2015-08-14 (Fri)
都留 重人(つる しげと、1912年(明治45年)3月6日 - 2006年(平成18年)2月5日)は日本の経済学者。日本人として2人目のハーバード大名誉学位保持者。第八高等学校(現・名古屋大学)に入学したが、日本の中国侵入に反対し欠席届を出さずにストライキを起こしたため(反帝同盟事件)、宮崎辰雄(元神戸市長※1)、河本敏夫(元通産大臣※2)らとともに除籍される。
※1 宮崎辰雄:1973年の市長選では自民党が支持を撤回、替わって日本共産党が推薦に加わる。自民党が支持した砂田重民を破って再選を果たし、革新自治体となった。このとき、宮崎は神戸空港の建設に反対を表明するとともに「反安保,反基地,反自衛隊」を宣言。
※2 河本敏夫:1911年6月22日、兵庫県赤穂郡相生村(現・相生市)生まれ。マルクス主義の影響を受けて反戦運動に参加し、1930年に退学を余儀なくされた。炭坑夫や職工などを経て日本大学法文学部に入学。在学中に義兄らと三光汽船(当時、三光海運)を設立、卒業後の1937年から社長となる。
日本の大学に進学できなくなったため、アメリカウィスコンシン州のローレンスカレッジに1年間留学し、ハリー・ホワイト※3などの授業を受ける。その後ハーバード大学の学部に入学し、1935年(昭和10年)に優等賞を取得し卒業、同期でただ一人大学院に進学した。大学院では後に高名を馳せたポール・サミュエルソンが同窓生。1940年(昭和15年)、同大大学院で博士号 (Ph.D.) を取得[1]。そのままハーバード大学講師となる。
※3 ハリー・ホワイト:リトアニア系ユダヤ人移民の両親のもと、マサチューセッツ州ボストンで生まれた。1924年にコロンビア大学に入学し経済学を学ぶ。その後スタンフォード大学を経てハーバード大学とローレンス大学で経済学の助手として勤務した後、ハーバード大学の大学院に入り、1935年に博士号を得ている。第2次世界大戦が勃発すると、ソ連援助を目的とした武器貸与法の法案作成に参画し、これは1941年3月に成立している。1941年11月17日に「日米間の緊張除去に関する提案」を財務長官ヘンリー・モーゲンソーに提出、モーゲンソーは翌18日にこれをフランクリン・ルーズヴェルト大統領とコーデル・ハル国務長官に提出した。これがハル・ノートの原案である「ホワイト試案」(または「ホワイト・モーゲンソー試案」)となり、大統領命令により、ハル国務長官の「ハル試案」と併行して国務省内で日米協定案とする作業が進む。25日に大統領の厳命により、ハル長官は「ハル試案」を断念、この「ホワイト試案」にそっていわゆる「ハル・ノート」が日本に提示される。ホワイトはソ連軍情報部の協力者であったことが、ベノナ文書により確認されている。1941年、ルーズベルト大統領時代のアメリカ合衆国の財務次官補としてハル・ノートの草案作成に携わった。この頃、ソ連軍情報部と接触し「スノウ(snow)作戦」(ホワイトの名による)という工作に関係したとされる。ソ連の内務人民委員部(NKVD)で米国部副部長を務めたヴィターリー・パヴロフの証言によると、スノウ作戦の際、ソ連軍情報部のイスハーク・アフメーロフがホワイトと接触した後、ヴィターリー・パヴロフはアフメロフの友人としてホワイトに接触、メモを見せたという。ホワイトはGRU(ソ連赤軍情報部)の米国駐在部代表であるボリス・ブコフ大佐が運営する協力者の一人であったが、後にその所属はGRUからNKGB(国家保安人民委員部、KGBの前身)に移管されたという。1953年11月6日、ハーバート・ブラウネル・ジュニア司法長官は彼を名指しで、ソ連のスパイであり、米国の機密文書をモスクワに渡すために他の連絡要員に渡していた、と述べている。
1942年(昭和17年)、第二次世界大戦勃発(日米開戦)を受けて辞職して交換船で帰国後、妻の伯父である木戸幸一が重光葵に頼み、外務省嘱託として就職。1944年(昭和19年)6月、東條英機により、意見が対立していた木戸に圧力を掛ける目的で、解雇された上、召集令状が出されて陸軍に徴兵された。しかし、木戸が東條の秘書官であった赤松貞雄に頼み込んだので、赤松は木戸の依頼に応え、外務省から都留のために「余人をもって替えがたし」という申し入れを陸軍に出させるように取り計らい、3カ月で除隊となった。1948年(昭和23年)、東京商科大学(現・一橋大学)教授に就任。その後、冷戦下の赤狩り(マッカーシズム)の中でアメリカ留学当時共産主義者であったことを告白する。1965年(昭和40年)に一橋大学経済研究所所長、1972年(昭和47年)から1975年(昭和50年)まで一橋大学学長、同年に一橋大学名誉教授(定年退官)。1975年から1985年(昭和60年)まで朝日新聞社論説顧問。1986年(昭和61年)、明治学院大学教授就任。明治学院大学国際学部の創設に尽力した。この間ハーバード大学客員教授等を歴任。
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
さて、「大東亜戦争では、軍部が独走した」、なんて実しやかな嘘が存在しています。
未だに多くの方々が、そんな誤った知識を持たれたままなんです。
いわゆる「陸軍悪玉説」です♥ これは、嘘です。デタラメなんです♥
私たちの日本は、諸外国によって戦争に引き込まれていきました。
そして、そんな諸外国と手を組む「裏切り者」が、日本の中枢に居たんです♥
彼ら、「赤いユダ」の正体を実名で暴いていこうというのが、本書の狙いです。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 参謀本部と外務省の首脳が訪ソ使節としてまず頭に浮かべたのは、参謀本部第五課(ロシア課)所属の参謀から選ぶ案だった。
だが、参謀本部内にはもっと優れた適任者がいると秦(はた)次長から名前が挙がったのは、つい二月から三月にかけてクーリエとして日ソ間を往復して帰ったばかりの【瀬島龍三(せしまりゅうぞう)】中佐(戦後、伊藤忠商事会長などを歴任)だった。
瀬島龍三
クーリエとは、外交機密文書を人の手で運ぶ「外交伝書使」のことだ。
ウィーン条約で認められた国際飛脚とでもいうべきクーリエには、さまざまな特権が与えられていた。
生命の安全保証ならびに持参する外交行嚢(がいこうこうのう)が税関審査などを免除されるなどの外交特権である。…
瀬島特使案は最終的には消えた。
だが、ヤルタ協定のさなか、ソ連内にいて先方の軍首脳と会っていた瀬島のこのときの任務は、いまだに特定されていない。
今日では小野寺緊急電を握り潰した中心人物は瀬島ではないか、とも言われているが、決定的な証拠は隠されたままだ。』
小野寺信 ※小野寺の送った機密情報は「ブ情報」と呼ばれ、海外からの貴重な情報源となった。「ブ情報」の「ブ」は、ミハウ・リビコフスキ(Michał Rybikowski)の上官ブジェスクフィンスキの頭文字である。大戦最末期にはヤルタ会談後にソ連が対日宣戦するとの最高機密情報を日本に送っている。
木戸幸一
『 瀬島案が無理となった三月末、大本営と政府間の調整会議の席上で、【いつもは陪席しているだけの内大臣・木戸幸一(きどこういち)が、なぜかこのときばかりは発言】した。
昭和十五年以来、内大臣の要職に就き、【東條英機を首相にと天皇に言上】するなど、もっとも天皇の信頼を得ている【宮中政治家】だ。
東條英機
「ソ連特使の適任者がいないということのようだが、私の知り合いで外務省の書記官がいる。彼なら適任と考えられるがどうか」
そう言って木戸が上げた名前が【「都留重人(つるしげと)」】だった。
都留重人
都留は昭和八(一九三三)年に【ハーバード大学に留学】した。
「左翼の巣窟」ハーバード大学に関しては、こちらをご参照♥
↓
ハーバードの闇
ハーバードで学んでくるモノ
欧米学生運動の首謀者はユダヤ人なんです
東洋人らしい礼節を欠いている朴槿恵(ぼくきんけい)
昭和十一(一九三六)年五月には博士課程に合格し、アメリカやイギリス、カナダの学者などと深い交流をもって帰国した経済学者である。…
米国生活が長く英語に堪能だということは周囲の誰もが理解できたが、【木戸がなぜロシア通でもない経済学者を推したのか】はすぐには分からなかった。
だが、【軍首脳は直ちにこれを名案だと判断】、都留は三月二十九日に急遽、東京を発ち、ソ連へ向かったのである。
手には重たい外交行嚢を提げていた。その都留重人には「木戸の知り合い」という面以外に、もう一つの顔があった。
まず木戸との関係から言えば、【都留は木戸の姪を妻に迎えていた】。』
いかがでしょうか?
近衛が天皇に訴えたかった【国家の裏切り者】の姿が見えてきましたね♥
近衛文麿
昭和天皇率いる私たちの日本、そしてルーズベルト率いるアメリカ。
実は、双方の国の中枢部に、ソ連の手先、共産主義者が紛れ込んでいたんです♥
そして、その両者を戦わせた。まったく、無益な戦争だったんです。
手のひらで踊らされてしまったんです♥
支那においては、アメリカと組んで日本と共闘した台湾国民党を、最終的には、ソ連が支援する中国共産党が追い出しました。
そして、今の共産党独裁国家が成立しています。
そもそも近衛は、中国戦線不拡大の政策を推進していました。
蒋介石と日本軍は、日本軍を中国から引き揚げることに合意すらしていたんです。
こちらをご参照♥ ⇒ もう一人の尾崎♥
しかし、朝日新聞記者出身の共産主義者・尾崎秀実は、日本が日中戦争を拡大させるように仕向けたんです。
朝日新聞記者だった尾崎秀実
朝日新聞記者だった尾崎秀実の逮捕後に関しては、こちらが詳しいです♥
↓
こちらをご参照♥ ⇒ もう一人の尾崎♥
こちらをご参照♥ ⇒ 驚天動地だった「尾崎」の逮捕♥
こちらをご参照♥ ⇒ 【実録】取り調べ時の「尾崎」の様子♥
こちらをご参照♥ ⇒ 【驚愕】あの「尾崎」が残した手記♥
こちらをご参照♥ ⇒ 【仰天事実】あの「尾崎」が残した手記からも判明♥
日本と中国との戦線不拡大がほぼまとまりかけていたその時、尾崎らは汪兆銘を首班として日本の傀儡政権を擁立させました。
その結果、まとまりかけていた和平工作は挫折し、重慶の蒋介石軍と日本軍がまさしく泥沼の戦争に入り込んだのです。
共産主義者(旧:ソビエト連邦および現:中華人民共和国の母体・中国共産党)が、日本と支那(現:台湾の母体・台湾国民党)を戦争へと向かわせたんです。
開戦に遡ること5年前(1936年)、二・二六事件が起こります。
二・二六事件を主導したのは、いわゆる【皇道派】と呼ばれる、反共・反ソを掲げる精神的国家主義の傾向が強かった人々です。
共産主義者、特にソビエト連邦にとって、皇道派は邪魔者以外の何者でもありませんでした。
なぜなら、皇道派は、ソ連を強く警戒し、蒋介石や米国との軋轢は避けようとする傾向があったからです。
それに対して、【反皇道派(統制派)】は南進論で支那(現:台湾の母体・台湾国民党)一撃を謳い、英米を敵国と位置づけていました。支那(現:台湾の母体・台湾国民党)をまず叩いて、そして日本のいうことを何でもきくようにしなければならない、さらにソ連に対しての備えはするけれども、決して対ソ戦争はしない、と主張していたんです。
そして、二・二六事件は鎮圧され、皇道派は事件以後、実権を失い、反皇道派(統制派)が主導権を握ったんです。
この時、私たちの日本の敵が、変わったんです。
本来、日本が戦わなければならなかった「共産主義」のソビエト連邦や中国共産党から、台湾国民党・イギリス・アメリカへと矛先を変えるように誘導されてしまったんです。
このとき私たち日本の正面の敵は、イギリスであって、ソビエト連邦(旧:ロシア)だったんです。
イギリスもソビエト連邦(旧:ロシア)も、真っ向から戦うわけではありません。
誰かと誰かを戦わせて、漁夫の利を得るのが、常套手段です。
つまり、イギリスとソビエト連邦(旧:ロシア)の陣取り合戦で、私たちの日本は、身内である日本人の裏切り者・共産主義者が実権を握ってしまったことで、イギリスが陣取り合戦に敗れ、ソビエト連邦(旧:ロシア)が勝ってしまったんです。
こうして、私たちの日本は、戦争へと引き込まれていったのです。
こちらもご参照♥
↓
戦争に引き込まれるということ
戦時中、国家総動員や総力戦を謳ったり、徹底抗戦や、本土決戦を主張したり、これらの言葉は、共産主義者が口々に唱えたものなんです♥
なぜでしょうか?
彼ら共産主義者が目標としたのは、「敗戦から革命へ」というコミンテルンのスローガンでした。
1932(昭和7)年5月に、いわゆる「三二テーゼ」と呼ばれるスローガンが、コミンテルンで採択されました。
正式名称は、「日本における情勢と日本共産党の任務に関する共産主義インターナショナル執行委員会西欧局のテーゼ」です。
もう一度、繰り返しますね♥
「日本共産党の任務」です。
それは、次のように高らかと謳っています。
「 日本共産党は、国内の階級的力関係と日本における、まさに来たらんとする革命の性質および任務の双方についての正しい、かつ明確なピクチュアをもたねばならない。…
換言すれば、君主制の転覆、地主の収奪、および労働者と農民の独裁の樹立を経ねばならない。…
現瞬間のための主要な行動スローガンは、次のものでなければならない。
●帝国主義戦争反対。帝国主義戦争を内乱に転化せよ。
●ブルジョア=地主、ミカド、および社寺の土地の農民のための無償没収。地主、金貸し、および銀行に対する農民の一切の負債の取消し。
●植民地(朝鮮、満州、台湾等)の日本帝国主義のくびきからの解放。
●ソヴィエト連邦および中国革命の防衛 」 (『コミンテルン・ドキュメント』Ⅲ、現代思潮社刊)
いかがでしょうか?
最も重要なのは、「戦争反対」を唱え、そこから「内乱へ転化せよ」という部分です。
つまり、口では「戦争反対」と唱えながら、私たち日本の世論を分断し、そしてそこから「内乱へと誘導しなさい」って事なんです。そして、「共産革命」を起こせ、と。これが「三二テーゼ」の主旨です♥
これは、現在も継続されています♥
現代の日本共産党も、同じ考えを持って活動している「テロ政党」です♥
だから、日本共産党は現在でも公安の監視対象なんです
先程の「三二テーゼ」でも、良く分かると思いますが、共産主義者の考えている事は、すべて革命思想です。
つまり、他人の「皮(革)」を剥いで「命」を奪い、その財産を強奪する思想です。
それでは、ここで、基本的なクイズです。
(問1)憲法改正に何故あれほど頑なに反対する人たちが存在しているのか?
(問2)日本が自衛のための国軍を持つことに何故反対する人たちが存在しているのか?
(問3)彼らは何故、旧ソ連や中国について、一切批判しないのか?
ヒントは、「三二テーゼ」と呼ばれる「日本共産党の任務」です。
答えは、憲法改正させないのは共産主義者に都合が良いからですね♥
だって、国軍を否定する願っても無い憲法ですから。共産革命がやりやすくなるんです。
自衛隊の行動を縛ったり、自衛隊そのものに反対するのも、共産革命の邪魔になるからです。
旧ソ連や、特に現在の支那は共産主義者の仲間・共産党仲間ですね♥
いかがでしょうか?
そんな革命政党・日本共産党がいまだに存在し、愚鈍な民主党もほとんど同じ主張をしていますね!
後ろでは繋がっているんですね、きっと♥
正体バレバレ!【SEALDs主催】「戦争法案反対」デモに山本太郎・菅直人・有田芳生・志位和夫・小西裕之・赤旗・維新の党集結!
渋谷には「赤い」バカモノがいるw
SEALDsとは、【民青、過激派、在日、チンピラの連合軍】のこと。
SEALDsは、【全労連=共産党系の労組】の街宣車を使っています。つまり、SEALDsは、共産党の下部組織です。また、SEALDsに参加している若者のかなりの部分が共産党の青年組織であることも公の事実です♥デモを仕切っているのが日本共産党系の青年組織「民青」(日本民主青年同盟)であることもバレちゃっています♥
SEALDs奥田愛基「全労連さんから車を借りたのは事実ですが、たまたま車が空いていたから。」
「在日4世で参政権がない。でも政治に声を上げたい」「戦争法案許さない」SEALDs声上げ
SEALDsは就職できなくてふるえる・左翼活動家や共産主義テロリストが就職できないのは事実
法政大学の中核派の女テロリスト 洞口朋子(26歳)
貴重な画像はこちらからお借り致しました♥
↓
5寸釘の女、まあ、なんていうことでしょう、ビフォー、アフター。
続きは次回に♥
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Re: No title * by みっちゃん
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