだ審判を下されていない状態で描かれているのです。
つまり、【人間は、決して自分が天国へ行く、あるいは地獄へ行くということを知ることができない。その審判を待っている状態こそが、キリスト教なのだ】ということを表現しているのです。
これはヨーロッパの人たちの考え方、文化を象徴しているもので、【キリスト教は実は問題を何も解決してはくれないということ】なのです。しかし、同時に解決してくれるだろうということを待ち望んでいるという態度、その生き方がキリスト教の信仰のあり方だととらえているのです。…
では、そうしたキリスト教の人間観、宗教観と日本人の人間観、宗教観はどう違うかというと、【キリスト教ではすべての人が地獄、煉獄(れんごく)、天国に行く人と最後の審判によって分けられるわけですが、日本人はすべての人は死ねば神になると考えている】のです。
それは人間というものは原罪を背負って生まれてくるというキリスト教の考え方とは相容れません。
日本人は、人間というものは、無垢な赤子から知恵のある老人まで、悪というものをもたない存在であると考えているのです。これは【神道の考え方】です。
伊勢神宮 内宮
ですから日本には、悪魔がいないのです。鬼はいても悪魔は存在しません。鬼は善意のひねくれた存在ですから、最初からの悪ではありません。
これを「性善説」といってしまえば簡単です。
日本人の考える人間は自然の一部ですから、自然が最初から悪をつくるはずがないのです。天地がつくるものに、最初から悪が存在するなどということは、日本人には考えられないのです。これが私たち日本人の自然信仰の基本です。…
ですから、ミケランジェロの『最後の審判』は、自分が善であるか悪であるかを判断されるのを待っているのが信仰であるということなので、天国に行きたいという気持ちをもち続ければ、願いはかなうという考え方であるといえると思います。
日本人のほうがはるかに明快な神の観念をもっているのに対して、ヨーロッパのキリスト教徒は待っているということによって、曖昧になっているという問題があるのです。そのために、そういうことを表現するカトリックの文化も生まれるのです。
ユダヤ教もイスラム教も一神教ですが、キリスト教のような芸術を生み出してはいません。その芸術が生まれないということは、偶像崇拝を禁止していることによります。一方のキリスト教は、一神教といいながら、天国へ行くのか地獄へ落ちるのか、その判断が保留の形で曖昧にされているところに、人間の生き方を見つめる芸術が生まれるという要因をつくっているんです。そこには、神仏習合の日本との共通性があるのです。
しかし、キリスト教は、一神教というところで、結局ユダヤ教やイスラム教と同じように【非常に戦闘的な面を持っている】という点で、私たち日本の神道と異質なものであるということは変わらないのです。』
いかがでしょうか?
キリスト教の本質が、よく理解できますね♥
つまり、こんな感じでしょうかw
続きは次回に♥
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